11-2

 いつの間にか、祖父の家で、縁側に座っていた。

 夕焼けが庭を照らしていて、草花が美しく咲き誇る花壇を茜色に染めている。

 風が温かく、柔らかかった。雲がゆっくりと、空を走っている。


「終わったか」


 横に、あの女が座っていた。

 いつか、夢の中に出てきた女。

 と言うことは、ここは俺が以前見た夢の世界か。


 荒廃した風景が広がる世界。

 違ったのは、夕陽が柔らかく降り注いでいたこと。

 そして、女が優しい顔をしていたということだ。

 無機質だけど、どこか温かな表情をしている。

 俺はその顔を、良く知っていた。


「終わった。救った、と思う。とりあえず」


 俺が言うと「そうか」と彼女は緩やかな笑みを浮かべた。


「お疲れさま。そして、ありがとう。あの子を救ってくれて」

「まぁ、父親だしな、紛いなりにも。と言っても、置いてきちまったのが気がかりだけど。大丈夫だ。あいつは、何だかんだ上手くやれる。きっと乗り越えられる」


 風が俺たちの頬を撫でて、抜けていく。

 緩やかな時の流れを感じた。


「なぁ、尋ねても良いか」

「どうした?」

「お前、龍音だよな」


 俺が尋ねると、彼女は――大人になった龍音はこちらを向いた。


「何故分かった?」

「何となく、そんな気がした。最初は龍音の母親だと思ったけど。何か違うって」


 俺が気づかなかった時、彼女は寂しそうな表情を浮かべていた。

 それはたぶん、気づいてほしかったんじゃないだろうか。


「……気づくと思わなかった」

「期間は短かったけど、一応父親ですから。むしろ、最初に会った時に気づいてやりたかったよ」


 俺はこいつに懐かしさに近い感覚を覚えていた。

 たぶんそれは、龍音だと無意識に感じていたからだ。


「俺がここに来れたのは、やっぱりお前と繋がってるからか」

「……たぶんな」


 街はボロボロだけれど、この祖父の家は傷一つなかった。

 それは、この家が龍音にとって大切な家だったからだ。


 きっとここは、俺があの時、龍音を救えなかった世界の先に生まれた未来。

 樹が俺たちを侵食しなかったように、幼い頃の龍音はこの家も守っていたのだ。

 そして、大人になった今も、守り続けていた。


「この世界って、もう人間は滅びたの?」

「ほとんどの人間は、あの樹が成長すると共に飲まれた。詩音の手は私に届かなかった。私の目の前で、樹に刺されて死んだ」


 あの時、樹の中心で俺は胸を貫かれた。

 一度意識を失ったが、何故かもう一度意識を覚醒させることが出来た。

 だから俺の手は、龍音に届いた。


 でも、きっとこの龍音が歩んだ世界の俺は、意識を失って目覚めなかった。

 それが、分岐点になったんじゃないだろうか。

 ただ、いったいどうして?


「あっ……、龍の祝福か。あれのお陰で助かったのか」


 そう言えばキスされたな、こいつに。


「あれは嘘」


 ぶらぶらと足を投げ出して、大人の龍音は言う。

 その顔は、幼い少女の様なイタズラっぽさを感じさせた。


「嘘?」

「祝福などない。肝心なのは、詩音に飲ませた私の唾液」

「唾液?」

「龍の体液は人の傷を癒す。唇を通じて、私の唾液を流し込んだ」


 俺はいつか家庭科の時間に、指を切った茜の傷を龍音が舐めて治してしまったのを思い出す。


「効果があるかは分からんかった。半分賭けだった。でもこうして詩音が過去の私を救えたのを見ると、成功したんだと思う」

「だからってキスする?」

「父親とキスする娘なんて沢山いるだろう」

「それ小さい子の話だから……」


 まさか俺のファーストキスの相手が、成長した自分の娘だったとはな。

 そんな奴、世界中に俺しか居ないんじゃないだろうか。

 何だかそう思うと、笑えて来る。


「それにしても、お前って成長したらそんな性格なのな」

「過去が変われば、未来も変わる。私を救ったのなら、性格も変わるだろう」

「そうかもな。……なぁ龍音」

「何」

「寂しい思いさせてゴメンな」

「……詩音が居なかったら、きっともっと辛かった」

「じゃあこれから一緒に暮らすか。こっちで。俺はもう幽霊だけど」

「それは無理」


 ピシャリと水を掛けるかのような龍音の言葉が、俺を黙らせる。


「ここは未来で、過去は変わった。過去が変われば、未来は変わる。その証拠に、ほら」


 龍音は俺に手を差し出してくる。

 透けていた。

 龍音だけじゃない。

 周囲の世界も、どんどん溶ける様に歪んでいる。


「もうすぐこの世界はなくなる。過去が変わったから。存在自体が無くなるんだ」

「龍音……」

「詩音、私はもう疲れたよ。独りで居ることに」


 龍音は、そっと俺の手を取る。


「だからお願い。私にもっと沢山楽しい思い出を上げて。お父さんに死なれたら、悲しいに決まってるから。まだ向こうにいてほしい」


 龍音はそう言うと、再び俺に口付けをした。


「私によろしく、詩音」



「龍音!」



 ハッと体を起こすと、全身に鈍い痛みが走って思わずうめき声を上げた。

 頭が随分とガンガンする。

 視界が揺れるような感覚に襲われ、俺はしばらく頭を抑えた。


「痛つつ……何だ?」


 顔をしかめながら辺りを見ると、色々な情報が入ってきた。


 ピッピという電子音。

 時計の刻む音。

 身体にかかったシーツ。

 病院の一室だ。


 俺を見つめる、誰かの顔。

 俺の方を見る、龍音の顔。


「詩音……」

「龍音」


 龍音の目はどんどん見開かれる。無表情なやつだけど、よく分かる。

 この顔は、驚いたときの顔だ。

 龍音はまん丸な目で俺の姿を映すと、ボロボロと涙をこぼして泣き始めた。


「じおん! じおん!」


 濁点の混ざった呼び名で、俺を何度も呼び飛びかかってくる。

 抱きかかえようとしたが、力が入らず押し倒された。


「龍音ちゃん? どうしたの?」


 騒ぎを聞きつけて、お袋や和美姉や大樹が寄ってくる。

 シンジ兄ちゃんや親父、それに茜や哲も居る。


 大切な人たちが、俺の視界に入ってくる。

 その姿を見て、俺は全てが終わったことを理解し、薄く笑った。


「ただいま」

「おがえりなざい」


 世話の焼ける子供だな、まったく。

 でも、嫌いじゃない。

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