第9話 大いなる峡谷

 目が覚めたら、空の上にいた。寝返りを打とうとして、真横に真紀の寝顔がアップで現れ、プロペラ機のシートの上だと思い出す。

〈How are you today?〉

 重く怠い頭に、久しぶりに聞く声が響く。

(しんどい……寒い……頭痛い……)

〈そろそろ疲れもピークの頃や。昨日の夜もツアー遅かったやろ〉

(……レイ、今まで、どこにおったが?)

〈おったよ、ずっと。ホテルで叩き起こされて、送迎バスで二度寝して、機内もお父さんに背負われたがも知っちゅうし〉

(あんたの声、ずっと、せんかったで? 要らん時おるくせに、助けてほしい時におらん)

〈家族とおる時は遠慮しちゅうがよ。今日は、どこ行くが?〉

(グラウンドキャノン……あれ?)

〈グランドキャニオンか。旅の目玉か――いよいよ大詰めやね>

 半寝入りの頭に、レイの声が遠くなっていく。

〈なぁ、峡谷は大きすぎるき、迷子に気ぃつけ。迷うても、投げやりにならんでや。あたし、声はせんでも、いつも近くにおるきね。

Have a nice day〉

   ◆

「……さむ」

 プロペラ機から降り立つと、あまりの寒さに身震いする。

「ほら、上着の前、チャック閉めや」

 山登りの時に着るゴアテックスのジャンパーを着せられ、喉元までチャックを上げられる。

「ロスは海洋性、ベガスは砂漠やけど、ここは高山やきね」

 お父さんのガイドブックも、大分ページが進んでいて、残り少ない本の厚みを見つめる。

「明日のサンフランシスコは常秋や。季節も日替わりやき、みんな、体調気ぃつけや」

 リズムの乱れた体に、暑さ寒さが染み入る。今日の場所は、いきなり南半球に連れて来られたみたいに、季節が逆転してしまった。

 ヴィレッジからバスに乗り込む。東に延びるイーストリム・ドライブのルートを、朝霧を分けてバスは進む。

「さて、皆様。当バスは、観測地の一つヤバパイ・ポイントを目指しております。スペインの探検隊が、初めてキャニオンを発見したポイントでございます」

 三度寝に下がる瞼の端に、野生の鹿が横切って走った。五分寝ては起きる浅い眠りを、小一時間ほど繰り返す。もう一睡もできなくなった時点で、バスはほどほどに混んだ駐車場に停まった。 

「お待たせいたしました。このポイントは、インディアン・ガーデンを臨み、コロラド川を見下ろします。ロッキー山脈に源を発する全長二三五〇キロの大河が、何百万年もの時をかけてカイバブ高原を侵食してできた、巨大な渓谷です。長さ東西三五〇キロ、谷底から岩山の頂上まで二〇〇〇メートルの高低さでございます」

 重く怠い体を持ち上げ、ふらつく足取りでバスを降りる。

 目の前にそびえる四億年の時、侵食した赤茶色の絶壁の岩山――

 大きい、凄い――もう何も考えられない!

 世界中の観光客が、渓谷に突出したビュー・ポイントに突進し、壮大な景観を前に絶叫している。

   ◆

 半時間ほど渓谷を眺めただろうか。

 真紀は民芸品店のネイティブ・アメリカンの天然石ジュエリーを腕や首に絡めている。

「絶景やったわぁ! ここまで来た甲斐あったで、お父さん」

 店を出た先の小さなベンチで、両親が並んで座っている。

「そう言われたら、連れてくる甲斐もあるわ。子供らはどうやろ」

「そうやね、まさか昨日、あんな勝手するとは思うてなかったわ」

 昨日のラスベガスの往来で、私と真紀が話していたように、大人同士の話もあるのだろう。

「真紀はアクセサリー見よったで。気難しいとこあるけど、けろっと直るきね」

「そうやね。まぁ受験も気がかりやけど、まだ先やしね。それより――友紀やろ」

 お父さんの難しそうな顔に、お母さんも大きく頷く。

「この半年――相当酷いみたいやね。三者懇談でも寮母さんとの話でも、びっくりしたきね」

「僕は直接、聞いてないがやけど……そんなに酷いが?」

「酷いで。不衛生な部屋で、返してない食器とか洗ってない服や下着が散乱しちゅう。身だしなみも、みっともない。髪ボサボサ、シャツもアイロンしてないし、スカートに食べこぼしあった」

