狂気の果て
カント
本編
――1月28日――
何から書けば良いだろうか。迷う気持ち、困惑する気持ちが強いが、とにかく、状況を整理するためにも、私はここに今日の出来事を記そうと思う。
気づいた時、私は自宅ではなく、古い家屋に寝かされていた。木造で、床は軋み、布団はいやに湿っていて、臭った。頭がズキズキと痛み、それはどうも、二日酔いによるそれとは似て非なるもののようだった。
ここはどこだ、と思わず呟いた時、男の声がした。声は家の大黒柱に括り付けられたスピーカーから響いていた。
『壺を焼け』
スピーカーからの声に、私は暫く目を瞬かせていた。確かに私は陶芸家だ。日々、師匠の下で研鑽を積んでいる身だ。……と言っても、もう十年近く続けてはいるが、いつまで経っても目は出ず、レプリカの作成やら安物の陶器やらを創り、アルバイトをして日銭を稼いでいる身だ。陶芸家、と名乗っていいかどうかは甚だ疑問だが、とにかく、声はそう言い続けていた。
私は木造家屋を出た。私が寝かされていたのは山小屋にも劣るあばら家だったが、家を出てすぐ傍には簡素な登り窯もあった。薪も大量にある。声が言っていたのは、これを使って壺を焼け、ということだろう。だが、理由が分からない。見慣れぬ場所、見慣れぬ家、見慣れぬ登り窯。何もかもが異様で、私はようやく気付いた。自分が誰かに拉致されたのだと。
そこからは、ひたすら走った。私を縛るものはなく、だからこそ、走って行けば誰かに会えると思ったのだ。
結論として、誰にも会うことは無かった。分かったことは二つだ。一つ、ここは絶海の孤島であるということ。もう一つ、私が監視されているということ。意気消沈して家に戻ると、大きな包みが家の前に置かれていて、中身を開けると簡易な弁当やノートや鉛筆が入っていた。
異常者だ。異常者の仕業に違いない。事態を整理しながら、改めて思う。結局あばら家に戻り、弁当を食べたが、自分のこれからに不安を覚えずにはいられない。どうにかして助けを呼ばなければ。しかし、どうやって?
――2月3日――
スピーカーは毎日私に告げてくる。壺を焼け、と。他にも告げてくる。今日が何月何日なのか。材料は何処にあるのか。弁当はどこに置かれるのか。やはりこの島には私以外おらず、そして弁当は空輸されてくるらしい。一体何が目的なんだ。何も分からない。分からないが、今日初めて、声の告げる通りに壺を造り始めた。と言っても、土練しかしていないが――出来ることがそれしかないのだ。この行為が脱出に繋がると信じて、今は創るしかない。そう思うことにしよう。
――2月6日――
一体いつまでこんな生活を続ければいいんだ。確かに壺を焼くための必要な材料は空輸されてくる。どうも私が眠っている間に窯の手入れもされているらしい。だがそれだけだ。全く異常だ。考えなければ。どうにかして脱出する術を。船を造って――いや、この島の外周を歩いてみたが、どこも断崖絶壁で、船を下ろせる場所など何処にもない。気が狂いそうだ。何か考えなければ。何か。
――3月6日――
弁当、粘土などの材料、ノートやペン。空輸されてくるものはそれくらいだ。娯楽も無く、寝て、起きて、たまに周囲を散策して、脱出を祈りながら土練や削りだし、素焼き、焼成。ただ只管、それだけを繰り返している。そんな生活がもう一ヶ月以上も続いていることに、私自身驚きだ。気が狂いそうだ。誰か助けてくれ。私が何をしたというんだ。
――4月17日――
気づいたら夜だった。今日は一日中、窯の調整をしていた。どうも前回辺りから調子がおかしい気がするのだ。明日には数個程、完全乾燥したものが出来上がるだろうから、温度に気を付けて焼いてみよう。
スピーカーからの要請は変わらない。『壺を焼け』だ。焼いてやろうとも。他に出来ることも無いのだから。
――6月21日――
今日、家の傍の森の中で人影を見た気がしたが、どうも見間違いだったようだ。久々に声を出したが、声が思う様に出なかった。日記をつけている時だけが人間に戻れている気がする。私は帰れないのかもしれない。助けは来そうにない。
