特殊意志という驚異

『ユーザー認証。使用許諾確認……』


 機械的な音声が突如として無音の室内に響いた。それは決して大きな音ではないのかもしれないけれど、静寂した空気を冷たく震わしていく振動は、ヒトの感情に訴えかける強い力を持っている。


「ヒトが消えていなくなること、そこに宿る悲しみという感情がボクにはよく分からないんだ」


 絶望と希望の境界を作り出した目の前の壁から視線をそらし、僕は声がした方へと、ゆっくり振り返る。エンフォーサーは ≪始まりの部屋≫ のほぼ中央に置かれた大型のコンソールを操作していた。モニター画面から発せられる青白い光が彼女の横顔を照らしている。タッチ式のパネルの上を滑らかに動いていく彼女の指先が、画面と接触する度にカタカタとリズミカルな音を立てていく。


「なぜ……扉を……」


 確かに桜木は助からなかったかもしれない。医学的な知識がない僕でさえ、一目見て彼女の状態が致命傷だと分かった。だから、『なぜ?』と問う方がおかしいのだと、そんなことは分かっている。それにもかかわらず、僕の腹の底から突きあがって心を締め付けていくようなこの感情を、どうやり過ごせばよいのか分からないんだ。


――言葉にするより他ない。


 悲しみという感情が分からない? 僕から言わせれば、感情というものは分かりたくなくても、向こうから勝手に迫ってきて、許可もなく心を侵食していく何かだ。


 扉の向こうで桜木は何を想ったのだろう。無情にも閉じられる扉を前に、どんな感情をこちらに向けていたのだろうか……。


『経済産業局登録エンフォーサー。レシアス級118a-5。適正ユーザーです』


 僕の感情に答えるかのようなタイミングで、コンソールから機械的な音声が発せられる。エンフォーサーは何かの設備を稼働させようとしているらしい。


「ヒトもエンフォーサーも、そしてドローンさえも、いつか消えていなくなる存在。そうでしょう?」


 そう言って彼女はコンソールから目を離し、ただ立ち尽くしているだけの僕に顔を向ける。青く光る大きな瞳の奥にを感じて僕はハッとした。この子も感情に襲われているのだと。それはきっと悲しく苦しいものなのだと。なぜだかわからないけれど、そう確信した。


「存在の消滅。それが早いのか、遅いのか、そういう問題はあるかもしれないけれど……」


 そう言って彼女は再びモニター画面に目を落とす。そう、ヒトはいずれ死ぬ。機械もいずれは壊れるだろう。主体的思考は永遠ではないのだ。だけれど、それははたしてという問題に帰着できるのだろうか? 


 所詮、エンフォーサーはただの機械に過ぎない。自立した思考を持っていようと、ヒトの感情を僕らと同じようには理解できない金属部品の塊のはずなんだ。


「ヒトでないお前に、存在の意味や価値が分かるとは思えない」


『緊急用エレベーター起動します』


 コンソールから発せられた音声の直後、突如、大きな起動音が鳴り始めた。同時にコンソール奥にある巨大な円筒形の施設に照明が灯っていく。視線を上げれば、その光は遥か上層まで続いているようだ。


「存在に抱く意味や価値はヒトそれぞれ相対的なものであって絶対的なものではない。ヒトの世界はそういう仕方だとボクは理解している。君はこのゲゼルシャフトの外側で、沢山のヒトの存在が一瞬で消滅したことについて、何か価値や意味を見出すのかい?」


「そ、それは……」


「ヒトは見たいものしか見ないし、関心のあるものにしか情動を動かさない。そういう生き物なんでしょう? さあ、おしゃべりはおしまい。行こう」


 何も答えられない僕を振り返りもせず、エンフォーサーは起動音鳴り止まぬ円筒形の施設へ足を向けた。


「見たいんでしょう? 外の世界を?」


 そう言って彼女は壁に備え付けられている小型端末に手をかざす。


 運命があらかじめ定まってるのだとしても、常にそれに抗い、希望を探し続けるのがヒトなんだと思う。でも、その抗いの先にあるのが希望とは限らないことも多い。ヒトを取り巻く世界はとても理不尽だ。そして死というのも理不尽さの一つなのだといえる。 死には“どうしようもなさ”が常にまとわりついているから。


「ヒトの関心がどうあれ、大切なヒトが世界から消えてしまうことは単純に悲しいことだ」


 単純さはある意味で絶対性を規定する。大切なヒトが消えてしまうことはおそらく絶対的に悲しみをまとっている。それは死にゆく側にとっても、死を見届ける側にとっても。


「早くしないと、ボクの限界が来ているみたいだ」


「限界?」


 いつも冷静なエンフォーサーの声が少しばかり動揺しているのに驚いた。


「うん。ボクは起動限界を既に一年近くオーバーしているんだ。その間、ろくに整備も受けていない。そのうえ、脚部の駆動アクチュエーターと主電源回路に損傷を受けてしまった。今は予備電源で稼働しているけど、もってあと一時間というところさ」


 存在は常にそこにあるものと錯覚する。それが希望であれ、絶望であれ……。


 円筒形施設の内部は小部屋のようになっていて、壁はコクーンとは対照的で真っ白だ。天井に灯る照明の光が壁に反射して少しだけ目がくらむ。部屋に入ると、自動で扉が閉まった。


「鉛直方向の慣性力に備えて」


「えんちょくほうこうのかんせ……」


 一瞬エンフォーサーが何を言ったのかよく聞き取れなかったが、やがてその意味が良く分かった。足元がふわっとしたかと思うと、急に上から強力な圧を感じ、僕は思わず床に膝をついてしまった。まるで上から何かを押し付けられているかのように。背中をかがめてやり過ごしていると、徐々に圧は和らいでいき、やがて何も感じなくなった。


