第10話 過去と未来のメッセージ
◇
あるかないかの浅く短い睡眠を遮る電子音……うるさい携帯アラームだ……異国にあっては無力な器械が、一日一回の仕事で、その存在を掻き鳴らしている……
三時……午前か午後か、奇妙な前後不覚……深夜に及ぶツアーから戻り、部屋のベッドに前のめりに倒れ……昨日の服のまま、メイクも落とさずベッドに倒れ込んだ。夜の延長の、早すぎる朝だ。
夜のラスベガスから数時間、間髪入れずに「グランドキャニオンツアー」の時間が来た。
過酷だ……なぜ私は、これほどまでに欲張るのか。
二度寝は二度と起き上がれない。今日一日をフイにしかねない。吐き気を呑み込み、錆びた体を持ち上げる。バラバラになりかけている意識と体を無理に繋ぐ。
この国に来てからというもの、床に就くのは夜中ほんのわずかな時間だけで、昼間に突如ぷっつり意識が途切れる。ツアーバスのシートで、いつの間にか惰眠を貪っている。
容量の少ない体に、連日の変則リズムが、十六時闇の時差と相まって、自律神経をメッタ打ちにする。アルコールみたいな成分がだだ漏れて、メンタル・トリップが続き、肉の感知を鈍らせ、それを恒常として麻痺に気づかない――振りをしている。何度も意識を飛ばしかけ、どうにか着替えと用意を済ませる。
ふらつく足取りでよろめきながら、夜中四時のブルーバード往来に出る。眠らない街のホテル、内外に煌々と輝くネオン、鳴りっぱなしのカジノマシン、夜を徹して興じるギャンブラー……
真夜中に立ち尽くす日本人女も、風景の一部に溶け込んでいる。異国の歓楽街、何をするでもなく静かに佇み、夜の街を眺めている。
寄せては返す眠気の波に揺られ、この身を置く不思議な光景を、目を閉じたまま見つめている。
ほぼ一時間待たせされた挙げ句に、ようやくやって来たバスは、何も言わずに半寝入りの私を積み込んだ。ブルーバード中のホテルを回って、瞼が半分ほど下りている日本人を次々に拾っていく。
外界と意識の細く長い境界線上にある瞳が、薄い光を微かに感じている。白んでいく空ともに静寂が忍び寄り、あれほど派手だった喧噪を静かに包んでゆく。
原色のネオンが完全に落ち、ゆっくりと昇る日が地上を照らすと、長かった夜はようやく眠りに就く。閑散とした沈黙の街は、扇情的な夜からは想像もしなかった、こんなにも静かな朝を見せてくれる。
プロペラ機の機搭乗手配を済ませて、他のバスからの参加客を待つ。手狭なフロアには、ネイティブ・アメリカンの工芸品や、グランドキャニオンに生息する動植物の写真が飾ってある。
ざっと見て回り、いい加減、待ちくたびれて腐れた気持ちを静める。ガラガラヘビのアップの写真が、旅のメインに寄せる多大な期待にさりげなく水を差す。
ようやく全員が揃って、おじさんガイドが説明を始めたのは、ホテルを出てすでに三時間以上も経っていた。
プロペラ機でさらに一時間、四日連続の飛行、当初の興奮も疲労の前には影を潜め、通勤電車に揺られているのと変わらない。
明日のサンフランシスコも、明後日の帰国も、ほぼ一週間、毎日ずっと、歩くように当たり前に飛んでいる。
鳥にだって、なれそうだ――明るい白面の世界、体は浮き上がって、大地のしがらみから解き放たれている。
◇
〈Hey! Wake up!〉
ネヴァダ州に降り立つと、寒さで一気に目が冴えた。
〈It is a sunny day.So good!〉
(……あんた、英検でも受けんの?)
中学生レベルのジャパニーズ・イングリッシュなモーニング・コールを遮って、さっさとバスに乗り込む。
確かに旅のメインが雨では、地球を半周もした甲斐がなくなる。
〈Anyway,what is your purpous?〉
(なぁ、あの紙片……見つかった? ペットボトルに入れた紙や)
バスの車窓から見える景色は、確かに見覚えがある。十二歳の夏、一人きりでパニックを起こして書き付けた、あの紙片――
〈Huh,I must say I do not know〉
ガイドが、ヤババイポイントの到着を告げる。バスから降りると、さっきよりも冷んやりした空気に包まれる。
(Wow、やっぱり、凄い……!)
中一の私の目に映った巨大な渓谷が、同じ姿で立っている。
パノラマに広がる四億年という時間の途方もない大きさが、理屈抜きで見る者の全てを圧倒する。数年でガラリと様変わりしてしまう昨今、十五年なんて大昔でさえ、瞬き程度だろう。
(こんだけ変わってないんや、多分、あのボトルあるで!)
ガイドの説明をスルーして、ノスタルジックな興奮に任せて、昔逸れた脇道へ一直線に駆け込む。
「さぁ、早朝フィールドワークに行こか!」
〈Wooo! We are treature―hunter 〉
十五年間、地中で眠り続けたものを、今、呼び覚ましにいく。
「オチ、知っとるんやろ。あんたは黙っといてや。地球の裏側で十五年も経った、とっておきのタイムカプセルなんやから」
〈さんざんネタバレ要求しといて、勝手な奴っちゃ。時間も空間もサイズでかいからって、張り切っとるし〉
乗馬を楽しむオプションツアーの一行とすれ違い、馬の糞を飛び越えて、あの日一人きりで過ごしたポイントを探す。
「こっちやったと思うけど……なぁ、道は合ってる?」
〈Help yourself as you like〉
「ええもん、ヒントなしの攻略のほうが、達成感あるもん――あ!」
〈誰もおらんなったな、あの時みたいに〉
誰もいない、何もない、小気味がいい……見覚えのある曲がり角、樹木、岩、眼下の景色――
「……ここ、ちゃう?」
目の前の景色と、深い記憶がぶつかり合う、奇妙な既視感――もどかしさと、込み上げる懐かしさが、再会の喜びを呼び覚ます。
「……この木の根元やったよね」
拳くらいの石を掴んで、土を擦って地面を引っかく。焦れてきて、土を手掴みで、昔飼っていた犬のように掘り始める。
かつて在ったものを見出そうとするのは、初めて出会うものに劣らず、胸が躍らされる。
「あっ、ほら、見てや!」
古ぼけたオレンジのキャップが土から顔を出す。爪に土が入るのも構わず、興奮に任せて掘り起こした。
昔見た、触れたものに、どうしてこんなにも、魅きつけられるのだろう。
――あった! 今はないメーカーの、古ぼけたペットボトル。土まみれのキャップに指に掛け、力を込めて回す。開いた!
折り畳まれた紙片が、砂掘り返した土の上にひらりと舞い落ちた。
◇
〈読まへんの?〉
いざ手にすると、パンドラの箱を前にしているみたいだ。昔の日記や作品を押入れから発掘しても、あえて読みたいとは思わない。未熟な若さに、赤面必至の恥ずかしい思いを、今更させられたくない。折り畳まれた紙を開くのを、指がためらっている。
「タイタニック号が氷山に衝突したみたいに、引っくり返ったよね」
〈うん。船体に穴ばっくり。海水がどんどん入り込んでる感じ〉
外国まで来て、収穫なしでは意味がない。
意を決して、紙片をぱっと開く。沈没寸前の船で水を掻き出すみたいに、必死に書き付けた子供の自分の文字を、ざーっと目で追う。
〈どう、捜し求めた過去のメッセージは?〉
「……何て言うか、自分にばっかり、ベクトル向いとるわ。一方的な自分の感情だけ。何不自由ない日本人の子供がブーたれて、一人で飛び出してっただけ。壮大やけど危険と隣り合わせの自然にノコノコ踏み入れて、勝手に自分の負の感情に囚われて。死ぬ気もないくせに、ポーズで死線の手前に近づいてるだけや」
気恥ずかしさにまくし立てると、急に、妙な脱力感に覆われた。
〈ふーん、なかなか辛辣やな、我ながら〉
「親の言ってた話も、大体は合ってるやん。外部からの刺激にすぐ反応してたな。ささいな刺激で、喜怒哀楽が大っきく変化しとるし」
〈衝動をコントロールできへんから、周囲が予測不可能な行動をとることがあるわな〉
「当人は悪さしてる意識が希薄やけど、自分も周りも危険やのにな」
〈柔軟に考えられへんから、刺激への対応が難しいんや。苛立って拒絶しとるのに、表に出せへんし〉
「あんなんじゃ、親にも呆れられるし、子供社会の標的になるやろ」
〈家でも学校でも、ほんま不器用で損してばっかやったな〉
「ぼんやり宙を見てたり、話を聞いてないみたいな時はあったわ」
〈言われた内容分かってるのか、相手には伝わりにくいやろうな。どうせ漫画とかアニメとか空想ばっかりやったろうけど〉
「興味の対象がはっきりしてて、嫌いな項目は極端に嫌がって興味を示さへんかったな。サブカルチャーにこだわることで、情緒の安定を図ってるんやろ」
〈現実では人の言葉聞かへんで、事が窮して初めて思い知るんやな〉
「必要なことは教えてもらえるのにな。素直に心を開けばええのに」
あの時の私は、真剣に切実に、悩み苦しんだ。
今は、あの日の親と同じ、乾いた視点で、第三者的な客観性で、そこそこ的を得た分析を叩き出している。同じ人間でも、こうまで見方が変わってしまうものだろうか。
〈でもな、親とか先輩、数年後のあんた、つまりあたしは――〉
「分かっとるわ、同じもどかしさを感じさせてるって言うんやろ」
〈いつやって、後悔を抱える先達は、のんびりした後進に訴えたいんや。甘さと暢気さで、煙たがって受け入れられなくっても〉
「やっと分かる頃には、時すでに遅し、選べる道は限られて、なるように流されていくばかり、か。受験も、就職も、結婚も――後のない窮状が、もういくらも残っていない道へ、考えなしの私が追い込まれるわけや」
〈そう、何となく近いものに、何となく収まるんや〉
◇
〈なぁ、あの子このまま動かへんかったら、どうなると思う?〉
「そんなん何日も、保つわけないやろ。紙をボトルに入れて埋めて、結局、麓に戻ったやん」
〈それがな……そうとも限らへん。あの子、あんた、あたしは――時間軸上に在るけど、完全に繋がってないねん〉
「……何で? あの子は私、私はあんたやって、言ってたやん」
〈そうやけど――そうやないねん〉
「……分かるように言うてや」
〈あの過去は、この今は、全てがあたしの未来に繋がってる、ってわけやない。少しずつ、でも確実に、ズレが生じる。つまりな、数字で言うと、あたしは、あんたの体験を百%引き継いだわけやない。ま、九割方そうなんやけど、若干の差異があんねん。原体験ってのは、自分だけにしかできんもんや〉
嫌な話だが――おそらく事実だろう。同一人物であるはずの私たちの会話が食い違う理由は、記憶にズレがある原因は、やはり――
「じゃ、あの子……一割近くの確率で、私もあんたも、その前の人も、ずっと選んできた『麓に戻る』って選択肢を選ばへんのか!」
〈早い話が、そういうこと。あたしらの繋がりは、完全っちゅう訳やない。自分独りの体験が必ず在って、ゆえに自分自身なんや〉
合わせ鏡に映る自分は、皆同じではない――一体全体、自分の過去に何が起こっているのか!
「もしあの子が、ここで……死んだら――私ら、どうなる?」
未来は完全に繋がってない。大筋は合っても、細かい差異がある。だが、そのわずかな差が、大筋を決定的に覆すケースがあれば――
〈ズレ方によっては……全く違う未来が現れる! タイム・パラドックスて、SFにある設定――実際に起こるんやで〉
「――あなたは、この世界には存在しません、って?」
〈せや。『女子中学生、アメリカ旅行中に行方不明、謎の事件もしくは失踪』――両親は、真紀だけ連れて、日本に帰る。マスコミや警察とのゴタゴタに揉まれて、三人家族に収まるんや〉
「……何、何なんや、それ! 冗談やないで!」
二十七段の積木の十二段目を抜いたら――上の十五段は、あっと言う間に崩れ落ちる!
「十二歳以降の未来が、ぷっつり消えてなくなるって言うんか!」
死の可能性を回避しないと、未来の自分が存在しなくなる!
「止める手立ては!」
〈さぁな……十二歳のあたしは戻ったで。あんたの時も、どうにかな。あたしらの前の、前の――ずっと前の人らから、連綿と受け継がれてきたターニング・ポイントや。みんな戻ることを選んで、未来を繋いできた。でも、次も必ず戻るって保証は、一切ない。ねじれてハレーションが起こる可能性は、いつやって隣り合わせとる〉
「あんた、あの子とコンタクトできるんやろ! 私ら、消えてしまうかもしれんのやで、初めっから居なかったみたいに! うだうだ言い合っとる場合ちゃう! バカな考え起こさへんように、説得しに行ってや、早う!」
こんな青天の霹靂――突然、交通事故に遭ったみたいなやり切れない理由で、人生が幕引きされるかもしれないなんて!
〈覚えてるやろ――あん時、あたしの声したか?〉
「――してへんわ! 何っにも聞こえんかった! あんた肝心な時、いっつも居らへん! 任せられへん、もう頼まへん! 私が行く! 過去と接触する方法は?」
首を横に振っているような無言――
「何で! あんたも行かへん! 行き方も教えてくれへん! 嫌やで……私、このまま死ぬんは、絶対嫌や!」
何の手もないのか? 与り知らないところで、自分が死んでいくのを、手を拱いているしかないのか。
「ここは、キャニオンは、四億年の堆積やろ! たかだか十五年くらい、飛び越えられへんの!」
〈肝心なところはな――真に独りで越えていくしかない〉
その時の自分が、自力で超えるしか道はない?
ならば、今の自分が、今できることは――
「そう……そうなんやな……!」
頭のネジが全力で逆方向に振り切れ、ある考えが頭の中を貫いた。
「時空のバグで、あんたが出てきたんやない……逆や! 私らこそ、あんたの記憶が再現しとるイメージなんやな!」
私は鏡を覗く主体じゃない――
鏡を覗いているのがこいつ、映っているのが私なのだ。
「とんだ笑い話や。この世界こそ茶番――自作自演の不毛な話や!」
鏡に映った像が、外の実体に向かって叫ぶ。天地の引っくり返るような感覚に、全身が燃え滾って打ち震えている。
「あんたやって! 今、何かに躓いてるんやろ! だから、過去の苦しみを見ようとする! オチも何も全部分かっとるくせに、あの子と私が足掻くのを、未来っちゅう高い所から見下ろして!」
大人になっても、目の前にある問題は、何も変わっていない!
「確かに私は未熟や! あんたもな! そのくせ格好つけて、訳知り顔で眺めとる! 今の自分を棚に上げて! 何のためや! 自分のためやろ! 探してんやろ、あんた自身の答を!」
〈そうや。無いと分かってても、あんたらの中に答を探しとる――〉
「見下ろしてたって――答も、こっから先も、無い!」
あらん限りに叫ぶ声が、赤い岩肌に木霊する。
〈歳とって大きゅうなっても、本質的なところを越えられへん――〉
「――自分自身が、この今を、生きるんや!」
沈黙の峡谷は、この声を、吹き抜ける風に乗せて跳ね返す。声は私に突き立って、えぐるように貫いた。
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