第11話「Have a nice day!」

 ◇

<落ち着いた?>

「何とでも言ぃや……もう喚くの疲れた……」

 脱力して地べたに座り込んだ私に、憎らしいほど落ち着き払った声が掛かる。

「……あっち、あの子こそ、冷静になってほしいわ」

<そう変わらんて、焦って大混乱に陥るのは>

「……自分、自分、自分ばっかりや。もっと周りも見てほしいわ。自分一人の命や思ってんやろ、あの子!」

 有害な思念に浸っていても、健全な人格の成長には繋がらない。体の健康よりも、心の意志を汚して、子供の闊達な気質を損なっている。時間は苦悶の闇に変わり、命の力を無駄に失わせるだけだ。

<そりゃ、あたしもあんたも、ここから先は、あの子次第やけどな>

「そうや。未来の自分を含め、他の人の命やって負うてるはずや!」

 義務や義理を果たすべき時でも、反感や嫌悪しか感じていない。一旦落ちると、いくら望んでも、在るべき姿にはなかなか戻れない。

<親とか?>

「おばあちゃんも、ひいばあちゃんも!」

<じいさん、どこ行った? 完全に女系家族やな>

 勝手知ったる身の上話か――父方の祖父は、三歳の時に病気で亡くなった。母方のほうは、母が十歳の時に事故死したから、写真でしか見た記憶がない。

<何て名前やったっけ? お母さんのお父さん……>

「佐々木克俊」

 走馬灯が自分を突き抜けて、何代にも遡っていく。

<そう、克俊さん。伯母さんも叔父さんも皆言うな、凄い人って>

「らしいな。山奥の村で建築会社を起こして、経済力が桁違いやったんやろ。手先が器用で楽器とかも作れたし。あの当時で、世界一周まで目指したんやから」

 一族には、こういう人もいる。同じ血を分けているのに――。

<地元の名士、って奴か。若くして亡くなったんは惜しいな。一族の命運、がらっと変わったしな>

「お嬢さんやったお母さんが、働きに出たおばあちゃんの代わりに、家事を全部やらなあかんなったしな。十歳やで、十歳」

 語り掛ける母の声が、次第に涙まじりに震えを帯びていったのを、まざまざ思い出す。

 小学生の私はどうすることもできず、ただただ黙って聴いていた。目を逸らせまいと、必死に堪えていた。

<そこいくと、あの子、いや、自分、甘えてるな。十二歳やろ。公務員の家で、両親揃って、国立中学に行って、下宿までしてな>

 一世代違うと、こうも違うのか――時代が違う、と、うやむやに纏めてしまえるものではない。

「克俊さん、倒木の事故で亡くなったな……」

<その事故なかったら――今あたしら、ここにおらへんで>

「……まぁな。おじいちゃん生きてたら、お母さん、あんな山村に、いつまでも留まってないやろうし」

<てことは、同窓会で再会したお父さんと婚約せんかったわけや>

 さんざん聞かされたタイム・パラドックスのニアミスだ。

「でも……克俊さん、あの時に生き伸びてくれへんかったら――」

<ああ――インドシナ沖の海難な。軍事物資を運んどった輸送船に乗ってたんやろ>

「そう、学徒動員。十八歳や。敵機の空爆で、海に投げ出された」

 祖父の命を奪った倒木より、生き延びた海難にこそ、畏れを感じずにはいられない。

<恐かったやろうな――外国の海で、二十時間以上も泳ぎ続けて>

「千人近うおって、数人しか助からんかったんやろ。空爆で死んだ人、力尽きて沈んだ人ら――目の当たりにしながら、減っていく体力を振り絞って、絶海のど真ん中で死の恐怖と闘うて――」

<あたし、夢に見たわ……暗い夜の海に一人っきりで、どっち見渡しても、陸なんてあらへん。圧倒的な水量に泣き叫びそうになって、手足は精一杯もがいとる。でも、押し寄せる大波に呆気なく呑み込まれて――叫んで体を起こしたら、汗ぐっしょりでぜぇぜぇ言って……布団の上やって分かったら、泣きたいくらい安心して――聞いた話のイメージやないで。何も知らん子供の頃に何回も見たんや。同じ十八歳で、この話を聞かされて、やっと分かったわ――聞いた瞬間、覚えとるか?>

「忘れるわけないやん! 家の中なのに、周り中から海が押し寄せるみたいに、恐うなって――一人で闘ってたんやで、おじいちゃん……諦めてたら、力尽きてたら――お母さんも伯母さんも叔父さんも、私も真紀も、従兄弟らも、その子らも何十人もおらんかった。これから先やって、何百人とこの世に生まれて来られへん!」

<で? この話、あの子に突きつけてやりたい、って?>

「こんな話知ったら――自分が簡単におらんなってええはずない、って、分かるやん! まして、自殺にも等しいやなんて、とても顔向けできへん!」

<確かにな。絶対に自殺はせぇへん、て、あたしも思ったし。でもな、肝心なところは――>

「『自分自身で乗り越えるしかない』って? 血とか、思いとか、命とか――襷が伝わるから、生きられるんや! 他の人の存在があって、強くなれるんやろ!」

<知ったから強くなれる、それも事実や。でもな、自身の生命力ありきで、初めて他と繋がれるんや。どうしようもなく弱くたって、独りで立とうとするくらいには強うないと、誰もどうにもできん>

 私も、こいつも、その前の人たちも、祖父の話を知らないまま、立ち上がって麓まで戻った――ずっと、そうしてきたのだ。

<克俊さんの孫やなんて、胸を張って誇れるで。受け継がれているはずや。あの子は一人で帰って来れる――>

「……なぁ、あの時あたしら、何を思うて立ち上がった?」

 それは、希望と呼べるものか、それとも、生き物の本能である死への恐怖なのか――。

<夢を見たんや。懐かしい、あたしが走る夢を――>

   ◆

どっちを見渡しても隅ずみまでよく知っている道――それもそのはず、保育園の四年、小学校の六年、毎日歩いた通学路の農道だ。

 道の両脇に小さな農水路、寒々した刈田、時折ビニールハウスが建っており、人家は疎らだ。

 道に沿って、女の子の集団が二、三列に連なっている。体操服にブルマ姿の、十歳を少し過ぎたくらいの少女が五十人はいる。

 クラスメイト、同級生、それに一つ下の五年生――寒空の下、白い息を吐きながら、全員が同じ方向をを目がけて走っている。

 これは――十二月のマラソン大会だ。この一ヶ月間、体育の授業は全て、このコースを通る持久走に切り替わり、学期末の一週間前、校内の大会が開かれる。小学校では年内最後の行事だ。

 下級生の姿、それに道の脇でお年寄りや近所の主婦が応援しているから、本番まっ只中だ。

 地図帳で見た鳥瞰図のように、航空写真さながら上空から大会を眺めている私は、今どこに在るのか……鳥がゆっくり降り立つように、視点の高度はどんどん低くなっていく。

 地面に足が着くと同時に、ランナーに憑依したように、走る体の感覚が一気に押し寄せる――冬の研ぎ澄まされた冷気、白く上がる熱い息、踏み締めるアスファルトの固さ、互い違いに前後に振られる腕と脚――。

 牧場の前の赤いコーンを回った。折り返し地点だ。先頭集団もすでにバラけている。

 私の前にはただ一人――クラスメイトの一人、河西裕美の背が目に飛び込んでくる。

 河西――成績もスポーツも抜群の生徒会長だ。親御さんは外国の大学を出たとかで、家族で会社をやっている。県下トップの私立大洋中学校も確実視される、村一番の秀才だ。

 二番の私より頭一つ突き抜けているから、二人の間に切磋琢磨という言葉はない。持久走でも同じだ。

 ゴールの運動場では、二百メートル以上は離されている。いつも折り返し直後、今頃から差が広がり始める。

 だが、今日は勝手が違っている。お大師様の神社、全行程の四分の三に来ても、まだ私は二メートルくらい後ろにつけている。

(何……何で今日、河西さん、こんなペースなが?)

 私のペースのほうが、本番の高揚で、速くなっているのか?

どっちにしろ、このままでは、いずれ追いついてしまう。追いついたら……抜きに懸からなければならない!

 途端に、自分ごときが何て大それた考えを、と、心が竦んだ。

「裕美ちゃーん、友紀ちゃーん!」

「どっちも頑張れー!」

 沿道のおばさんたちは、人の気も知らず、暢気に手を振りながら、大きな声援を送ってくる。

 事態は否応にも切迫していく。すんなり二位の位置に留まるほうが、争い慣れてない自分には、心穏やかでよほど居心地がいい。

 学校へ近付くにつれ、心肺と体力の悲鳴は大きくなっていくのに、心理的な圧力や争いまで懸かってくるなど――どう考えても、得策でないに決まっている。

 だが、なぜ……なぜ私はいつまでも河西の背についているのだ? 己の力を抑えることができないのか。

 首位争いなどという、かつてない場に、自ら飛び込んでしまった。挑んだって、返り討ちに遭うだけ。敵いっこないのに馬鹿な奴だと、謗られる。学校のゴールまで、負けん気の強い河西を背に、オーバー気味の心身が最後まで耐えきれるのか。妙な期待を抱いた分、何倍もの敗北感と失望に打ちのめされるのではないか。

 河西は振り払うように、終盤に来て、スピードを上げた。

 ああ、なぜ私は、さらにスピードを速めている! 目の前に走る者を捉えようとする、獰猛なこの衝動――おののく心を遮って、がむしゃらに駆ける私を、別の自分が、驚きを持って眺めている。

 抜いた! 前に誰もいない。上空に前方に、広く大きく田園地帯が広がっている。延びた道、橋、川、山々――毎日、見知っているのに、十年間で初めて見る景色だ。

 振り返ると、いつも余裕で笑っている河西の顔が、びっくりするくらい崩れていた。焦り、怒り、恐怖が一緒くたになった感情が、異常な執念をもって私を追跡してくる!

「私は練習でも誰にも負けことないき、最後の最後に大番狂わせが起こらんとええな。最後で誰かに抜かれるとか……嫌やな、狙うものないに、落ちるのを恐がるが」

 十日ほど前、河西がグループの女子に話していた言葉――自分で自分を締め付けて、どんどんきつくなったのだろうか。常にトップという切羽詰まった思いで、自ら追い詰めているのか。

 かつてない位置に置かれておののく私、潜在的に恐れていた事態が現実に目の前に現れた河西――自分と河西、存在が混濁するような錯覚――蜘蛛の巣を払うように、頭を左右に振る。

 二人分の苦悩を抱えるなど決してできはしない。河西の分は河西が、自分は自分に、向き合うべきなのだ。

 後ろから確かに気配がする……いっそ、二位に戻ったほうがよほど楽だ。何に追われ、何から逃げているのかも知らず、ただひたすら走り続ける、何のためにと叫びながら――。

 もはや呼吸は、リズムなどとうに失って、溺れる者が水面で喘いでいるかのようだ。疲労した脚は壊れてしまったかのように、意志を通さないまま、まだ高速で回転し続けている。首も脇も背中も汗が噴き出して、体操服がぐっしょり湿っている。

 学校が見えた! 外壁を半周して、運動場のトラックに入る。

「おい、トラックにおるが、河西やないでぇ!」

 番狂わせに気づいたクラスの男子が、だれた姿勢を我先にと起こしている。自分たちにはとっくに終わっていた大会に、思っても見なかった一石が投じられて、待機の席に張られたロープを握って体を前にのめりこませている。

 分かり切った勝負に、思っても見なかった展開――皆が立ち上がって、興奮を露にしている。

「河西は怪我でもしたか? 練習もずっと一番は、あいつやったで」

「友紀や! あの河西を抜いちゅうぜ!」

 従来の在り方を望む目――それでいて、下が上に、後ろが前に、不可能が可能になる瞬間を見たがっている眼――。

 すぐに河西がトラック入りした。異様な雰囲気が下級生にも伝わって、運動場全体が騒然としている。

「ハっ、ハアっ、ハアぁっ!」

 私のではない喘ぎ声が、肩のすぐ後ろに聞こえる。

 恐怖のあまり振り返ると、追跡者がものすごい形相で駆け寄って来る。河西は何もかもかなぐり捨てるかのように、必死に喰らいついてくる。今を最後みたいに、スパートを掛けてくる――自分の中にもある苦しみを、まざまざと見せつけられるみたいだ。

 長距離走の終盤で、短距離走のような一騎打ちだ! ああ、苦しい! 苦しい、苦しい! なぜ、こうまで意地を張る? 自ら苦しみに身を投げる? その先に、いったい何が在るというのか――

 だが、ここで引いたら、一生ずーっと後悔する――言葉にならない強い予感が、疲弊しきった体を突き動かしている。その感情こそがよほど長く辛く苦しい……もはや相手は、河西ではなかった。

 悲鳴を上げる体に打つ鞭、折れそうな心を蹴り上げる意志、足がもげようが自分の走りを貫き抜けるか――

 腹に細長い布の感触がして、私は地面に倒れ込んだ。

「……ぐっ!」

 俯せて吐きそうになり、体を半回転させて仰向けになる。ゴールテープが巻きついた体が、冷たく澄んだ蒼穹と向かい合っていた。

   ◇

「……死ぬ前って、良かったこと思い出したがるもんやな」

 己一人ではどうにもならないとは、こういう状況を言うのだろう。

 こんな急に、死に方を考えさせられる。生き方を考える時間など、もうないというなら――

<心静かに最後を迎える、か>

 悪くない――こんな雄大な景観を眺めながら、偉大な祖父を語りながら、心静かにいられるなら――。

「なぁ……最後かもしれへん時に、こうやってあんたと話してんの、悪い気せぇへんで」

<あぁ、ずいぶん――ずいぶん遠くまで来たな>

「……会えてよかった、ありがとな」

   ◆

 目を開けると――キャニオンの岩に背をもたせていた。湿っていた頬が、冷たい風にさらされて、ぱりぱりに乾いている。

 ……浦島太郎みたいに何年も経っている矛盾はないにしても、十分、もしかしたら三十分以上、とにかく自由時間は、確実に過ぎ去っている。時計がないから、時間の感覚が掴めない。

 一つ確かなのは、さすがにまずい状況だという事実――ラスベガスの往来に飛び出した真紀の比ではない。街に出た妹より、峡谷で姿をくらませる姉のほうが、よっぽどとんでもないことをしでかしているのだ。

 体を起こそうとして、砂に手をつく。一瞬だけ浮いた腰は、脚の力が入らず、ドスっと落ちた。

 ……力が入らない。自分の体が自分のものではないみたいに、まるで言うことを聞かない。もしやこれが――貧血というものか!

「……嘘やろ!」

 錯乱した意識で、ぐるぐる思い出す――昨日の夕方は、ツアー中に小さなおにぎり二個だけ食べた。早朝三時の起床、食欲などあるはずもない。起き抜けに水を一口飲んだだけだ。二十時間近く、ほとんど何も口にしていない。

 朝っぱらからの山歩き――コンビニはもちろん、食べ物を売っている店なんか、近くにない。

 飛行機でラスベガスに帰るまで、食べ物は何も手に入らない。日本の便利さが嘘みたいに思える。ここは、本当に、別の世界なのだ!

 時差に気候、日々の不規則さ……一気に押し寄せてくる。極度の疲労で、生まれて初めて貧血に襲われる、砂時計の砂が容赦なくさらさらと落ちていく中、よりにもよって、駐車場から遠く離れた、こんな場所で、独り――

「……だ、誰か――!」

 肌寒い、空気も薄い、どっちを向いても剥き出しの赤い岩だらけの巨大な空間――徹底的に人を避けたのが裏目に出て、人影一つ見当たらない。ツアーのガイドも、一緒に来たお客も家族も、どこにいるか分からない。

 集合時間は刻一刻と迫っている。もし、バスに間に合わなかったら、どうなるのか……日本ではないのだ、容赦なく置いて行かれる! 今の有り金は……二千円ちょっとしかない! 他に日本人ツアーもいなかった。

 国籍などお構いなしに助けを求めるにしても、状況を的確に英語で伝え、何百キロも離れたラスベガスへ連れ帰ってもらうなど――

 ガイドブックの注意事項のページを、今、思い出す――「個人旅行の日本人女性が、この地で殺されて捨てられた」

「お願いします、無事に……!」

 昔、床の間の神棚に向かってしたように、手を合わせて願いを口にする。保育園の遠足に行きたくて、熱を下げてお腹を治してもらおうとした時とは、比べものにならない真剣さで祈る。

「無事に帰れたら――!」

 ナップサックから、お茶のペットボトルを取り出し、残りを一気に飲み干す。乱雑な字で書き付けた紙を小さく畳み、ペットボトルに入れ、きつくキャップを閉める。石で土を掻いて、穴を掘る。ボトルを埋め込んで、上からまた土を被せる。

「――私、絶対また、ここに来るき!」

 寄り掛かっていた岩と、周りの木々と草花の像を、この眼と脳裏に焼き付ける。

「……ぐうっ!」

 重い体を持ち上げる。二、三歩よろめいて、来た方角へ血の足りない体を押して歩く。

 一人で観たいと、取った行動に、後悔はない。

要は、責任を取るだけ!

「……うく……っ……」

 ベストコンディションでもやらないハイペースで、がしがし進む。

 なぜ戻ろうとするのか――居心地のいい環境は、時間の向こうへと奪い尽くされているのに――空回り、リズムを失い、歯車を狂わせ、何の力も出せず、無惨な結果に襲われ、気力を損なってさらに空回る、強力な日常のループ……。

 駐車場まで何百メートルあるのだろう。掴めない距離に腰が砕けつつ、それでも止まる訳にはいかない、歩き続けるしかない。

 動かなければ、いつまでもここに一人きり。一歩だって積み重ねれば、何十、何百、何千……必ず景色は変わる。

 リアリティのない現実、他人の作り物に興じてばかりだと言った、両親の言葉が蘇る。満たされない空しさ、何のために毎日があるのか見出せない。毎朝、寮の部屋のドア前で、薄暗い闇に怯えて座り込むだけ――。

 親元を離れた生活、郡部の子には難しい勉強、嫌な子がいるクラス……半年間、上手くいかない原因を探し続けた。

 何が変わるわけでもなかった。親に引っ越しをさせたり、学習カリキュラムが変わったり、クラスメイトがいなくなるなど、外側は、まずどうにもならない。

 生活が荒れるのは――だらしないから。国立中でやっていけないのは――去年一年の勉強だけでは足りないから。馬鹿にされるのは――自信なさげに、おどおどしているから。誰にも話し掛けてもらえないのは――自分が口を開かないから。

あえて見なかった内側にも、色々と理由は見つかって、もっともらしい説明もつく。

 待たねばならない、求め、近づこうと足掻きながら。来るのだろうか――見るもの聴くもの、人々、時間、勉強――全てに意味が見える時が。

 あのニュース……一人旅で殺された日本人女性――死んだら人は、どうなるのだろう。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに繋がれた縦の糸――それぞれを囲んだ、たくさんの横糸――縦横の中点に在る私自身は――

「……ハぁ……ふッ……」

 どこまで行けるだろう。どこへ行きたいのだろう。

 行く手にあるものが、今はまだ遠くて――

 分からないまま、足を踏み出す。今ひとまずのゴールを目指して。

 ゴールなんて虹みたいなもので、実体のない、掴めない、在るように見える幻だ。受験の終わりが今の始まりだったように、辿り着いた瞬間、それはスタートに変わる。

それでも止まれないから、行くしかない、真のゴールなど存在しないと分かっていても。

「友紀!」

「……お父さん」

 全ての力が抜け落ちた体に、熱い血が巡る。

「行こう。もうすぐ、バス出るで」

 穏やかな瞳で、大きな手を延べている。少しためらって、自分の手を延べると、固く温かい皮膚でしっかり包み込まれた

「……お母さんと真紀は?」

「先にバスで待ちゆうよ」

 ゆっくり歩き出すと、爽やかな涼気が火照った体を優しく撫でている。手を引かれるままに、空の光の筋を眺め、木々の葉が細やかに揺れる音を聴きながら、一歩一歩歩いて行く。

「手ぇ冷えちゅうやん」

「……うん」

「どんな旅をして来たが?」

 声が出ない。首を縦に振る、後ろからでは伝わらなくても。

「…………っ!」

 繋いだ手を、やっと数回だけ前後に振る。力の入らない腕に、熱い滴が落ちる。

 こんなにも晴れわたった朝なのに、目の前が霞んで、全ての輪郭が優しく緩んでいた。

<全く違う未来に差し替えやなんて、天文学的な確率やで。普通に考えて、そうそう在るわけないやん>

「ムカつく! わざと針小棒大に言うたやろ!」

<自分の心が、外側の世界にストレートに反映される、それだけや。あの子も、あたしらも――>

 十五年前、貧血の体を押して小走りした道を、睡眠こそは足りていないものの、水も食料もしっかり入ったバッグを肩に掛け、好きなだけ時間を掛けて歩いて行く。

「結局、あの後、何事もなかったかのように、サンフランシスコに移動したな」

<親も察してたんやろ>

「陰口を盗み聞かれたこと? ま、向こうも迂闊やったけどな」

<それも含め、全部から逃げ出したことや。帰ってこんかったら――て、気が気やなかったと思うで>

「二学期が始まる時、もっと心理的な抵抗があるかと思っとったら、意外とすんなり学校に行ったな」

<二年になって、あの一方的女……そや、真美、クラス離れたな。その後、友達になったやん、森下晶子ちゃんと>

「同じ郡部出身やったからな。先月、結婚したから、森下やなくて、宮本や。ま、高校も大学も就職も、個々の状況は違うけど、どっか似たような想いがあったな」

<よう一人アメリカに来れるくらい、稼げるようになったで――>

「命と引き替えの誓いやもん」

<同じやった?>

「場所はな」

 十五年前、家族と共に旅をした、この場所――

違うのは、そこをいた私――

「この道……あの頃と似た心持ちがするな。でも――同じやない」

 何も変わらない、でも進んだ、かすかな大きな距離を想う。

「そっちこそ、十五年の時間軸の往復、さぞ楽しかったんやろ」

<それなりにな。バッチリ思い出して感覚が掴めたし、さっそく帰って、描写の作業や>

「やっぱり、ネタか」

<共有財産やろ。そっちこそ、帰国の時が迫ってきてるで>

「日本、か――ここまで遠かったけど、帰んの、あっちゅー間やな」

<日常、や――終わりない、な>

 プロペラ機でラスベガスに戻ると、正午を回っていた。

 ビュッフェで昼食後、休む間もなく荷造りしていると、間を置かず送迎車が来た。マッカラン空港へ直行し、午後便でサンフランシスコへと飛び立った。

 現地のホテルに入った十九時に、ぱったりベッドに倒れ込んだ。

 目が覚めると、部屋の時計は午前二時だった。鞄のパンを食べ、サービスの紅茶を飲み、残りの小説を一気に読んで、風呂に入った。

 朝六時、ホテルを出ると、朝靄というには濃い霧が掛かっていた。

 霧深いサンフランシスコの朝、閉じた店のショーウインドーや看板を眺めながら、足の向くままに散歩する。

 案の定、「ユニオン・スクエア広場」にも、誰一人いない。朝露で湿ったベンチに座り、スペイン海軍との戦いで活躍した提督を称えるという白い塔をぼんやり見上げた。

<こんな所で眠らんといてや>

「疲れた……パウエル通り、もう三往復もしたんやで」

 べンチに腰を下ろし、白んでいく空を見上げる。

<今日で最後やな>

「最後に言わせてもらうで。やっぱ、ズルいわ。こっちの考えと言動、筒抜けの丸分かりやのに。そっちのは見えへんなんて」

<何がアンフェア? 長く生きてる分、振り返れる範囲が広いんは普通や。時間軸上、過去が見えて、未来は見えへんなんて、当然やろ>

「分かっとるわ。言うてみただけや」

<じゃ、ヒントだけな――過去は答やないけど、重要な手がかりやで。歴史に学べって言うやろ。下手を繰り返すのは、アホやで。第一問「元彼・杉浦尚人」、自分のほうが悪かった点を述べよ>

「次の男のためか。うーん……あいつが怒った時か。一番は、あれやな。警察学校の卒業式に行く約束しとったけど、美容院に行ってしもうた。友達にも彼女が来るって言うとったらしいけど、『面子が丸潰れや!』て、怒鳴られたわ。そん時に別れ話になったけど、結局ヨリ戻して、また一年ずるずる経ってしもうたなぁ」

<……ありえへん。卒業式なんか忘れるか、普通?>

「だって、一月前にざっくり聞いただけで、前日に確認のメールもなかったもん。それと、最後の一年は、誕生日スルーして、メールも打たへんかったな。他には――別れ際か。一方的過ぎたんかな。何日かして掛かってきた電話も無視した。当たり障りないメールした瞬間、電話が掛かってきて。出んで、『別れたんやから、メールとか電話せんほうがええ』て、打ったな。返事で『意味分からん! 別れても友達やし。お前の考え、絶対おかしい!』って。うっかり電話に出て、復縁を迫られたら、困るやん?」 

<まぁ確かに、その時は、そんな考えやったけど……>

「そうそう、あいつに借りてた一万円、返してなかったんや。半月して家族割に携帯を変えてたんよね。連絡取れんなった尚人が、実家に電話を入れて事情を言うたんや。お母さんに聞いたら、『前は爽やかやったのに、声の調子とか、変な感じになっとった』て。お金、手紙を添えて実家が送ってくれとった。向こうのお母さんから返事の手紙が来た時、事情を知らんで、ほんま、びっくりしたわ。お互い親に代筆してもらったんやな」

<最悪の残務処理やな。今、思うたら、友達に『彼氏が可哀想やで』って言われたのも、無理ないわ>

「尚人やって、酷いで! あいつ、二週間後に電話ぁ掛けてきて、『なぁ、お前、職場におった田中って男と、何かあったんか?』とか言うたんやで。大昔、仕事の愚痴を言った時に、たまたま出した名前やん。しかも後ろで、冷やかしみたいな声するし。男友達で飲みながら、酒の肴にしとったんや。推測であることないこと、私に男おるって話になってて。どうせ周りにはやしたてられて、賭けた上で、電話してきたんやで。それ問い詰めたら、あのバカ、黙りよって。『男なんかおらんわ、アホ!』て、携帯ぶん投げてやったわ」

<どっちもどっちや>

「何、その余裕? あ、もしかして、誰かおる? もう結婚しとるとか? 独身時代が懐かしいんやろ?」

 ふっ、と、鼻息だけ返る。やはり、カマ掛けだろう。

 八時に差し掛かり、ちらほら開いた店に何軒か入った。職場への土産に大箱入りのカシューナッツ・チョコをいくつか買って、銀行で最後のトラベラーズ・チェックを換金してホテルに戻った。

(次、ほんまに最終地点やな……)

 ゴールデンゲートブリッジを目指すバスに乗り、坂道だらけのサンフランシスコの街並を眺める。

 ゴールデンゲートパークを走り抜け、ビュー・ポイントのベスト3に入るという「フォート・ポイント」を目指す。

「で、第二問は?」

<「仕事」や。いつまで続けんの? 二年? 五年? 十年? ずっと? 塾勤めやったら、帰りは日付が変わるのに、結婚出産して、続けられるわけないやん>

「嫌なとこ突くな……」

<どうもその辺り、現実逃避しとるよね。若さが無限にあるって錯覚しとるし。次々に若い子が出てくる現実を直視せな>

「やっぱり職場、移るんかな……って、親みたいな小言、今ここで言わんでもええやろ! 旅行中や、海外や!」

<親より近い本人や。あたしにも影響するんやで>

「肝心なところは自分で乗り越えるんやろ。口、出しすぎやで」

<正味、尻に火ぃ着いてないやん>

「十二歳の時は放置したくせに、過干渉なんちゃう?」

<三十歳に乗らへんと、分からんかな?>

 ゴールデンゲートブリッジ――世界的にも有名な、サンフランシスコの象徴の吊り橋――アクションやパニック映画で、毎回破壊されるのを見過ぎたせいか、太平洋サンフランシスコ湾に堂々と架かる橋を厳かに仰ぎ見る。

「分かっとるわ。小説は人生みたいやけど、人生は小説やない――」

 そびえ立つ支柱、ゆるやかに弧を描くワイヤー、橋を彩る鮮やかな赤が、霧の中にくっきり映えて際立つ。

<また来るで>

「もう来んなや」

<アメリカにな――Have a nice day!>

 あの時も聞いた言葉をのせて、金門橋に吹く潮風は、蒼く澄んだ大空へと吹き抜けていった。

 あれから、何年経ったのか――。

未だ私は、思いを上手く声に出せない。不定形な思いを限界までこらえて、文字という不完全な形に託そうとする。

 体と心の静かな境界、過ぎ方多くの人と、時空を越えた魂や霊との対話――祈るように、ただ側に在るように、対峙している。曇った眼が歪める像に手を延べ、在りのままを見つめようとする。

 時が移り、今とは違って見えても、忘れはしない。言い尽くせない限界、それを越えようと、声なき声を叫び続けている、

 積み上げた原稿用紙、表紙のタイトルを指でそっとなぞる。

『Goast Of Air―Line』

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Ghost Of Airline 小原 友紀 @Nogigi

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