「相対速度同期システムは正常稼働している。大丈夫、これで無事にゲゼルシャフトから脱出できるよ」


 そいったエンフォーサーはうつむいたまま白い壁にもたれかかる。


「大丈夫か?」


「ああ、まだ少しね。そうだ、君に伝えておかなければいけない。君が持っているそのメモリーチップは田邊重工本社区画にあるシステム開発部の端末で閲覧可能だと思う。このエレベーターはその区画まで直通で行けるよう設定したから道に迷うことはないはず」


「田邉重工?」


「エンフォーサーの開発やゲゼルシャフトを建造したもの田邊重工。ここに会社のロゴが入っているでしょう?」


 そう言ってイーリスと彼女の右腕の接合部を指さす。それは≪始まりの部屋≫の扉裏側に描かれていたものと同じだ。姿勢を変えたためか、彼女は体勢を崩し、そのまま床に倒れ込んでしまった。


「あんまり無理しなくていい。あとは何とか自分でやってみるよ」


 僕は彼女をの背中を支えるようにして上体を起こした。初めて触れる彼女の体は思ったよりも軽く、そして温かかった。


「セキュリティー解除には、これが使える」


 すっかり起動速度が遅くなってしまった彼女の手から一枚のカードを手渡された。小さな長方形のカードだがやや分厚い。表面には見たこともない男性の顔写真と、彼の名前や所属らしきものが記載されていた。


稲守亮いなもりりょう……」


「ボクを名前で呼んでくれた唯一のヒトだよ。経産局の1一級整備技官だった」


「名前?」


「ボクの固有呼称はレシアスと名付けられている。自己紹介が遅れてごめん。まあ、もう正直名前なんてどうでもよかったんだけどね……。そのアイデンティフィケーションカードがあれば、インターシティ-内のセキュリティーはほぼ解除できるよ。電源さえ来ていれば……だけど」


 彼女はそう言って、僕に初めて笑顔を見せた。


「レシアス……。すまない。もう一つだけ聞いてもいいか?」


「ああ、良いよ」


 彼女の起動限界が目前なのだと言うことは分かっていた。でも僕はどうしても知りたかった。こんなにも理不尽に命を奪っていくドローンという存在について。


「ドローンはなぜヒトを襲うんだ?」


「ドローンとエンフォーサーは本質的には似た者同士さ。どちらもヒトの意志というプログラムに基づいて行動している」


 本質的には同質のもの……。ヒトの意志がヒトを殺傷して、他方でヒトを助けて。それはなんとなく分かるような気もした。


 コクーンで暮していると、ヒトに特別な感情を抱くことが少ない。だから他者にあまり関心を抱かない。だけれど、ヒトはその歴史の中で幾度となく争いを繰り返してきたことを僕らは端末を介して学んだ。その時は、なぜヒトがヒトを殺傷するのか理解できなかったけれど、あのドローンがコクーンを殲滅した状況を見て分かったんだ。ヒトの意志は潜在的に欲望にあふれていて、それはむしろ邪悪なものに近い。ヒトを殺すのも、ヒトを助けるのも、いずれにせよ欲求という名の行動原理に支えられている。


「ヒトの意志……か。ありがとうレシアス。もう大丈夫だから……」


 レシアスの青い瞳が徐々に光をうしなっているのが分かる。間近で見たその瞳は青く澄んでいてとても綺麗だ。


「いや、大事なことだから伝えておくよ。ドローンの行動原理を支えているのはヒトの志だ」


「特殊意志……」


「特殊意志とはヒトの欲望そのものだよ。妬み、嫉妬、憎悪……。ドローンの振る舞いを規定しているのはヒトの欲求そのものだと言い換えても良いさ。そしてボクらエンフォーサーはそんな特殊意志の脅威からヒトを守るために作られた。エンフォーサーが従うのはヒトの一般意志。ボクらはヒトの感情や思考を情動アクティビティとして抽出し、それを行動原理としている。ただ、その詳細については残念だけどボクには知る権限を与えられていない。もしかしたら、君の持っている映像ファイルに手がかりがあるのかもしれない。いずれにせよ、自分の目で確かめた方がいい」


レシアスはそこで一呼吸置くとゆっくりと話を続けた。


「このゲゼルシャフトはヒトの自然状態を観察するために作られたといわれている。際限のない富に囲まれた環境で、振舞いを縛る法もルールもない中、ヒトはいったいどんな行動原理を生み出すのか。特殊意志の位置づけは自然状態においてどこに存在しうるのか、ドローンの行動原理を客観的にデータ化する実験施設だったんだ」


「だった……?」


「うん。すでに実験を統括していた関東インターシティーはドローンにより排除されている。いや、もう関東平野にヒトそのものが存在していない。その悲劇の間際に人類存続計画の一環としてゲゼルシャフトが利用された。君たちがそもそも実験体だったというのはそういうことさ」


 ドローンを一撃で破壊するイーリスでさえもコクーンの壁を傷つけることができなかった。そんな堅牢な施設が滅亡に瀕した人類を、わずかでも存続させるために利用された。まさにシェルターとしての機能を割り当てられた世界で、僕らは目覚めたんだ。


「そういえば、君の名前を聞いていなかったね」


レシアスの青い瞳が徐々に灰色を帯びていく。


「僕は楓。楓裕也」


「楓裕也、とても良い名前だ。明日が来ないことの意味がようやく分かった気がするよ」


イーリスに灯っていたピンク色のスタンバイランプが消えていく。


「君の情動アクティビティは彼にそっくりだった。最後に君に出会えてよかった。名前で呼んでくれてありがとう」


微かな駆動音が途絶すると同時に瞳の青色も消えた。


「ありがとうレシアス」


――act.7:『特殊意志という驚異』

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