3.キミが消えてしまうその時まで

アシモフの理論

 外光を取り入れる設計はなかなかハイセンスだけど、僕にはあまりにも広い空間だなと思う。だからこの教室はあまり好きじゃない。


「細胞増殖に関わるシグナル伝達の阻害、つまりはそういうことです」


 臨床薬理学、この手の分野に供給される研究資金は、縮小の一途をたどっているし、年を追うごとに聴講する学生も少なくなっている。時代は一般意志の偏りのない抽出とデータベース化、それに基づく正義の執行……。生命科学や医科学が解決できる問題は、もうそう多くは残されていない。


「ドローンの内核、僕らは単にコアと呼んでいますけど、そこではある物質が異常に増殖していることが明らかになっています。もちろん、ドローンの内分泌学的、生化学的研究はまだまだ十分には行われていませんけれど……この構造式を見てください」


 教室の正面にある巨大なモニターには、一つのベンゼン環にヒドロキシル基がいくつか結合した炭化水素の構造式が浮かび上がる。


「とてもシンプルな構造ですけど、ヒトに存在する、ある物質と類似構造をとっていることが分かります。その物質が何か、分かる方いらっしゃいますか?」


 インタラクティブな授業というものに個人的には少し憧れがあったりする。学びは受動性よりも能動性の中で駆動させた方が単純に楽しい。それが良いことなのか、悪いことなのか、僕は教育学の専門家ではないので良く分からないけれど、聞いているだけの授業はやはり退屈してしまう。とはいえ、この授業のテーマがそのものが退屈という、根本的な問題はあるかもしれない。静まり返る教室を眺め、思わず苦笑して話を続けることにもだいぶ慣れた。


「その物質は……」


 僕が話し始めたタイミングをまるで計っていたかのように、教室の後ろに座っていた少女が手をあげ立ち上がった。


「アドレナリン……。先生、それはアドレナリンに似ている」


 それほど大きな声じゃない。でもしっかりした声だ。彼女のことは良く知っている。長瀬奈津ながせ なつ。アドレナリンに似ているなんて彼女には分かりきっていたことだろう。なぜこの場で発言したのか……。それを僕に考えさせるのが彼女の性格なんだけど。


「そう、アドレナリンによく似ている。ドローンの攻撃性の高さは、あるいはヒトでいう理性的な何かが欠けているのは、体内で大量に産生されるこのアドレナリン様物質に起因していると考えられています。実際、それを支持する実験的研究は数多く報告されていて、現時点で一番有力な理論的仮説となっています」


 ドローンがなぜヒトを襲うのか。この国はそうした根本的な問題への対処よりも、ドローンの強制排除に方針を切り替えた。国家経済産業局と田邊重工株式会社の共同プロジェクトで開発された人型一般意志執行インターフェイスエンフォーサーはドローンに壊滅的なダメージを与えるに有効な手段として、そのエビデンスを構築しつつある。そんななか、僕の研究業績は相変わらず非臨床試験どまりで実用化の目処なんてまるで立っていない。


「ソラゾミブはがん治療で用いられるような分子標的治療薬と同じようなものです。チロシンキナーゼを阻害することによりドローンの体内コアにおけるアドレナリン様物質の生合成を強力に阻害します。ただソラゾミブの消失半減期は短く、薬物動態学的シミュレーションによれば、一日に三回の投与が必要であるとされています」


 理論的には正しくても現実には外骨格とマウスの融合個体にソラゾミブを投与して、やや攻撃性のスコアを低下させることができた程度。そもそもヒトでいうところの理性みたいなものを保ったまま、攻撃性を制御できるかどうかが実用化の肝だというのに、マウスでの実験結果しかないのだから、エビデンスと呼ばれるものからは程遠いい。


「やあ、久しぶり……でもないか」


 講義を終え、閑散とした教室を出ると、廊下には御堂武みどう たけしの姿があった。ピシッとした細身のスーツをまとい、その襟には経済産業局のエンブレムが遠慮がちに光を放っている。


「先週、会ったかな」


 御堂とは大学時代の同期だ。工学部出身の彼は博士後期課程終了後、田邊重工株式会社のシステム開発部へ就職。その一年後にはエンフォーサー稼動プロジェクトのコアメンバーとなり、現在では経済産業局公安部課長補佐なんて肩書を持っている。俗にいうエリートってやつだけど、彼からはエリートが放つ独特の空気は感じない。


「今、話いいか?」


 御堂の話はもう聞き飽きたが、このまま帰ってくれそうにもないので、付き合うことにした。僕は黙ってうなずくと、窓際の壁にもたれ、自分の講義資料をぱらぱらめくる。


「なあ、稲守。お前の研究は素晴らしいと思うよ。でもな、もうそういう段階じゃない。時間との戦いなんだ。人類が生き残るためにはさ」


 ドローンの変異を目の当たりに、人類は進化と呼ばれる現象を史上初めてリアルタイムで経験した。ダーウインの仮説は、皮肉にもヒトの淘汰という状況の中で証明されてしまったのだ。


「わかっている。でも僕はヒトと機械が共生できる可能性について考えたい」


 経産局の機密事項ファイルによれば、ドローンはヒトと、人工知能に接合された金属分子が融合することによって生まれた生命個体だとされている。つまりドローンと呼ばれる何かは、かつてヒトだったのだ。ヒトがヒトである理由を探究すること、それは学問の根本問題でもあると、僕はそう思っている。ドローンと共生できる社会が重要なのではない。むしろなぜ共生できないのかについて知る必要がある。


「アイザック アシモフの小説を読んだことがあるかい?」


 僕は講義資料片手にうつむいたまま首を振る。古典が好きな御堂のことだ。どうせ古代の作家か何かだろう。


「第一条。ロボットはヒトに危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、ヒトに危害を及ぼしてはならない。第二条。ロボットはヒトにあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。第三条。ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない」


「何だよそれ」


「アシモフの小説に登場するロボット工学三原則さ。いいか、稲守。アシモフはなぜこの三原則を掲げなければならなかったのか考えてみるといい」


「お前の話はいつも回りくどい。いったい何が言いたいんだ?」


「ロボットがヒトに危害を加えてはいけない、という第一条件を設定しなければならなかった裏には、ロボットはヒトに危害を加える、という前提がある。つまり、機械には潜在的な悪がまとわりついているということさ。ロボットを自然状態に放置すれば、そこに宿るのは必然的悪意。この世界は潜在的な悪意に引きずられる傾向性がある、あるいはそういうことかも知らんな」


「それを言うならヒトだって同じじゃないか。破壊の先にあるものが善意だっていうのかい?」


「こちらとしてはいつでも君を歓迎したいんだ。喧嘩を吹っ掛けるつもりはないよ。僕は君の能力を信頼しているし、とても評価している。気が変わったらいつでも連絡してくれ」


 そう言って御堂は、僕の肩を軽くたたくと、誰もいない廊下を静かに歩いていった。


 御堂と別れた後、彼とは反対方向に歩みを進める。廊下の窓は徐々に少なくなり、天井の薄明りだけが構内を照らす区画に入ると自分の研究室が見えてくる。


 『第Ⅱ臨床薬理学研究室』という室名の下に『稲守亮いなもり りょう』という自分の名前のプレートが貼り付けられている。今や時代遅れの研究室となったこの部屋に、研究スタッフが豊富配置されているわけもなく、基本的には僕一人の空間……。


「先生、遅かったね。どこ行ってたの」


 いや、助手のような学生がもう一人。アドレナリンの少女、長瀬奈津ながせ なつだ。応接スペースのソファに腰を掛け、知らぬ間に持ち込んだ自分専用のマグカップでコーヒーを飲んでいる。


「長瀬。今日は実習の日でもないのに。用が無いのなら帰った方がいい」


 彼女は不満そうに口元をゆがめると、マグカップをガラステーブルの上に置いた。


「ボクは長瀬じゃない、奈津。先生にはそう呼んでほしい」


 そんな奈津の言葉をやや無視しながら、僕は自分のデスクの前に置かれた椅子を引く。椅子の背もたれに深く腰を掛け、デスクトップのモニターを眺めながら、回転式の椅子を左右に揺らしてみる。


 端末のモニターには1日の実験データが継時的に表示されているけれど、この数か月、何の変わり映えも無い。それは別段悪いことじゃない。ソラゾミブを投与されたマウスたちは生存期間中央値を縮めることなく攻撃性スコアの有意な低下を示しているからだ。


「イヌを使った実験申請の許可が下りたよ」


 大学側もそんな実績を無視するわけにもいかず、本格的な動物実験の開始を許可してくれた。


「そう。それは良いこと? 悪いこと? 」


「さあ、少なくとも動物の命を利用させてもらうことには違いないから」


 倫理学は僕よりきっと御堂の方が詳しい。「そう」という奈津の声が真後ろで聞こえたその瞬間、世界がぐるっと回る。彼女が僕の座る椅子の背もたれをつかんで180度回転させたのだろう。


「おいっ」


 目の前にいる奈津は首を少しかしげると、まるでいたずらっ子の少年のような瞳をして、僕の膝の上に乗りかかってきた。


「やめろって」


「先生、嫌い? 」


「大人を……」からかうんじゃない……なんて言う前に奈津の指が僕の口を塞ぐ。


「ボクは子供じゃないので」


 僕の唇に触れる奈津の指の感触が、彼女の唇に変わったのは、ほんの一瞬の出来事だった。


――act.1:『アシモフの理論』

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