第8話 フリーフォール

「時間ない! ナイトツアー、あと何分?」

〈二十分〉

「何で起こしてくれへんの!」

 飛び起きて、服を拾い、メイク道具を広げ、同時進行にこなす。

〈何や、その小学生みたいな嫌味? 肉音ないのに、耳に聞こえへんやろ。反省ないわ、出発の時、いや、前からずっと変わらへんし〉

 仕事に戻る陽子さんと別れた後、フロアのカジノで、ゲーセンの延長みたいなスロットマシンで五千円スった。

 不細工なデザインで、ピロピロ~と気の抜ける音を掻き鳴らす機械に、食わせてやる小銭もなくなった。

 部屋に上がって、スニーカーとジーンズを床に脱ぎ捨て、シャツと下着とアクセサリーをソファに放り投げた。

 ユニットバスにぬるま湯を張って、頭までのんびり浸り、日本式にくつろいだ。バスタオルを体に巻きつけたまま、クーラーがんがんの部屋を裸足でぺたぺた歩いて、そこかしこの物を物色する。

 備え付けの冷蔵庫を開けると、アルコール度数の高いドリンク缶、ラックにはスナックの摘みが、びっしり詰められていた。手初めにワインの小瓶とコーラのペットボトル、「プリングルズ」の長くて青い筒に手を伸ばしていた。

 ベッドに乗って、自分を取り囲むように飲食物を広げ、改めて部屋を見渡した。ツインに一人きり、キングサイズのベッドに転がって、盛大に催した。

<昼間から、ベガスのホテルで酒盛りか。ええ身分やな>

「あんたは反省十分なん? どうせ変わらへんやろ。行くで!」

〈ちょっと、カードキー! トラベラーズ・チェックの両替は?〉

日本で申し込んだ、オプションのナイトツアーへ、追い立てられるようにホテルの部屋を出発する。集合場所に向かうも、なかなか見えてこない。焦って、曲がる筋を、三回も間違えた。

 ようやく、バスに乗り込む。文字通りのオアシスかと思えば、クーラーの利いてない無人だ。固いシートに背をもたせ、へたり込む。

「……人、おらんし」

 ラスベガスに滞在する日本人を集めて、四時間近く夜の街を観光するはずだ。乗客は疎らで、車内はやけに空席が目立つ。

〈張り紙あるで〉

(どれ……「飛行機が大帽に遅れて、大勢の参加者様が未だ到着しておりません。大変ご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、今しばらく、お待ち下さいませ」)

〈外国じゃ、遅延はよくあるな〉

 車内がすっかり冷えるとともに、テンションが削げていく。ようやく彼らが乗り込んだ時は、とっくに日が暮れていた。

(それにしたって、遅すぎやろ。せっかく急いで来たのに)

〈中学生の時、ツアーバスをさんざん待たせたやろ。どっかで帳尻合うようにできてんのや〉

(グランドキャニオンの時か……それもそうやな)

 バスが出発し、夕闇の中を進んでいく。ラスベガスの夜の顔が現れる。ネオンの海に船を走らせているみたいだ。

 遅延を詫びるガイドの声が、船内放送のように、ゆっくり響く。

「皆さぁーん、大変お待たせしましたぁ! これよりお待ちかね、ナイトツアーの出発でぇーす! 私、今回ガイドを務めさせていただきまぁす、大崎ナオミです!」

 二オクターブ跳ね上がったトーンで、爆発的な声量が車中に響く。

(……私、暑さにやられて、頭いかれたわ)

〈あたしにも五十代に見えるで、あのナオミって人。抜かったわ。リピートやのに、意外な伏兵を忘れて、罠に引っかかった気分や〉

「さっそくですねぇ、皆様日本で旅行代理店から、『絶対に一人で踏み入れるな』と、忠告されましたでしょう、ダウンタウンでございまーす。『赤信号、皆で渡れば、恐くない』とばかりに、真夜中にこうして大勢で押しかけるわけですねぇ。ダウンタウンは、百年前にラスベガスが誕生した最初の場所です。しかし現在、ブルーバード通りに沿って多くのテーマホテルができ、中心がそちらに移ってしまいました。取り残された街には、ギャンブルの末に国へ帰れなくなった人、薬の売人と中毒者、ホームレスが集まってきて、物騒になっていきました。過度のギャンブル好きの方、好奇心の強すぎる方、取り返しのつかなくなる程ハメを外してしまうというお客様は、ぜひ仰って下さいませ。私の目の黒いうちは、全力でお止めさせていただきまぁす」

