無意識のシグナル
玄関というほどでもない小さなスペースに靴を脱ぎ、僕は自分の部屋へ通じる廊下へと向かう。途中、鈍い銀色を放っているシンクと、やや小さめのコンロが並んだキッチンスペースを抜け、階段を少し降りると居住スペースがある。
部屋には金属製のベッドと、その上に敷かれた青いマット。その向かいに置かれているのは小さな机。壁には
机の下にある冷蔵棚から缶コーヒーを取り出すと、それを片手に持って机の前に座る。
「この空間で生きていくこと。それが僕らの定め……」
コーヒーを一口飲みこむと、少しだけ苦みを帯びた空気が鼻を抜けていく。僕らはこのコクーンについて、いろいろな事を調べてきた。端末で入手できる情報は限られていたけれど、それでも≪世界≫の存在にとても魅力を感じたんだ。きっと、結良も美郷もそうだったんだと思う。でも僕たちはどうしてもその存在に触れることができない。この世界について、これ以上の知を得ることは、もはや絶望的と形容されるべき何かだ。もう、どこかであきらめかけている。僕だけじゃなくて皆……。
――日々生活していくうえでは、好奇心による探究なんかよりも、目の前の安定的な現実の方が大事だったりする。
『ある種のフィクション、そう思ってしまうことがあるんだ』
美郷はそういっていた。端末を介していろいろな知を得る。でも、知は必ずしも幸福をもたらし、人生を豊かにするものではない。知は、疑いであり、戸惑いの源泉なのだ。知とは僕らを足早に導くようなものではなく、足踏みさせて、そして苦しませるもの……。
「裕也、画像の解析やってみたけど……」
壁に設置された伝声管から結良の声が聞こえ、僕はふっと我に返る。
「どうだった? あまりうまくいかない?」
彼女の声の様子から、何か大きな手掛かりがつかめたとか、そういうことではないことはすぐに察しがついた。
「とりあえず、解析棟まで来てほしい。見れば分かると思うけど、あんまり期待しない方がいい」
案の定か……。と思いつつ、僕はコーヒーを机の上に置くと、ほろ苦い溜息をつく。
「了解。すぐに行くよ」
解析棟はこのコクーンの最下層にある。もっとも僕らが移動できる範囲の最下層であって、この施設が一体どこまで下層空間を有しているかについては誰も知らない。そして、下層に降りる途中には、≪始まりの部屋≫ がある。その周囲には物品倉庫と呼んでいる空間が広がっていて、生活に必要な物資は全てこの階層で手に入る。
特にルールを定めるわけでもなく、僕らは自然的に物資を分け合い、居住空間を分け合い、時には語り合いながら、あるいは一人で物思いにふけながら、それぞれの時間をこのコクーンで過ごしている。なぜこの生活が淡々と存在するのか、疑問に思う人はもうそれほど多くはない。
居住階層を抜け、≪始まりの部屋≫の前に来ると、僕はいつも背中に冷たい何かが走っていくような奇妙な感覚に襲われる。部屋の扉はいつも閉められていていて、僕らは確かにこの部屋の中から出てきたはずなのだけど、一度外に出ると二度とこの部屋へは入ることはできない。美郷が言うには高度なセキュリティーシステムが動いているんだそうだ。僕は、足早に部屋の前を通り過ぎ、結良のいる解析棟へ向かう。
天井が低い解析棟の通路を奥に進んでいくと右手に、≪仁美
そんなプレートがかかる重たい灰色のドアを開けると、既に美郷も来ていて、二人は解析端末のモニターを食い入るように見つめていた。そんな彼らは僕が部屋に入ってきたことさえも気づかない。
「どう?」
僕の声に二人がこちらを振り返りる。きょとんとしている美郷の顔とは対照的に、結良はものすごく苦いコーヒーを飲んでしまった時のように難しい顔をしている。結良は甘党だ。
「音声も映像もかなり厳しいよ。でもヒトのようなものが動いているかもしれない」
コクーンに居住しているヒトは三十人ほど。みな僕らと同世代だ。だからコクーン以外のヒトを見たことはこれまでにない。もしヒトが映っているのだとしたら、それはそれでかなりインパクトのある代物だ。僕は二人の後ろからモニターを除きこむ。
ノイズはだいぶ消えていたものの、映像が歪んでいて、色彩もグレースケールのままだ。もし映っているのがヒトだとしたら、三人ほどの誰かが、こちらを向いて必死に話しているよう、そんな感じだ。やがて映像が切り替わり、実験施設のような場所が映し出されている。しかしそのすぐ後にまたノイズがひどくなってしまう。
「これ何かの実験の記録なのかなぁ」
美郷がため息交じりにそう言った。彼はため息が多い。いつだったか『幸せが逃げていくよ』と結良にいわれていたが、このコクーンで生活する日々において、幸せってなんだろうか、そんなことを考えてしまう。このコクーンは確かに物資が豊富で、生活に困ることはない。豊かさには事欠かないけれど、たぶん、幸せと豊かさは違うのだと思う。豊かさは幸福とは違い、欠如や過剰を含んでいる。彼のため息は欠如なのだろうか、それとも過剰なのだろうか……。
