天から舞い降りる黒色の悪魔
ヒトはこのコクーンの外側でも確かに生活を営んでいる。美郷が拾ってきた映像ファイルに映し出されていたものがヒトだというのであれば、おそらくはそういうことなのだろう。でも、僕たちにとってはコクーンの内側の空間が全てであって、外側の≪世界≫なんてものは、非現実に近いものであり、それは存在しないも同然だ。
≪始まりの部屋≫ から訳も分からず出てきた時は、この空間の外側を知りたいと思った。この建造体には、その手がかりをつかめそうな端末まで設置されてある。でも答えを求めようとすればするほど、答えらしきものから遠ざかっていくんだ。現実は壁の内側にしかない。そういう
灰色の壁が最初は窮屈に感じた。低い天井にむき出しの通気ダクトを見て、僕らは不自由だと思った。でもいつしかそれが当たり前の生活となり、この空間は僕らの一部として溶け込んでいく。
「楓くん? なんか久しぶり」
物品倉庫の食糧区画で今日明日の食材を探していた僕に声をかけてきたのは、
「ここのところ部屋にこもりきりだったし……。」
彼女は僕よりもやや年下に見えるが、ここに住んでいる皆が自分の年齢に関する情報を明確な形では持っていない。僕は、天井まで続く棚の中断から、灰色の固形食糧をいくつか掴み取り、それを無造作に鞄の中に入れる。この倉庫に陳列されている食料を総じてレーションと呼んでいるが、実に様々な種類があった。暖めることによって、固形物が軟化し流動性を帯びるものや、ある程度、固形状の形を保つものもある。それぞれに味が違ったりするわけだけど、あまり食に興味のない僕は、いつも灰色のレーションを選んでいる。
「この水色のレーション、この間食べたんだけど、なかなかおいしかったよ。どう?」
そう言って桜木が差し出してきたのは、ふにゃふにゃした水色のパウチで包まれたレーションだった。目の前に突きだされたそれは、物品倉庫の薄暗い照明に照らされながら、僕の目の前でぐにゃりと曲がる。きっと流動性の食材なのだろう。しかし、水色の得体のしれないものを食べるというのはなんとなく気が引けた。まあ、色で味を判断することはできないし、それを言ったら僕が選んだ灰色の固形物も得体のしれないもののうちに入るかもしれないのだけど……。それでも見た目に受けてしまう生理的な嫌悪感は隠しようがない。
「いや……、大丈夫だよ」
そう言って僕はレーションを詰めた鞄を閉め、それを肩に背負いながらゆっくり立ち上がり、薄暗い食糧区画の出口へと向かった。
「ねえ、今度、一緒にご飯を食べようよ」
さっきから足音が聞こえるので後をついてきていることは分かっていたけれど、彼女は無遠慮にも僕の真横に現れる。なんとなく面倒くさくなって何も答えずにいると、彼女はややふて腐れた顔つきでこちらを見上げ、「ねえ、楓くんは居住階層の何番地に住んでるの?」と聞いてくる。
なんとなくこの距離感が苦手なんだ。とはいえ、答えないとさらに不機嫌になりそうだったので、仕方なしに「三十三番地」と答える。嘘でもないが、普段は探索棟にいる時間の方が長いので、あの部屋に来たところで誰もいないことが多いだろう。
なんとなく空気を悟ったのか、桜木はそれから何も話しかけてこなかったけれど、相変わらず僕の横に並んで一緒に歩いている。衣類区画、そして備品区画を過ぎたころ、僕も少しこの空気に耐えられなくなってきた。
「なあ、いつまでついてくるんだ?」
そう声をかけた途端、桜木はいきなり僕の右腕に抱き着いてきた。
「お、おいっ」
腕をつかむ桜木に視線を向けると、彼女は前方を指さしていた。
「裕也……」
目の前に立っていたのはピンク色のかごを持った結良だった。おそらく結良も食料を調達しに来たのだろう。
「お、おお」
僕はぎこちない挨拶をすると、あわてて桜木の細い腕を振りほどく。そのしぐさに妙な違和感がとりつき、余計に怪しい空気を醸し出してしまった。
「仲が良いのね」
結良は無表情でそう言うと、僕らを何事も無かったかのように通り過ぎていく。
「ち、ちがうって」
物品倉庫の奥へと向かう結良の後ろ姿に声をかけるが、彼女はそのまま薄暗い闇に消えてしまった。
「楓くん、彼女のこと好きなの?」
上目づかいで僕を見上げる桜木の顔は不気味な笑みに満ちていた。
「は? もう、いい加減にしろって」
僕は顔をしかめると、眼だけが笑っていない彼女の不均質な笑顔を薄暗い倉庫に残して、足早にその場所を立ち去った。