 陽子さんの乗船した船で、ぜひ添乗員をさせてやりたい。

「ダウンタウンは観光客に敬遠されて寂れていきました。でもぉ、発祥の地を廃れさせてよいものか、地元から声が上がったんです」

 説明の中途半端な部分で、バスを下りるよう促された。大通りを高く覆うアーケード街だ。

「廃れた街の客寄せに建設されたのが、四五〇メートル続くハイテク・アーケード街――『フリーモント・ストリート・エクスペリエンス』でございまぁす」

 アーケードの照明が、何の前触れもなしに、突然落ちた。急な停電にツアー客の戸惑いの声が上がる。

「天井に一二五〇万個の発光ダイオードが使われておりまして、毎正時になるとネオンが消え、音楽と共に毎回違った映像が天井を駆け抜けるんですよぉ」

 暗闇にナオミの声が響くと、光と奇抜な映像に呑み込まれる。

 アーケードの空を仰ぐ。次から次へと映し出されるダイス、ルーレット、カード、ショーガールと、蛍光色で彩られた連続フラッシュの映像で、ラスベガスの欠片が空に大きく映し出され、現れては流れ、また現れる。誰もが棒立ちで、光の空を彩る色や文字、映像に目を奪われている。そこに自分が放り込まれ、幻想的な時空に在る、不思議な感覚に包まれていた。

   ◇

「ダウンタウンはですねぇ、ドライブスルー教会っていうものがあるんですよぉ!」

 バスに乗り込むや、待ち構えていたナオミがトークを連射する。

「ハンバーガーを買うように車で乗り付けてですねぇ、小一時間で結婚式が挙げられるんです。私なぞ力ジノで勝った勢いで、酔い潰れて正体のなくなった彼を引っ張って行きましたの。それが今の旦那で、現在に至りますのよ、ほほほ……」

 すでにとっぷり夜も更けた。目を擦る子供や中高年が脱落していく中、ナオミに釣られた若者は、ナイトハイに駆り立てられている。

「はい、お次はですねぇ、ラスベガス一高い建物、ストリップに聳える、『ストラストフィア・タワー』です! ここの展望台からは、世界三大夜景に数えられる絶景を拝めるんですよぉー! カジノの完備はもちろん、高さとスピードを誇るアトラクションまで!」

 扇動的なバスを降り、眠らない街に呑み込まれた若者たちは、タワーに突進してゆく。瞼が下がって緩んだ顔の人垣をすり抜け、深夜のアトラクション目当てに列を離脱する。

〈おっ、行くん? 若いねー〉

(あんたやって、年甲斐もなく従いてったんやろ)

 絶叫マシンの前に用を足し、手を洗っていると、後ろでドアの開く音がする。ハイビスカス花を散らした白のチュニック、カーキのジーンズの若い女の子だ。長い栗色で緩めのウエーブをなびかせ、洗面台の横に立つ。メイクの崩れや深夜の肌模様をチェックしていると、どちらからともなく自然に目が合った。

「新婚旅行ですか? 私、後ろの席に座ってる、小原といいます」

 確かバスで、前に座っていた若夫婦の奥さんだ。近くでまざまざ見ると、アンジェラ・アキみたいな眼鏡美人だ。

「西山です。ええ、まあ、ウフフ……そちらは?」

「私は……一人ですけど」

「えーっ、すごいですねぇ、お一人で、こんな所まで!」

 陽子さんに言われた時は誇らしかった。意味合いも同じなのに。

 場の流れで合流した西山さんの旦那は、細い垂れ目が、見るからに人の良さそうな感じだ。銀縁眼鏡だが堅太りのスポーツマンタイプで、アディダスのTシャツとスニーカーが、さっぱりしていて爽やかだ。何となく一緒に、アトラクションに乗る流れになった。

 タワー最上の尖塔部二百八十メートルに、さらに五十メートル突き上げられるフリーフォール「ビッグ・ショット」が現れる。

 三人掛けのシートに旦那を間に女二人が脇に座り、鉄柱に固定されたマシンに括りつけられる。傍目には三角関係の抽象画みたいだ。 

世界一高いアトラクションの始動を待つ沈黙、事態が一触即発で点火する直前の緊張感……

「きゃっ、きゃあああ――――!」

 突如、空に向かって撃ち上げられる。三百三十メートルの宙空に、足を大きく投げ出して、一瞬の静止、落下――

「うっ……ぎ、やぁああおお――――――――!」

 自分のものとは思えない断末魔の叫びが、奥さんの可愛らしい悲鳴を掻き消して、歓楽街の夜空に響き渡る。

 今この瞬間、誰よりも高い所から拝んでいる最高級の夜景も、潤んだ目には霞んだ光の群れでしかない。

 落下ではなく急激な突き上げに、心臓がたまらなく痒い。胸を引き裂き、掴み出し、握り押さえて、掻きむしりたい。マシンに固定された胴体は、されるがまま円柱を滑らされ、自由なのに無力な手足は、動のエネルギーに逆らって、必死にばたついている。

