8-6

「――おん、詩音」


 聞き覚えのある声だ。

 鈍い……耳に栓をされているみたいに、音が遠い。

 それが、徐々にはっきりと、明瞭になっていく。


「詩音、詩音!」


 揺さぶられてハッと目を覚ました。

 ここは? 一瞬自分がどこにいるのか分からなくなる。

 白い天井に、周りにあるのはカーテンか?


 そして、俺を覗き込む茜と哲の顔。


「良かった、目ぇ覚ました!」


 二人がホッとした表情を浮かべる。


「あれ? どうなったの? これ」

「詩音、道端で急に倒れたんだよ! それで、哲やみんなが一緒に運んでくれて……」

「近かったから学校の保健室に運んだんだ。先生とかと一緒にな。数人掛かりとはいえ、大の男一人を運ぶのは苦労したぜ」


 そう言われて、段々と記憶が明瞭になりはじめる。

 確か、俺は茜と登校中に倒れたのだ。意識を失った。


「……ありがとな、二人共」


 俺は体を起こす。

 全身にまとわりつくような倦怠感は、すっかりと消えていた。


「ちょっと詩音、寝てなくて大丈夫?」

「ああ、ただの寝不足だったみたいだ。心配掛けてごめん」

「もう、びっくりさせないでよ。心臓止まるかと思ったんだから」

「茜なんてビービー泣いて、大変だったんだぜ」

「ちょっと哲!」


 いつもの二人のやり取りが、俺の心を少し安堵させてくれた。


 ◯


「詩音」

「お待たせ」


 放課後、龍音を迎えに行く。

 龍音はいつものキラキラした瞳で俺を迎えてくれた。


 救急車を呼ぼうとしたり、茜が部活を休んでついて来ようとしたが。

 俺はその全てを断った。

 今朝の気だるさが嘘みたいに、体はもうすっかりと元気だ。


 ここ数日の体調不良があの女の影響なのだとしたら、ずいぶんと迷惑なものだ。

 二度としてほしくないと、心から願う。


「龍音ちゃん、今日もとっても良い子でしたよ」


 ユリカ先生が笑顔で言う間にも「龍音ちゃん、またね」と友達らしき女の子がお母さんと共に去っていく。龍音も「ばいばい」と手を振って応えていた。


「もうすっかり馴染みましたね」

「ええ。男女問わず人気者なんですよ、龍音ちゃん」

「そりゃよかった」


 いつもの帰り道。

 龍音はその日幼稚園でやったことを俺に教えてくれる。

 歌を歌ったこと、給食を食べたこと。

 龍音にとってはどれも新鮮で、新しい世界そのものだったのだろう。


「龍音、幼稚園楽しいか」

「うん。たのしい」

「そっか」


 俺が繋ぐ、小さな手。

 この手が、人を殺すようになるとは、考えたくない。


「なあ龍音。岬から聞いたけど、お母さんのこと、少し覚えてるんだよな?」

「おかあさん? 今日おみそ汁くれた」

「まぁ、あれも母親だけど。なんていうか、本物のほう。龍音を産んでくれた人のこと」

「覚えてる。一緒に森に住んでた」

「どんな人だった?」

「うーん……」


 龍音はすこし考える。


「こわかったし、やさしかった」

「そっか」

「でも、いなくなった」

「いなくなった?」

「お家がやけちゃったから」

「焼けた……?」

「たくさんの人が森をやいて。にげなさいって言った。みんなおかあさんにおこってた」

「怒ったって……何で」

「うそつきって」


 何だそれは。

 もっと聞きたかったが、俺は言葉を飲んだ。

 たぶん、聞かない方が良い。

 きっとそれは、龍音にとって辛い記憶につながる。


「今はどうだ? 楽しいか?」

「たのしい」

「そっか。そりゃ良かった」


 龍音の母親について聞ければと思っただけだったのに、少し驚いた。

 龍音は故郷を焼かれていたんだ。

 たぶん、龍である母親と人間との間に何らかの諍いが起きた。

 そして、人間に追われた。


 その後どうなったかは分からないが。

 何となく、俺は察している。


 ――龍の審判がとうとう下され、人に滅びの運命さだめを与えた。こちらの世界は、やがて終わりを迎える。私はそれを見届けねばならない。


 俺が夢で見た光景と同じだ。

 人は龍に負けた。

 そして、滅んだんだ。


 同じことを、繰り返してはいけないと強く思う。


 夕日が大きくて、全部が茜色に染まっていた。

 遠くからヒグラシの声が聞こえていて、日差しは柔らかく、風は涼やかだ。


 空には宵の色が混ざっていて、一番星が瞬いている。

 夏の空は、ずっと見ていたくなるような魅力を孕んでいた。


 俺たちの影は、夕陽に照らされて長く長く伸びる。

 二つの影が、繋がれた手で重なっていた。

 なんだかそれは幸せな光景で、油断するとすぐに消えてしまいそうなくらい儚くも思えた。

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