さっきからモニターはノイズ交じりの実験室のような場所を移し続けている。映像の中で何かが動いているようだが、解像度が悪くて判別困難だ。結良も首をかしげてモニターをにらんでいる。しばらくするとまた画像が切り替わった。
「これは?」
思わず結良と目が合う。さっきの苦虫をかみつぶしたような細い瞳じゃなくて、大きな真ん丸の瞳だ。茶色の虹彩がくっきり浮き上がっていて、とてもきれいな目をしているなと思った。
映像に視線をも戻すとモニターに映っていたのは、おそらく僕らが≪世界≫と呼んでいるコクーンの外側らしき空間だった。上層に広がる灰色は、美郷が拾ってきた画像ファイルのような青い空間とは違うけれど、明らかにコクーンの≪天≫ではない。足元には何か破壊された機械のような金属片が無数に広がっている。
「これなんだろう……」
僕がそうつぶやくと、美郷は「待って、画面の右奥、何か赤い光が点滅している……」と言って、画面の右下を指さした。確かに、赤い小さな光が三つ、四つ、徐々に増えていくのが見える。そして一瞬にして光が画面全体を包むと、そこで映像は途切れてしまった。
「なんなんだ、これは……」
美郷が驚愕している横で結良は冷静を保っている。
「裕也、これなんだと思う?」
そう問いかけられても、分からないと言うより他ない。僕は美郷の肩を叩くと、「なあ、美郷、このファイル、どこで見つけたんだ?」と聞いた。
「ああ、ちょっと待って」
美郷は放心状態という感じだったが、脇に置いてあった自分の鞄を引き寄せると、その中から小型の端末を取り出して起動させた。
「お前、端末を持ち歩いてんのか?」
「ああ、なんかこの端末だけ、持ち歩いてもネットワークにアクセスできるんだ。きっと施設全体に電波のようなものが飛び交っているんだと思う」
しばらくキーボードを叩く音だけが解析室に響く。結良は僕の後ろに回り、美郷が端末を操作している様子を眺めていた。
「これだよ」
そう言って、美郷が見せてくれたモニターには『経済産業局自律型思考システム研究開発センター』と表示されている画面が映し出されていた。
「ちょっと何が書いてあるかよく分からないよね。この中の、えっと……」
美郷はそう言いながらも画面をスクロールさせていく。文字に関する知識は端末情報を閲覧するには困らないくらいあるけれど、モニターに表示されている内容についてはまるで理解不能だった。
「ああ、ここだよ。ここに“データベース”って言うのがあるだろう? いくつかファイルがあったんだけど、回収できたのはあの映像ファイルだけだよ」
「データベース……」
「あれ、≪Ver.2≫ もあるな。この間は無かった気がするんだけど……」
そう言って美郷はそのファイルのダウンロードシークエンスを起動させた。
「やめておいた方が良いんじゃない?」
冷めた表情の結良を尻目に、美郷はキーボードの操作をやめる気配はない。好奇心だけは旺盛な奴だ。程なく進捗状況を示すバーがモニタに表示されるはずだったが、予想に反して画面が急にブラックアウトした。
「どうした?」
「いや、分からない」
美郷の操作を全く受け付けなくなってしまった端末は、しばらくするとハードディスクの唸る音を発して、画面に“reboot”の文字を点滅させた。
「再起動するかってことか?」
「たぶんそうね」
結良のあきれた視線が美郷に突き刺さる。端末の再起動が始まったのか画面には、起動シークエンスが立ち上がり、意味不明な数式が羅列され始めた。
「これはなんだ?」
いつもと全く違う挙動に、さすがの美郷も焦りの混じった声を上げる。そんな彼をあざ笑うかのように意味不明の文字列は次々と画面をスクロールしていく。
「これ、一体何の処理をしているの?」
コンピューター端末にわりと詳しい結良でさえ、この挙動は理解不能らしい。やがてスクロールが止まると、画面に小さく“Emergency start-up signal?”という文字が表示され、その下に数字が表示されている。
「これはどういう意味だ?」
「この数字は……。美郷、カウントダウンだよ。数字が1つずつ減ってる」
「とりあえず何も操作しないのが良いんじゃない? まさか爆発するわけでもないでしょう?」
そんな僕らの会話に冷静に入り込む結良。結局、結良の言うとおり、そのままカウントがゼロになっても何かが爆発するでもなく、美郷の端末はいつもの初期画面に戻った。
「いったいなんだったんだろう……」
――act.2:『無意識のシグナル』
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