 マシンは情熱的な一個の生き物のように、叩き落として跳ね返し、突き上げて放り投げる。天を突く巨大な円柱を包み込んで、上下に擦る激しい運動が際限なく練り返され、昇り達して奈落に堕ちる、極までの時が延びていく奇妙な感覚……延びたのは、時間でも感覚でもない、塔そのもの――上昇と降下を繰り返すこと数回、たった二十秒とは思えないほど消耗させられた。

 マシンから解き放たれて、二、三歩よろめく。埒の明かない修羅場の末路みたいに、疲れきった足取りで、全員ただ黙々と行くべき所を目指している。

 げっそりした面持ち三人の前に、タワーの頂上が見えてくる。

 上り詰めると、そこには――天と地が逆転している光景が在った。

 三原色が無限に生み出す色――地上の星が眩く瞬いて、地平線の遙か彼方へ続いている。

   ◇

〈ねぇ、ずっと三人で行くわけ?〉

 ……しまった! 西山夫妻には、一生に一度の新婚旅行なのだ。はるばる地球の裏側に未て、あでやかな夜景を前にしているのに。

 夢中でデジカメのシャッターを切る振りをしながら、そそくさと二人から離れていく。

 一人旅の女を気遣う旦那は、場所が変わるごとに近づいて来て、笑顔で手を差し伸べてデジ力メを奪い取り、ファインダーをこっちに向けてくれる。好意を無下にもできず、ずるずる甘んじている。

 気のせいか、奥さんの顔が笑ってないような気が、しなくもない。

「へぇ、フロリダ――東海岸から?」

 ここは、とりあえず、旅先で出会った日本人同士の、オーソドックスな話題で切り抜けよう。

「ええ、ディズニーランドに行ったんですよ、私たち」

「逆方向じゃないですか。一回の旅行でアメリカ横断って、すごいけど、大変そう」

「そう、西までの移動に、日程の半分近くを費やしたんですよ。言い出したら、この人、聞かないんだから」

 やんちゃ坊主に小言を言う、若い母親みたいな表情だ。

「まだそれを言う……」

 何度リセットされても、奥さんを宥めなければならないようだ。

「実際にやってみて、無謀だってよく分かったでしょ!」

 奥さんの不満にスイッチが入って、文句がボンボン飛び出してくる。すがるような目で、旦那はこっちへ苦笑いを向ける。

「移動にばっかり時間は取られるわ、時差で体は辛いわ……もう!」

 これが、いわゆる「尻にひかれる」という状況か。赤の他人にも、数年後をたやすく想像させるワンシーンだ。

(ね、今の状況ってさ……傍目にはどう見えてる?)

〈三人行動やろ、普通に〉

 夫妻はこの状況を、さほど気にしていない。旅先での出会いくらいに、気軽な感じで、まめに言葉を掛けてくれる。

(私一人が余計な気ぃ回して、心のうちで大騒ぎしとるだけ?)

〈うん、思いっきり〉

(男一人に女二人、三角関係に仕立てるキャプションやってわけ?)

〈勝手に修羅場にしたがる、浅ましい独りよがり、やね〉

(そんなに私、恋愛に縁が――無いか)

〈無いな、うん〉

(いわゆる負け犬――て、やつ?)

〈そう、女三十歳、未婚、子無し〉

 負け犬ブームの火付けになった本を、一ヶ月も掛けてじっくり読み込んだ。私は年齢的に若干の余裕はあるものの、負け気質が豊かに備わっているらしい。勝ち組の要素は皆無なのに、負けのほうはことごとく該当する。二十代も後半、大台まで残すところ数年。負け確率を示す折れ線は、急激に右肩上がりしているだろう。

(こういう内容、あんたも誰かと話したりする?)

〈何気に誘導尋問やな。何回流されても、あんたって懲りへんな。こういうって、どういう?〉

(二十代のお釣りが出えへんように、ギリギリ目いっぱい、独身を謳歌したいねぇー、とか)

〈駆け込み婚狙いやとしてぇー、逆算して今の時期に出会っとかないとぉー、とか〉

 お互いナオミの口真似して、脳内で含み笑いする。友達の独身組とも、寄ると触ると、この手の話ばかりだ。

(前は仕事の愚痴とか、大学や地元の友達の近況報告やったのにな)

〈愚痴を言い合える仲間自体、少しずつ、でも確実に減ってくるで〉

 思いきりはしゃいだ大学、苦労の連続だった駆け出しを、共にした友人たちは、今――

(まぁな、先月会った五人の友達のうち、四人は既婚やったわ)

〈非情な割合やな。時の無情さが身に染みるやろ〉

(火の無い所に、煙は立たん。種は蒔かんと、生えん)

 燃え上がって大きな炎になる以前に、原点の出会いが全くない。

(天から降ってこないかねぇ)

 虚しいぼやきを、自分自身を相手に愚痴る始末だ。

〈もの欲しげやね。そんなやったかな、あたしって。誰かに嗾けられてたっけ?〉

 「レイ」は、けっこう記憶がうろ覚えで、質問がやたらと多い。でなけりゃ、よっぽど白々しさに年季が入っている。

(全然。だから、のんびり気ままに、その日暮らしや)

 昔いたらしい、世話好きという人種は、親戚にも近所にも絶滅してしまった。私や真紀を含め、いい歳の従兄弟たちも、独り身のまま放置されている。

〈で? ズバリ聞くけど――あんた、結婚したいん?〉

 去年出産で退職した勝ち犬の先輩にも、同じ問いを突きつけられた。会社の飲み会で、負け気味の後輩たちを輸していた。その人と結婚したいのか、ただ緒婚したいのか、と。

 奉行に徹して鍋をつつく振りをしながら、地獄耳の拾う言葉に問い正されて、手を滑らせて粗相してしまった。

(……まだ遊び足りへんのかな、私)

 ハイシーズンに地球の裏側で三都市周遊……仕事を辞めたら到底できない。子供がいたら、絶対ありえない。

 既婚の友達、会社のおじさんたちが、小さな子供を連れて実家に帰省する期間、私は海を越えた大陸にいる。そうできる今を、確かめたいだけ。次はもうないかもと、残り少ない若さを惜しみながら。

 何かからの逃亡のような旅行で、高額を落とし、時間もお金も労力も「高い授業料」に費やしている。行き先も滞在地もどこでもよく、単に別の場所が欲しいだけだ。

 異空間をわざわざ買って、そこに身を置く――何のためか、その意味はいるのか、いらないのか。

 本当の大人は、こんな固い理由で、甘い放浪をしないだろう。

   ◇

(はぁ……何で、こうまで干物になったんかな)

〈そりゃ、最後のチャンス、自分で潰したから〉

 最後に男がいたのは、二十四歳――大学から五年間もつき合った元彼・杉浦尚人。中背中肉、垂れ目と鷲鼻が特徴的で、いかにも善人という顔立ちで、憎めない印象だった。

 互いの趣味はまるで逢っていたけど、学生特有のノリで気にもしていなかった。年を経るごとに、大きく隔たる、あの何か――就職した頃からだ。

〈あいつ、学生の時は、人好きのする三枚目やったのにな〉

(そう、警察官になって、はっきり怒り癖ついたよね)

 私にも例外ではなく、同僚に引き会わせる時は、かかぁ天下の家庭で育った私に、堂々たる亭主関白ぶりだった。後輩ができると、さらにエスカレートした。

 怒り慣れて癖づいたのか、私からのメールや電話の少なさに、怒鳴るようになった。嫌みにぐちぐち締めつけられて、数日間は努力するものの、長続きしなかった。

〈忙しくって、会う回数も減っとったしね〉

(たまに会っても、仕事の愚痴を聞かされるの、だるかったわ。畑違いの仕事で、見知らぬ職場の話されても、噛み合わんし)

〈映画観ても、とっちかが寝込んでたしね。カフェで感想トーク、盛り上がらへんどころか、沈黙も気まずいしね〉

(正直、高い電車賃を使って、県境を越えて、少ない自由時間を割くのが惜しかったわ)

 別れの衝撃、空白のグレー、再起動、最初からの仕切り直しは、途方もない気がした。転職したくても動けない心理によく似ている。

 定年どころか、人生退職まで続くかもしれない。早ければ早いほどいいのは言うまでもない、どんなに遅かろうが、このままになるよりは。結婚、出産、互いの親や子供が絡んできたら……ダメージは、比べようもなく大きい。何も始まらないうちに、先は見えてしまった気がした。

