2.天を臨む繭の子ら
手の届かない闇に包まれて
「珍しいな、これ……。画像ではなくて、なんだろう」
目の前にある小型端末のモニターを確認しながら、僕は隣の探索棟から送られてきたばかりの添付データを再生している。ノイズにまみれた音声と、判別不能な何かが動いているのは分かるけれど、それ以上のことは良く分からない。データの劣化が激しいのだ。
この狭い部屋には、天井に取り付けられている空調設備が発する振動音なのか、それとも、端末を駆動しているハードディスクの冷却ファンが回転している音なのか、うまく判別できないのだけれど、断続的に機械音が鳴り響いている。無音が苦手な僕にはむしろ居心地の良い空間だ。
「ああ。そうだろう? おそらく≪映像≫と呼ばれるやつだ。ただこれじゃ何もわからないよなぁ。そっちで何とかなりそうか? 」
灰色の壁に取り付けられた伝声管を通じて聞こえてくるのは
「だめだな……。これは
「確かに。俺達じゃ、お手上げか……」
美郷はそう言いながら、ため息をついたのだろう。彼の語尾は、気流が伝声管を抜けていく音にまぎれてよく聞き取れなかった。
僕はメールアプリケーションを開くと、送信者一覧から
「このファイル、なんだかとても重たいね」
「画像とは違うからな」
画像データならば数秒で添付されるはずだが、このファイルはデータサイズが桁違いに大きいのだろう。既に10秒はたったと思うが、進行状況を示すバーはまだ50%を表示している。
「でもあいつ、きっと解析棟にはいないと思うよ」
「だろうね……」
僕たちは、いつからこの場所にいるのか、なぜこの場所にいるのか分からない。幼いころの記憶というやつは、たぶんここに住んでいる人間たちには理解不能な概念だと思う。
誰も何も言わないけれど、僕たちの記憶は ≪始まりの部屋≫ と呼んでいる無機質な灰色の部屋から始まっていて、それ以前の記憶は完全に欠如している。言葉を使う能力や生活するうえでの必要最低限の知識、そんなものをどこで身に着けたのかさえ分からない。
ただ、ここには食料も、生活を支える電気や水も、衣類などの必需品も、いつ尽きることもなく豊富にある。それはとても不思議なことなのかもしれないけれど、ここで暮していると、空気というものが無限にあることを疑わないように、食糧やライフラインが無限に存在することにそれほど違和感を覚えない。
「美郷、また後で。とりあえず、メールは送信したから、結良を探しに行くよ」
僕はメールの送信が完了した旨の表示を確認すると、椅子から立ち上がった。
「ああ、彼女によろしく」
僕たちはこの建造体をコクーンと呼んでいる。おそらく≪世界≫と呼ばれる何かがこのコクーンの外側にあるということは、これまでの探索でなんとなくは理解している。でもそれが本当に実在するのか、あるいはどうすればこのコクーンの外側を見ることができるのか、そんなことは誰にも分からないし、今となってはコクーンの外側に出たいと考える人間の方が少ない。
コクーンが一体何のために作られたのか、なぜ僕らはここで生活をしているのか、それさえ分からないなんてことを不思議がるより、そんなことは考えずにここで平穏に暮していこうと考えている連中がほとんどだ。
狭い探索棟の一室から出ると、僕は自分がいた部屋の扉をゆっくりと閉める。ドアには ≪
『もうこんなこと、意味ないんじゃないかな?』
いつだったか、結良はそんなことを言っていた。こんなこと、というのは、コクーンの外側の世界についての手掛かりを探すこと。このコクーンにはいくつかのコンピューター端末があちこちで永続的に稼働している。僕らは端末からアクセスできる様々な情報を拾い集めながら、外の世界がどうなっているのか、そしてこのコクーンと呼ばれる建造体が何なのかを探索してきた。
美郷が見つけてきた画像ファイルはとても衝撃的でよく覚えている。ここではない、どこか別の世界を写したもなのだろうけど、上層には青い空間があって、足元には延々と緑の何かが続いている。コクーンのように真っ黒な冷たい壁に囲まれたそんな施設は存在せず、ただ広々とした明るい空間が広がっている幻想的な世界。
「あんな場所がいったいどこにあるっていうんだろう……」
僕はそうつぶやいて、美郷が伝声管ごしにそうしたように、深くため息をついた。冷たい空間に吐き出された息が白く霧散していく。
換気ダクトがむき出しの天井をにらみ、僕はマフラーを締め直す。漂う冷気に抗いながら、壁を伝う水道供給設備に沿って薄暗い廊下を歩く。ゆらゆらと水が流れる音が廊下にこだましていて、そんな音を聞いていると、このコクーン全体が、まるで意志を持った生き物のように感じる。
下層の解析棟へ向かう階段のエントランスまで来ると、僕は上層へ視線を向けた。この場所から上層へは中途半端に途切れた階段と、その脇にやや広く場所をとった平らな場所がある。コクーンで一番高い場所……彼女は大抵そこにいる。
何のために作られたのか分からない中空で途切れている階段。それをゆっくり登って行くと予想を裏切らず彼女はそこにいた。
「今日は何が見える?」
金属製の網のような床に、仰向けに寝そべって天を見上げる結良の前髪がサラッと揺れ、その大きな瞳は僕に視線を向ける。
「裕也……。あの闇の先には何があるんだろう」
首をもたげ上を見上げると、そこには天井らしき構造体はなく、ただ闇が延々と、遥か上まで続いている。いつだったか、ありったけの照明器具をここに運んで、上層を照らしたことがあったけれど、ただ闇が続くばかりで、結局何も見えなかった。
「きっと、何もないんじゃないかな……」
僕はそういうと、金網のような床に結良と同じように寝そべった。ダッフルコートの厚手の生地介して、背中にじんわり冷気が伝わってくる。
「さっきメールを送っといたよ。美郷が面白いもの見つけてきたんだけど、うちじゃ解析できなくてね」
「もう今更、何を解析したって駄目なんだろうなぁって思うよ」
「まあ、とにかく頼むよ」
結良はしばらく黙って上層の闇を見つめていた。何もない闇の空間をずっと見続けていると、はるか上層のはずなのに、そこへ向かって落ちていくような、そんな錯覚に陥る。闇は何かを引き付ける得体のしれない力を宿している。
「ねえ、まだ降ってくるんだよ」
結良の声で、ふっと錯覚が消え自分の居場所が戻ってくる。
「ああ。あれは以前に成分解析をかけたことがあったよな。鉄とか、アルミとか、そういった金属なんだよ」
一見するとほこりのように見えるのだけど、下層から放たれている光に照らされてキラキラ光るチリのようなものが、舞い降りてくることがある。特に不思議にも思わなかったのだけど、結良が小さな瓶に詰めて、それを持ってきた時に、解析棟の端末を使って成分解析をしたんだ。
「上には金属がたくさんあるのかな」
「コクーンだって巨大な鉄の塊みたいなもんだよ」
僕はゆっくりその場を立ち上がると「解析、頼むな」とだけ言って、その場所を後にした。
――act.1:『手の届かない闇に包まれて』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます