第3話 ミュージック

 人の数だけ生活があり、窓から見える明かりのひとつひとつに人生がある。たまに私は思う。みんななにを指針として生きているのだろうか。海でも山でもコンパスは欠かせない。自分の現在位置と目的地を知らなければ足を出すことすら困難だ。

 ある人はお金だという。「理想にしろ現実にしろ、生きるって前提の上で最も欠かせないもんは金だ。どれほど多く持っていても持ちすぎるということはねえし、それはそのまま力に直結する。清貧なんて言葉があるが、あんなの単に貧乏であることの言い訳に過ぎない。自分を慰めているだけの負け犬さ。いいかテレビで見る芸能人が優しそうに見えるのはやつらが金持ちだからだ。金持ちには余裕がある。余裕があればいちいち些細なことで取り乱すことなんてない。そうだろ? これ以上ないわかりやすい指標だよ、金ってのはな」

 あるバイト帰りの日。シャワーを浴びたあとで気まぐれにつけた深夜のラジオから流れてきた言葉の流れ。いったいどんな人物なのか。口は悪いが、言っていることには納得できた。

 東京で暮らすにはお金がかかる。なんといったって家賃が高い。ワンルームで六万三千円。この地域ではそれでも安いほうだ。地元なら半額くらいで借りられる物件だけれど。

 ただ私はそれほど苦なく家賃を払うことができていた。家賃の高い東京は、時給も高い。お手軽な価格ではなかったけど、一人で暮らすにはなんの不自由もなかった。

 マッサージは毎日欠かさずに行う。継続に意味がある。その積み重ねが効果と自信につながることを私は知っている。以前よりも足が細くなっているし、身体もやわらかくなった。開脚をして身体を前に倒し上半身を床にくっつけるのはまだできないけど、それもいずれできるようになるだろう。

 翌日、バイト先のカラオケ屋。さすがは新宿というべきか、平日の昼間だというのにお客の数は多い。でもたまにパタッと来店のなくなるときがある。受付での作業が終わったとき、私は隣で突っ立っている涌谷さんに昨日のラジオのことを話してみた。涌谷さんは心底うんざりしたような顔で舌打ちをした。

「つまらん生き方」

「でも一理あるって思いません?」

「金のために生きることが? なんだそれバカじゃねえの。そういうやつらは雷に打たれたことがねえんだ」

「雷?」

「本でも映画でも絵でも音楽でもなんでもいいけどさ、そういう、いわゆるアートに触れたときに空から降ってくるやつ。ああ、オレはきっとこれを見るため聞くために生まれてきたんだと本気で思うような、そんな衝撃」

「それが雷?」

「すげえ強烈な」

「私にはよくわかりませんね」

「金なんてえのはさ、使ったらなくなる、だろ? 消耗品だ。歯磨き粉とおんなじだ。なんでそんなものをありがたがる? 芸術は不朽だ。何百年も前に描かれた絵がどうしていまだに残っているかって、そこに力があるからだ。金の持つ力なんて精々物欲を満たすか満足感を得るくらいのもんだけど、芸術はもっと根底の、人間の、その身体の、芯、それを震わせるんだ。たった一枚の絵が、生きる支えになる。わかるか?」

「やっぱり私にはわかりませんね。そんな難しいこと」

「お前バカだからなあ」

「うるさいですよ」

 涌谷さんの肩を殴ってみたけど、思いのほかかたくて私が痛がる羽目になった。

「あのな、お前もモデルって夢があるならこちら側の人間だ。金が大事だと思ってるならさっさとその夢ぶん投げて現実に目を向けたほうがいい」

 そう言うと、涌谷さんはタバコを吸いに奥のスタッフルームに引っ込んだ。

 金のために生きることがつまらんと言い切れるのは、彼が本気でそう思っているからだ。私はどうだろう。モデルになりたいのは決してお金のためじゃない。モデルでお金を得たいのはそうだけど、それを最も重要視するつもりはない。自己実現したいからだ。夢を目標を叶えたいからだ。モデルになれれば、たとえそれでお金がなくても構わない。私はなりたい自分のために生きている。

 じゃあ、なれなかったら? なれなかったら私はどうなるんだろう? 私のコンパスは北を指していて、私はきちんとその方向に歩けているのだろうか。

 そう考え始めて、すぐに考えたくないなと打ち消した。

 コール音がして受話器を取るとドリンクの注文だった。それらをトレイに載せて部屋まで持っていくと、そこにいたのは男女混合のグループだった。ちょうど次の曲が流れるタイミングで、そのイントロが始まると「うわなつかし」と誰かが言った。また違う誰かが「よく聞いてたわこれ」「二年くらい前だっけ」「今見ないよね」「活動してんの?」「解散したんじゃね」と口々に言う。

 受付に戻っても涌谷さんはいなかった。タバコついでに少しサボるのはいつものことだった。忙しくないから別にいいけど。

 店内にはやかましいくらいの音量で流行りの曲が流れている。数か月前には別の曲が流れていた。数か月後も別の曲が流れているだろう。

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パリッとしている 進藤翼 @shin-D-ou

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