――9月1日――
スピーカーからの声が五月蠅い。壺を焼け、壺を焼け、と。言われなくとも焼いているというのに。偉そうに。
――10月3日――
スピーカーに出来損ないの壺をぶっつけてやったら壊れてしまった。まぁいい。
――10月4日――
スピーカーが新調されていた。誰か知らないが、まめなことだ。どうでもいいが。
――1月5日――
久々に髭を剃った。鏡と髭剃りが先週位に贈られてきていたが、すっかり忘れていた。日記ももう随分と溜まったな、と思う。もう随分とアルバイトしていたころが遠く感じる。店長はどうしているだろう。家族は。師匠は。誰も助けに来ないところをみると、まぁ、私はその程度の存在だったのだろう。私にはもう焼くことしかない。焼くことしか。
――8月6日――
暑い。汗で手元が狂う。夏なんて嫌いだ。湿気て乾燥までの時間が狂う。
――12月31日――
ここ数日寝ていなかったし、日記も書いていなかったな。まぁ読み返すことも無いが。
――4月9日――
今日は中々良いものが焼き上がった。全体が輝いているように思う。
――8月1日――
輝くか、輝かないか。良いかどうかはそれだ。それなのだ。見えてきた気がする。
――3月10日――
今日、男がやって来た。私を拉致していた人物らしい。彼は私に頭を下げ、解放を告げた。竈の調子を見ながら事情を聞いた。どうやら、彼は怪盗らしい。かつて美術館からある壺を盗んだが、どうもそれが私が日銭稼ぎの為に作ったレプリカだったのだそうだ。世間は彼を愚かな、見る目の無い怪盗と小馬鹿にした。偽物を盗んだ愚か者と。だから彼は私を拉致した。そして、私が本物を凌駕するものを創り出すのを待っていたと。どうやら彼の期待していたところに私の腕は届いたらしく、これまでの非礼を詫びるとか何とか言っている。だが、まだまだだ。私はまだまだ未熟だ。だから私は彼に、詫びの代わりに要求した。
●
「――毎度毎度、素晴らしいものを創るな、あの先生は」
美術商は俺が取り出した品を鑑定して、溜息を吐いた。感嘆。それ以外の感情が思い浮かばない程の、黄金の如き美術品。美術商はいつも通り私に金額を提示する。庶民からすると目が飛び出る金額だが、美術商は更にそれを高値で世間に売りつける。それでも売れる。それがもう、普通になってしまった。
「何だ、浮かない顔をするじゃないか。金額に不満が?」
「いや……そうじゃない」
いつもの口座に振り込め、といって、俺は席を立った。もう怪盗業は長らくしていない。偽物を造った男の作品を、本物以上にする――世間を見返す為にやっていた行為が実った結果、怪盗から足を洗う羽目になったのは皮肉なものだ。だが、もっと皮肉なのは。
「また、帰って『先生』のお世話か……」
街に戻って必要物資を購入し、島へ行って陶芸家に補給をして、また街に戻って作品を売って――もうそんな日々の繰り返しだ。私が求めていたのはこんな日々だっただろうか? ――ああ、だがもう、後戻りはできない。
あの男が求めたのは、私が永遠に作品創りの準備を整え続けることだった。そう、彼は狂気に囚われたのだ。陶芸の鬼、仙人と化したとも言えるだろう。それは私の罪だ。だからこれは贖罪と言える。逃げ出すことは出来ない。男は言ったのだ。
『お前が逃げ出せば、俺の作品がお前を殺すだろう』
言われた時は意味が分からなかった。だが、今なら分かる気がする。いま売り払ったあの壺にも、あの男の魂が宿っているのだ。逃げ出せば、これまで売ってきた作品のどれかが、私の頭に降ってくる。そんな気がする。妄想? そんなことが起こる筈ない? そう言い切りたい。だが、俺は何となく感じる。きっと、確実に、あの男は、あの男の生み出した無数の作品は、裏切った俺を殺すだろう。
そう思わせるだけの『本物』を、あの男は創っているのだ。
「――気が狂いそうだ」
思わず呟いた言葉に、俺は妙な既視感を覚えていた。
狂気の果て カント @drawingwriting
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