★
自分の部屋に戻っても、なんとなく気分が優れず、僕は食べかけのレーションを机に残したまま、探索棟に向かうことにした。少し気晴らしになるように思ったし、たぶん、美郷もまだあそこにいるだろう。あいつはいつだって ≪世界≫ を知りたがっている物好きな奴だ。でも僕はそんな彼が嫌いじゃない。少なくともこのコクーンの豊かさに慣れ親しんで、ただただ時間を消費しているだけの生き方なんかよりもよっぽどましだと思う。豊かさは苦しみを軽減するかもしれないけれど、必ずしも幸せをもたらすようなものではない。
『片手で数え切れるほどの希望しかなくても、それに気づくことができれば、きっとそれは幸せなことだよ』
結良の言葉に何度救われただろう。この虚無的な空間で時間を消費するということは豊かさの中にある絶望のようなものだ。
部屋を出て狭い廊下抜け、上層へ向かう階段を上っていく。靴音が建造体に響いてこだましている音が、今の僕にのしかかる孤独の影を強めていく。階段が張り巡らされているこの狭い区画は、音をとてもよく反響するんだ。何度か折り返しながら上へと登って行くと、探索棟に続く階層のさらに上層から黒いスカートと、そこから延びる細い足が見えた。
「結良……」
いつもの場所で≪天≫を見上げる彼女の姿には不思議な魅力が宿っている。僕は無意識に結良のいる最上層へ足を向けていた。階段を登る途中、キラキラ光る小さなチリのようなものが目の前に舞い降りてきて、僕は思わず足を止め、手の平でそのチリを受け止める。例の金属片だ。
「今日は数が多いの」
床に寝そべり、天を見上げる結良に、ゆっくりと降り積もっていく微細な金属片は、コクーン下層の照明に照らされ、幻想的な空間を描き出していた。僕も闇を見上げる。
「あのさっきの……」
「うん、わかってる。あの子、ああいう子だから」
僕が言いかけると結良は察したようにそう言ってくれた。後ろめたさがスッと消え、心が軽くなった様な気がした僕は、≪天≫をもう一度見上げる。
「なんだか、すごいな。こんなに降ってきたこと、これまであったろうか」
いつだったか、美郷が端末から探してきた≪雪≫と呼ばれる気象現象のようだ。灰色の天空から水がこぼれ落ちてくることを≪雨≫、その水が冷却され、個体状の結晶となったものが≪雪≫なんだそうだ。真っ白な水の妖精は、わずかな反射光で宵闇をも白く照らすのだという。この光景はそんな画像で見た景色に近い。
僕は最上層の手すりにもたれて目の前の光景に見入っていた。誰が何のためにこの区画を作ったのか、そんなことはどうでもよいと思った。この幻想的な空間を眺めるために作られたんだよ、と説明されても十分納得できてしまうほどに美しい。
「裕也、あそこ。赤い何かが点滅している」
結良はそう言って、ゆっくり起き上がった。彼女の指さす方向に目を凝らす。確かに赤い光がゆっくり……、いや徐々に点滅の速度が上がっている。
「あの光、大きくなっていないか?」
「ちがう……」
あっという間だった。赤い点滅はどんどん大きくなり、コクーン下層から漏れる光は真っ黒なヒト型の何かを映し出していた。
「あれは……」
思考が現実に追い付かない。目の前に舞い降りたそれは、よほどの重量なのだろう。ガクンと床をへこませ、自身も足を折り曲げ着地のショックを吸収させているように見えた。僕らよりはるかに大きいその機体はヒト型をした金属の塊と言った方が良い。背部と思われる場所から翼のようなものを折り畳み、頭部をこちらに向け、赤い光を何度か点滅させている。先ほどから見えていた赤い点滅はこいつの視認システムか何かなのだろう。
「結良、逃げよう……」
身の危険を感じた僕はすぐ前に立ち尽くしている結良の肩を叩きながらそう叫んた。しかしその瞬間、黒いヒト型の金属塊はいきなり飛び跳ね、結良の目の前に着地した。同時に両腕のようなものが背部に回り、背中から僕の身長ほどもあろうかと思われる細い金属の棒のようなものを取り出して、それを結良に向けて振り下ろす。
一連の動作は一瞬だったけど、僕の額に降りかかる生暖かい血しぶきや、少し間をおいて、倒れ込んでいく結良の後ろ姿はとてもゆっくりだった。
――act.3:『天から舞い降りる黒色の悪魔』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます