煙の先には何が見える?

本陣忠人

煙の先には何が見える?

 僕が中学生二年生の時だった。


 二軒隣の近所に住む少女――それはきっと、幼馴染と言って差し支えの無い関係の二個上の彼女。


 そんな女性が近所の公園のベンチで、未成年には禁止されている嗜好品をプカプカとフカしているのを目撃した。


「あれぇ?」


 僕の姿を目に収めたのだろう。彼女はそんな間の抜けた声を上げた。自身の罪を取り繕う仕草は、無い。


「久しぶりじゃん! 何してんの? コッチ来て話そうよ!」


 煙草を手にした年上に絡まれる。あんまり歓迎したくはない状況だけど、僕は昔から彼女には逆らえない。特に理由はないけれど、とにかく頭が上がらないのだ。


「…ほんと、久しぶりだね。杏子アンズ。それに…、」


 彼女の隣に腰を下ろしてテンプレみたいな挨拶を交わす。

 横目に映る高校生になった杏子は垢抜けた感じがして、なんだか妙に気恥ずかしい。


「どうしたの? 煙草なんて」


 昔はなかったろ。


 その一言は飲み込んだ。

 内面に踏み込み過ぎている気がしたし、それ以上に踏み込むのが怖かった。


 しかし、言葉は紡がれずとも目は口程に物を言う。

 僕の不躾な視線は非難と疑念が混ざったものだったのだろう、聞いてもいないのに勝手に話し始めた。


「へへっ、私さぁ…不良になっちゃったんだ」


 杏子は花も恥らう女子高生なのにも関わらず、少年の様な照れ笑いで鼻の頭を掻いた。それは僕の良く知る彼女の姿に重なる。


「ちょっとバイト先でねぇ…人間関係がグチャグチャでワケ分かんなくて。気が付いたら父親のを…ね?」


 試験や部活に悩む僕には遠い世界。

 けれど、きっとそれは今の僕の生活、その延長線にある世界。


 一足先に体験している彼女の苦悩は理解出来ないが、想像くらいは出来る。


「だったらめてしまえばいいのに…」


 不意に口を付いたのはそんな言葉。紛れも無く僕の本音。


 それを受けた杏子は再び苦笑い。


「まあ、それが出来れば一番いいんだけどねぇ…大人未満の高校生にも一端の責任とか色々あるのですよ」


 思春期真っ盛りの大人ぶった意見を吐き出した後、黒い箱から煙草を一本取り出して口に咥えた。


 手慣れた様子で火を灯す直前だった。思い付いたみたいに箱を差し出す。


「アンタも大人の一歩を踏み出すかい?」


 唇に異物を挟んでいるので多少不明瞭だけど、そう言った。その瞳の色は黒く淀んだ光を蓄えている。


 数秒、思案して溜め息。

 同じ様に一本を引き抜いて、真似する様に口元へ。


「火って線香みたいにつければいいの?」


 僕は不良で無いのでそんなことすら分からない。

 杏子は手早く自分のものに点火して「ウブでかわいい」と笑う。途端に込み上げる恥ずかしさ。


「軽く息を吸い続けて…そう、そのまま。ほら点いた!」


 彼女のそんなレクチャーが耳に届くのが先か、僕は人生初の煙草に大きく咳き込んでそれどころでは無い。口の中をまるごと燻されたみたいに苦味が広がる。なんだこれ不味い…。


「だ、大丈夫? マジで初めてだったとは…ゴメン!」


 少し取り乱して僕の背中をさする。

 そのおかげもあってすぐに落ち着いて、慎重に二口目を吸い込む。やはり、不味い。唇に残るシロップみたいな甘さも不愉快だ。


「大人も杏子も。何が良くてこんなの吸うの?」


 こんなの好き好んで行う行為じゃないよ。


「色々やってらんねぇからかな? そういうモヤモヤも全部、煙に乗せて吐き出せれば良いのにね…」


 手慣れた様子で唇から細く紫煙を登らせる姿は、何だかとても切なくて、胸が締め付けられるくらいに綺麗だった。


「じゃあ僕も…」

「んにゃ?」


 そんな姿に影響されたのだろう。僕はらしくも無く、柄にも無く。ちょっとばかりセンチメンタルな気分になった。 


「いや…僕の吐いた煙にも少し位、杏子の抱えるモヤモヤを含んでたら良いのにね」


 嘘偽り無くそう思った。


 けれど、レスポンスは僕の殊勝な気持ちとは乖離したもので。

 三口目を吸おうとした所で指先から煙草を抜き取られた。犯人は勿論、隣の女性。


 彼女は勢いそのままに僕の分と自分の分――合わせて二本分の嗜好品を地面に叩きつけてローファーで踏みにじる。


「生意気言うようになったじゃん…」


 そう嬉しそうに告げて、僕の髪の毛を乱雑に撫で回す。ぐりぐり、ぐしゃぐしゃと。


「でも、ありがとう。アンタはさ…いい男になりなよ!」


 そんな意味不明の言葉を残した彼女は僕の前から姿を消した。

 正真正銘姿をくらました。そこには影も形も残らない。


 家はもぬけの殻になって、今や連絡もつかない。隔絶した縁。

 近所や学校では様々な噂が立った。離婚だとか夜逃げだとか妊娠だとか逢引きだとか。

 耳にするだけで心が重たくなる種類の下世話な推察が飛び交ったが、やがて消えた。人の噂も七十五日だ。


 その内に噂もろとも何事も無かったかの様に消え失せた。


 けれど、僕は違う。覚えてる。

 そして、この煙草を見る度に思い出す。


 あの日の彼女の綺麗な姿を。

 十年経った現在でも鮮明に。


 くゆる紫煙の向こうに在りし日の――杏子あなたの照れ笑いを克明に描き出せる。


  

 

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