家の掃除をやり始めると、日頃は見えない汚れが次々と目について、手が止まれなくなるみたいに、問題点をどんどん挙げている。

「真紀はマセちゅうけど、友紀は年齢の割に頼りないきね。この旅行だけでも、行動はそそっかしいし、とても十二歳とは思えん」

「もどかしゅうて苛々するわ。いつまでも小さい子みたいで。自律できちゃあせんきね。しょちゅう学校休みゆうみたいやで。通知表の欠席と遅刻の欄、お父さんも見たろう?」

「うん。受験の時と一緒や。目の前のしんどさばっかり言うて、大っきい流れが見えちゃあせんがよ」

頭が真っ白になって、議論される内容に、冷静な意見がもてない。批判という、ただその一点だけで、心臓が縮んでいるように痛い。

子供の頃から、怒られた時、よくなる状態だ。どうしてよいか分からず、一言も発せずに固まってしまう。対面の叱責でなくとも、強い感情や手厳しい批判をぶつけられる時も同じだ。

「あの子、上位校に行って潰れるタイプやったがやね。数学とか、学年で下から二番目やったで」

「僕は去年、勉強を見よって、いつも思いよったで。暗記一辺倒で、応用力ないし」

「公立に行かせてトップ取らせるほうが良かったろうか。今まで通り世話もできるし、勉強も見ちゃれる」

「今、考えたら、そうやね。お母さんとか周りに律してもらわんと、すぐ崩れるわ」

「十二年ずーっと躾けても、何にも身に着かん。ほんま、ザルやわ」

繰り返しやれども、きりがない、脱力感にも似た表情が浮かぶ。

自分さえも責めているような、やるせない色――手詰まりの閉息感、分かっていながら打つ手がないようだ。自分たちの手の届く範囲が狭められ、もどかしげだ。存分に手をかけられない距離感に、親自身も戸惑っているようだ。

「でも、公立校は荒れちゅうやろ。見て、あのスカートの短さ」

「国立も最近は、たいがいらしいで。でも、周りの子らは、小さい頃から、習い事とか塾とか慣れちゅうやろ。友紀は、精神が未熟やに、大丈夫やろうか」

「趣味が偏っちゅうよね。真紀と違うて、今の女の子らしゅうないし。漫画とか、アニメとか、ゲームとかばっかりで」

「同僚の先輩も言よった。息子が一方通行に付き合えるもんばっかりかまけて、友達作れんでどうしょう、って」

「先生が言よったけど……今、友達おらんがやろ。変な子には付きまとわれゆうみたいやけど」

「対人関係能力に欠けるがよ。家では偉そうに言うても、外では口下手やき、あの子」

「友紀の友達って、保育園入園の時から知っちゅう、似た子ばっかりやったな。おとなしゅうて勉強できる感じの」

「それで、人の創った虚構の世界に耽って、自分の好きにしゆうがか。僕らの世代やったら、考えられんね」

「上手くいきよった小学生の時は調子のっちょったろ。村の中では秀才で、何でもできる。明るく活発で積極的、って通知表の所見にあったけど、今となったら信じれんね」

「僕も、周囲の子に比べてようできて、近所に羨ましがられたし、お子さん国立に受かって凄いて言われたけど」

「他人は内実を知らんきね」

面と向かって言うつもりがないなら、子供に聞かれてはいけないはずだ――無言で抵抗する。

こうまで当人のいないところで、言いたいように言われて……なぜ私は、怒り出さないのだろう。飛び出していって、陰で言う迂闊さ、言い過ぎ、誤解について、なぜ言い返さないのだろう。

指摘が的を得ているからか。向かっていけるだけの、日々の行動による根拠がないからか。対面でぶつかる度胸がなくて恐いのか、着地点が見えなくて面倒なのか。言いたいことを適切に伝えられるほど、心も言葉もほど遠く熟してないのを、思い知っているからだ。

「確かに感覚は、おかしいね。前の金曜に迎えに行った時、僕は二時間も待たされたわ。補習があったが忘れちょったらしい。周りに気配りできんし、何でも自分中心やし」

「それよりも、土曜教室の時やろ。間違えて家に帰っちょって、当日思い出して、急いでバス乗って。焦って電車に乗り換えたら、また路線を間違えて。結局学校に着かんで、帰ってきたわ」

「そんなこともあったが?」

「お知らせのプリントも出さん。提出物もほとんど間に合いやせんみたい。整理できんし、目の前しか見えちゃあせん。今やるべきこと、全然意識してない。参観日とか教育相談、えらい恥ぃ掻いたわ」

二人は、親だから苛立ち、でも、他人だから冷静に、私の自覚に至らない状況やその原因を、冷静に突き詰めようとする。日々に耐えるため、あえて蓋をして隠しているものを、容赦なく暴いていく。  

私だって、このままではいけないという危惧はある。だが、自分が思い至る前に、他人に指摘されると、素直に受け入れられないばかりか、反発だけ芽生え、自身のコントロールさえ奪う。

「あれを見よったら、真紀が受験を渋るのも分かるわ」

「一人で外に放り出されたら、何ちゃあできんがやね。頼りないとは感じちょったけど、あそこまでとは思わんかったわ」

おそらく二人の話している内容は、正誤でいえば、正しいのだろう。でも、正しいことが、本当に正しいのか。

「心と体がアンバランスながよ。現実に向き合わんき。今、生きる力、とかって言われゆうやろ。あんなんであの子、どうやって生きていくろうか……」

 足は動き出していた、風に吹かれる塵のように、それでも何かを求めるように、ふらふらと。ガイドの話と、夢中でシャッターを押すデジカメの音が、砂塵に混ざって背中を吹きつけていた。

   ◆

 突き出した岩の上に座り、足を遙か深い谷底へ向けて中空にぶらつかせ、赤い巨大な岩肌を前にする。

 広大な大地にあって、砂粒よりも小さな私――ここに、こうして座っている、それさえも不思議に思えてならない。 

 浦島太郎は、海の中の竜宮城で、元いた地上を、どう思っていたのだろう……綺麗さっぱり忘れて、面白おかしく楽しんでいたのか。心のどこかで本来の生活が引っ掛かって、気にしていたのか。

 ほんの僅かの間に過ぎない、この非日常――何百倍も長く過ごした日常に、とって代わってしまったかのようだ。

 岩にへばりついた苔みたいに、自分の体が、指一本さえ動かない。

 この旅行も、もう終盤に差し掛かっている。残り僅かな砂時計の砂がさらさら落ちて、どんどん減っていくのを、逆から数えて量ろうとして、ますます速まっていく気がする。

 誰もが時間のコンベヤーに乗せられて、降りることはできない。

 皆と別れて、もうどれくらい経っているだろう……ツアー客たちは、もしかして、もうバスに戻り始めているのかもしれない――だから嫌なのだ、人に合わせるのは。

 ここにいたい、帰りたくない、まだまだ、まだまだ……無理やり動かされるのは、私が子供で、一人では何もできないから――。

 ……体が、動かない――動けない!手足から力が抜けていく。拳を握りしめることも、脚を踏みしめることも、全然できない……!

 朝、部屋のドアの前で、出るか出るまいか立ち止まっている、あの嫌な間を、何倍も酷くしたみたいだ。バスの集合場所に戻った時、何年も何十年も経っているかもしれない――。

 いつだって傷つくのが恐いのに、かえって引き寄せているかのように、日に日に増えていく。男子にされた悪戯は、数知れない。   

 四人組のグループワークで、私一人を無視して、三人で教え合って勝手に進んでいく。できないから邪魔だと言われる。間違いを見て、にやにや笑って、「おもろかったわ」と言い合う。他の子は見て見ない振りをし、何の声も上げない。

 若い女の先生を甘く見て、ズルをする、屁理屈でごねる。小テストでも、カンニングペーパーを忍ばせる、引き出しの一番上にプリント置く、机に薄く答を書いておく、ルール破りは平然としている。そんな先生を見せられるのも辛いのに、女子も一緒になって冷たく笑っている。そのほうが、正否を問うよりも、ずっと楽だからだ。 

 休み時間、バッティング・センターと化した、紙ボール飛び交う教室で、手元が狂った振りで頭にぶつけ、あからさまに足元を狙ってくる。他クラスの子が私の椅子に跨り、机に腰を下ろし、下品な言葉や、先生や別のグループの悪口を大声で笑いながら喋っている。教室を出ても、一人で廊下にいられない。学年のトイレは鏡の前で髪を直してお喋りする女子で使えず、一階の来客トイレの中で十分間じっと立ち尽くすか、暗さを我慢して本の続きを読む。

 昼休みは図書室に行けるが、二年生の男子が溜まって、机や棚に飛び乗って、絨毯の上でプロレスを始める。注意できない図書委員の女子を尻目に、漫画を読み散らかすか、保健の本を探してきては、女の裸のイラストで下品な言葉を大声で喚いている。

 放課後は、掃除を私に押しつけて、皆は平然と帰っていく。先生に言うと、次の日には、睨まれて嫌味を言われる。黒板消しも、給食の返却もだ。学級日誌の報告では、全員でやったと記される。

一人掃除をする私の横で、万引き常習犯の男子に、ガムや文具や漫画を皆して頼んでいる。彼は自転車や原付バイクを盗んで乗り回している。噂では、小学校で学級崩壊の中心人物で、教師を退職に追いやったらしい。

他の男子は、ここぞとばかり尻馬に乗っている。態度をびっくりするほどコロっと変える。力関係で、体格が大きく気が強い相手には遠慮がちなくせに、劣った相手には高圧的になる。弱いターゲットを見つけてはいじり、虐めとの境界線ギリギリまで楽しんでいる。攻撃的で、すぐゴネる、キレて強圧的な態度を取る。気に入らないとすぐ怒鳴り、足を床にドンドン打ちつけ、ドアやロッカーを殴る。理不尽が平気で罷り通る。  

彼らのドロドロしている嫌な靄は、私という捌け口を目がけて放出してくる。少しでも変わった部分があれば、大袈裟に取り上げて、笑いものにする。顔や体や、言葉や作品をからかわれるなど、今はもう茶飯事だ。

「あいつ友達おらんき、しゃあないし、虐めてやっちゅうがや」

「お前の発音、変やで」「田舎者のお前より、俺らのが上やしな!」

「髪もじゃ!」「顔と鼻のてっぺん、テカテカや」「にきび星人」「お前、胸の位置おかしいー! 垂れちゅうやろ」 「キショいわ、お前、キモい!」「来んな、あっち行けや」「トロいで、アホやろ、こいつ」「何ぃ言ゆうが、病気ちゃう?」「ウザい、死ね」

 体も言葉も、からかいと言うにはあまりにも過激なものを、次々ぶつけられる。私が失敗しても、細かい他の言葉を置いて、一足飛びに、「死ね」まで行き着く。 

 後ろから頭を叩かれる。すれ違いざまぶつかられる。肩を押すようにして殴る。ふざけてヘアピンやゴムを取る。蛇口の水を散らす。スティック糊を無理やり取られ、「貸せ」と言って、周辺で使い回して、返ってこない。明らかに取って平然と使い、「俺が買った物や」と、強く言い通す。シャーペンや消しゴムも、よく失くなる。筆記用具を隠され、バラバラに分解されたシャーペンがゴミ箱から、無数に穴が開いて切り刻まれた千切れ消しゴムが鞄から出てくる。美術や技術で作品を作っても、いじる振りをして壊す。ロッカーにゴミを投げ込まれる。

 泣くまい泣くまいと顔をしかめて我慢し、ようやくトイレに駆け込んだとたん、涙がこぼれる。

「レイ、レイ? 誰か……助けてぇ!」

 ナップサックを抉じ開け、ペンとメモ用紙を掴み出す。手当たり次第に、ペン先から紙へと、恐怖を叩きつけていた。見えない黒いものに呑み込まれそうで、文字という形をとって見えるようにする。今までは、そうすれば少しは収まっていた。

 でも今は、書けば書くほど、どんどん増長していくみたいで、得体の知れない黒い大きな影に、呑み込まれそうな錯覚がした。

 ニュースのように、「お金をせびられて、何万円も取られた」、「大勢でよってたかって殴られた」わけじゃない。でも、こんな小石を絶え間なく投げ続けられ、積み重なれば、大きな石をぶつけられているのと変わらない。

 先生への訴えにも、転校の理由にも、遺書の記述にもならない。相手は、特定できない「群集者」なのだ。

 何もかも、世界が友達だった頃――人は話せば分かってくれたし、努力さえすれば、何でもできた。

 突然、異世界に放り込まれたのだろうか。「私」というものは、どこに行ってしまい、今どこに在るのか。

 家族にとってさえ、自分は価値がない。両親に希望を与えた私は、どこに行った? 親の誇りを失わせ、真紀の不安でしかない――

 生きている意味なんて、どこにもないのかもしれない。

 物語の世界で、一人生きていけたら――それを「死」と呼んでも。

 馬鹿げたことだ。伝記の英雄や、物語の中みたいに、戦争や大事件で命を落とすわけでもなく――。

 死にたいわけじゃない、生きていても、異様にしんどいだけ。

「甘えている」と叱咤する大人だって、きっと、もっと辛いはずだ。

 このまま、ここに居れば、何日か経ったら動かなくなるのだろうか。今はそれが、とても甘く、穏やかに思えてならない。 

 四億年――積み上げられた悠久の時間に、気が遠くなる。永遠にも等しい時、おびただしい生物が通り過ぎた跡を、一人きりで、本当に独りきりで、ただ見つめている。

 観光客、原住民、動植物……自分もその一つ、この地この時を一瞬だけ撫でる小さなもの……ここに触れた多くの生物が抱いた思いに、私に似たものはあるのだろうか。

 衝動にも似た誘惑……生と死に境があって、線の上に立った時、どっちに踏み出すのだろう、私は――


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