世界があるという神秘
緊急用エレベーターと呼ばれたこの小部屋は、上層に向かって鉛直方向に進んでいる。初めての経験だったけど、それは体感的にも理解できたし、扉の左わきに設置されている電光掲示パネルに表示されている数字が、上層へ向かってゆっくり点滅していることからも間違いないと確信できた。
数字の点滅が最上層を意味するであろう場所に近づくにつれて、エレベーターはゆっくりと減速していくようだった。自分の体重がまるで消えていくように、足元にふわっとした感覚がまとわりつき始める。
ブレーキが作動しているのだろうか、キュルキュルと音を立てながら、やがて足元の違和感が少しずつ消えていくと正面の扉が開いた。僕はレシアスを両腕に抱えエレベーターから降りた。目の前はやや広いコンコースになっているが照明は相変わらず薄暗く、壁も無機質な灰色でコクーン、いやゲゼルシャフトとそれほど変わらない建造物の中にいるように思えた。
「ここは、本当に外の世界なのだろうか……」
ヒトの気配が全くないコンコースに鳴り響くアラーム音に驚き、後ろを振り返ると、エレベーターの扉が自動で閉まった。
両腕に抱えたレシアスの体は想像していたよりもはるかに軽い。レシアスの機動力の高さはその軽量化されたボディにあったのだろう。
僕は真っ直ぐに歩みを進めた。響き渡る靴音が複雑に反響していて、ここがゲゼルシャフトとは全く異なる物質で作られた建造体なのだと気づかされる。
コンコースを抜け、レシアスに言われたように正面の通路をさらに進んでいくと、程なくして、田邊重工株式会社のエンブレムが描かれた巨大な扉が見えてきた。扉の前はエントランスになっていて、いくつかソファのような椅子も置いてあるようだ。
僕は隅のソファに動かなくなったレシアスを仰向けに寝かす。あどけない表情で瞳を閉じている彼女はヒトそのもの……。まるで眠っているようだ。なぜエンフォーサーをヒトそっくりに作ったのだろうか。ドローンのように金属の不均一な塊でも任務を遂行できれば問題ないはずなのに。ヒトでないものをヒトが受け入れ、共に生活することは潜在的に困難、あるいはそういことかもしれない。
レジアスから受け取ったカードで扉のセキュリティは難なく解除された。内部に入ると照明と空調設備が自動で起動していった。
「電気は来ているようでよかった……」
部屋全体が緩やかな階段状になっていて、通路は上へ続いている。階段状の通路両側には沢山の机が整然と並んでいて、それはまるで巨大な講義室のようだった。机の上には座席ごとにコンピューター端末が設置されている。
階段状の部屋を登りながら奥に進むと、徐々に空間が明るくなっているのが分かる。別に天井の照明の数が増えているわけじゃない。どうやら光は外部から差し込んでくるようだった。
「これが……≪世界≫ なのか………」
部屋の奥にある壁は限りなく透明に近い部材でできており、外界をそのまま望むことができるようになっていた。地上よりもはるか上空にあるのだろう。この部屋からは果てしなく続く ≪世界≫ を一望することができた。
「どこまでも壁がない……」
そう、それは圧倒的に広大な空間だ。でも、僕の瞳に映るその光景は、青い ≪天≫でもなく、そして茶色と緑の複雑に絡み合った色彩豊かな ≪床≫ でもなかった。
灰色の ≪天≫ からは鈍い光が差し込んでいて――もちろんコクーンの天井に備え付けられた照明よりは明るかったけれど――その光が地上に散乱している金属のかけらのようなものに反射している。ドローンの部品なのか、あるいは何かの施設が破壊された後なのか、瓦礫が延々と大地に広がっているだけの無機質な世界。当然ながらヒトらしき生命体は皆無だった。
僕にとっては、この ≪世界≫ が、どのようなあり方をしているかは、さほど神秘なことではなかった。神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのこと。≪世界≫ があるということ、その存在そのものが神秘。僕らは明確な理由も与えられず、なぜだか存在してしまっている。でも、その存在の器である ≪世界≫ が目の前にあればそれで十分じゃないか。
窓際から離れると、僕はレシアスから受け取ったアイデンティフィケーションカードをズボンのポケットから取り出し、後方を振り返った。巨大な部屋全体に机とコンピューター端末が設置されている光景は壮観だ。
僕は一番近くにある椅子に座ると、茶色の机の上に設置されたコンピューター端末に触れてみた。モニターが点灯し、ハードディスクがウインと音を立ててゆっくり起動する。オペレーションシステムのシークエンスをモニター上で確認して、僕は美郷から預かっていたメモリーチップを端末のアクセスポートに接続した。
同時にモニターには『映像データ、53件を検出しました。再生しますか? 』と表示され、僕は迷わず再生を指示する。
『警告。最重要機密事項の識別コードを検出しました。データの閲覧記録は経済産業局特殊執行部、並びに田邊重工機密事項管理センターへ報告されます』
誰もいない巨大な室内に響く無機質な端末のオペレーション音声は警告と言いつつも、何も警戒する要素を孕んでいない。僕は、モニターを眺め、そのままタスクの継続を指示する。
『ログイン認証が必要です』という音声と同時にメモリーチップが差し込まれているすぐ下のアクセスポートが青く点滅した。僕はレシアスから受け取ったカードをそこに挿入すると、コンソールを操作しながらログイン認証メニューを開く。
『使用許諾確認……』
モニターにはタスク処理の進捗を示すバーが表示されるが、照合にはそれほど時間がかからなかった。あっという間に100%を示す表示が映し出されると、先ほどの無機質な音声が端末の小型スピーカーから発せられる。
『稲守亮、経済産業局登録技官一級。適正ユーザーです。画面のチュートリアルに従って、必要なタスクを実行してください』
端末でアクセスできるフォルダの一覧が表示され、僕は美郷が見つけた映像ファイルの中から、いくつかのデータにチェックを入れ、再生をスタートさせた。
――act.8:『世界があるという神秘』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます