14 哲学者

 「お若いの、ここへ寝てもいいかね」初老の男がデッキの隙間で寝そべっていた児玉にしわがれた声をかけた。出港して2日目の朝で、もう船旅には慣れていた。上からなんの説明もなかったが、今日中には相馬港に着くという噂だった。

 「いいっすけど」見知らぬ男を警戒して、児玉は反射的に身を固めた。

 「悪いねえ」男は空いたスペースに体を横たえた。ホームレスにしてはこぎれいなロングコートを着ており、顔に刻んだ皺も汚くなかった。なにより口が臭くなかった。

 「すげえ人数っすね。原発にはこんだけ仕事があるんすね」児玉はいくらか警戒を緩め、デッキを埋め尽くす人の海を眺めながら言った。

 「原発には普段だって何千人もいるんだよ。だけどねえ、ここに居るもんは、1日3時間で3日も働いたら放射能でお払い箱だって言うもんもあるからね」

 「たった3日っすか。それじゃ24万にしかなんねえじゃないすか」

 「20日分160万は保証だって、あんた聞いてないのかい」

 「聞いてないすよ」

 「ほうそうか。いろいろだね」

 「いろいろってなんすか」

 「時給1万て聞いたもんもいるし、あんたみたいに日当8万て聞いたもんもいる。1月分保証って聞いたもんもいるし、3月分て聞いたもんもいる。8万は親分の取り分で、人工(にんく)は結局相場の1日1万ぽっきりじゃねえかって言うもんもいる」

 「それじゃ全部ガセなんすか」

 「あんたはどっちみち原発はむりじゃないのかね。集めてんのは60歳以上限定だからね」

 「そういうおやっさんも60には見えねえけど」

 「向こうに着いたら、もうちょっと念入りに化粧するんだよ。20くらいサバ読むのは簡単だよ。どうせ住民票出すわけじゃないしね」

 「そんなもんすか。俺もなんとかなんないすか」

 「それより逃げた方がいいよ。港に着いたら逃げようって算段してるもんも多い。いくつになったって死ぬのは怖い」

 「おやっさんはなんで逃げねえんですか」

 「おやっさんはやめてくれよ。仲間からは哲学者と呼ばれてるんだ。名前は九基幾多朗だ」哲学者を自称する老人は怪しげな名前を名乗った。

 「哲学者だったら青い光のこと知ってるすか。俺、原発で見たんすよ」

 「原発はこれから行くんだろう。夢にでも見たのかい」

 「福島から逃げて来たんすよ。それでまた因果で舞い戻るってやつで」

 「青い光はね、放射能が水の中で光るんだよ。水の中では光が遅くなるだろう。それで一瞬だけ粒子が光を追い越すんだ。その時の衝撃波で青く光る」

 「ぜんぜんわかんないす。俺は爆発を見たんすよ。そん時に青い光が」

 「ほんとかい。そりゃ一大事だ。あんた、やっぱり原発に行かんほうがいいな」

 「なんですか」

 「もうたっぷり放射能を浴びてるかもしれないからね。それ以上は危ないよ。港についたら逃げなさいな」

 「逃げたらどうなるんで」

 「あんたの親分が金をもらえなくなるだけじゃないか。それとももうもらっちまったかもしれない」

 「親分なんていないすよ。死んじゃいましたから」

 「じゃあ、なおさら逃げるこったね」

 「クキキさんは逃げないんで」

 「九基だよ。青い光のことを聞いたら逃げたくなった。どうも東日本電力にみいんな騙されたみたいだねえ。あいつらはなんもかも秘密だ。地震が起きた日から原発はもうだめだってわかってたんじゃねえのか。だけどバカな学者連中が知ったかぶりするから、それに責任転嫁することにしたんだわ。日本にはね、原発事故の専門家なんて1人もいなかったんだよ。全員アホなんだわ」

 「じゃ、一緒に逃げましょうよ」

 「しっ、声が高いよ、あんた」

 「すんません」

 「じゃあ児玉、俺が算段してやるからついてきなよ」

 「えっ、なんで俺の名前知ってんすか」児玉は狐につままれたような顔をした。

 「乗船する時、ヤクザもんと一緒だったろう。そん時に聞いたよ。俺は記憶力が死ぬほどいいんだ。船に乗る前はどこにいたんだい」

 「川崎っすけど」

 「放射能なら福島だって川崎だって同じだよ」

 「そうなんすか」

 「発表してないだけさ。あんた青い光を見たって言ったね。それは14日の晩だろう」

 「そんなもんかもしれないすね。地震のあと3晩寝たから」

 「15日にはね、都内まで放射能が来たんだ。どこも一日中警報が鳴り続けだったんだよ。大使館とか大学とかでも鳴って、外交官も学者もみんな東京から逃げたんだよ。それをぜえんぶマスコミは隠したんだわ。それともそんなことも気がつかないくらいアホばっかだったのかねえ。外人のファッションモデルは全員帰国したよ。肌が資本だもの、放射能は怖いだろう」

 「そうなんすか」

 「そうさ。1時間に10キロとしたってな、1日で放射能は200キロ飛ぶんだよ。ちょうど東京に向かって風が吹いてたんだ。15日の次は21日の風なんだ。その日は雨が降ったから、放射能が全部地面にしみたよ」

 「なんでそんなに詳しいんすか」

 「なんでと思う」

 「専門家なんすか」

 「そんなもん日本に1人もいないって。俺はね、人に騙されんのが大嫌いでね。新聞とかテレビとか絶対信用しないんだよ。あれはぜえんぶ聞きかじりだ。つまりウソだとしたって責任がないんだよ。そう気づいたらなんでもわかるようになったよ」

 「そんなもんすか」

 「お若いの。あんたは長生きはしないね。だけど生まれてきただけのかいは、ちゃあんと神様がお膳立てしてくれてるよ」

 「原発で死ぬってことすか」

 「船が着いたら俺についてこい。少しは長生きできるようにしてあげるから」

 児玉は初対面のはずの九基の話に不思議に引き込まれてしまった。

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