 高知と滋賀、田舎から出てきて、京都の大学で出会った二人が、このまま一生を共にするのか。一緒にいて、もっと楽しく笑い合える人が、どこかにまだいるのではないか。今となっては、何を言われても腹の立つ尚人なんかより、ずっと。酷く扱われようと、それすら愛しく感じて入れあげる、これはと思える男が――まだ二十代半ば、自由と可能性があるはずだ。

 どのタイミングで切り出せばいいか。やらねばならない、頭では分かっているのに……面倒だ。エネルギーを燃やすのがしんどい。

無駄な時間ばかりが、怠惰にこぼれ落ちて流れて行く。

〈やっぱり、来るべき時は、避けられへんかったな〉

(恐れていたようで、待ってたわ、その時を……)

 最後のクリスマス――会社の全体会議が入った。新人の私は予定を把握しそびれていて、前日に知った。

 受話器に向かって、キャンセルを告げた。怒声とともに、乱暴に切られる携帯。沈黙の小一時間で、腹は決まった。

 話し合いなど、断固してはならない。一年前、別れるつもりで臨んだのに、じっくり話すうち、ずるずる元の鞘に納まってしまった。

 本当に切るつもりなら、断じて話し合ってはならない。一方的だが、方法はこれしかない。結果として、最善の選択だと信じていた。

 もう一度、着信――「距離を置こう」、不気味なほど静かだった。「はっきり言えば」、冷たく言い放った。何か言おうとしていたのを遮って、「さよなら」――電源ごと切った。

 イブの朝、会議場へ向かう電車の中、朝の空は青く澄んでいた。

「ママぁ、ねむい……」

「裕太、そっち行っちゃだめよ。お姉さんの邪魔になるでしょ。あらあら、すいません」

 足元がふらついている男の子の手を引いた、三十代半ばの夫婦が脇を通り抜けた。幼稚園児ほどの子は、しきりと目を擦っている。

 夜景に酔いしれる西山夫妻やカップルたちは、そう遠くない自分たちの姿を重ねているのか、目を細めて子供を見つめている。

〈子供は? 今の気持ちとして、いつかは欲しいん?〉

(ひたすら食べさせても、生意気で言うこと聞かへん怪獣やし)

〈……あたしが言うのも何やけど、あんた、かなりズレてるわ〉

(大学まで出してやらへんと、生きていくのもままならんやろ。そのために塾とか私立校に通わせて。自分の人生が制約されて、離婚も転職も、好きなこと何もできへんなるやろ)

〈育てにくい、ていうか、生きにくい、か〉

 肥え太った自我は、今という時間、自身の周りなど、近くて都合のいい部分しか見ない。己のためのみ、純然たるモラトリムに生きている。時も金も労力も、人生の貴重な資産を費やして。

 親の人生を吸収して生長し、誰に何を与えるでもなく、一代限りで咲き終わろうとする、盛りを過ぎかけている花みたいだ。

(考えてるからダメなんやろ。先に体を動かせって)

〈世話ないね、自分で言ってりゃ〉

 こんな理屈、子供の顔を見た瞬間、たちどころに吹っ飛んでしまうのだろうか。頭でっかちが脳内で勝手に膨らませた思いなど、腹を痛めた我が子と母性本能には、逆立ちしたって太刀打ちできない。生物の誕生以来、脈々と受け継がれてきた悠久の営みに比べたら、ここ数年のトレンドなど、あまりにも小さい。

 ただ、その過程が面倒だ。出会って、恋して、告白、つき合って、婚約して、結婚、子供ができて、育てて、家庭を維持――。

「どっかに売ってないですかね」と、ぼやいたら、「二十代前半の台詞は思えない」と、当時の上司は笑っていた。細胞分裂でもいいくらいだ。さぞかし、全てが簡単で、肉体も精神も単調だろう。

旦那の悪口を延々と聞かせる友達。不倫泥沼の修羅場、数を誇る武勇伝、性の乱れや早熟化を嘆きつつ垂れ流すメディア――。

 体を先に動かす勢いは、すでに失われつつある。欲しいが面倒、不等号が後者に向いてくる。でも、完全に望みを断ち切ったわけでもなく――そんな自分が、我ながら扱いにくくて仕方ない。

(新しい家族、か……)

 みどり児の私を抱えて、まもなく真紀を宿す、二十七歳の母は、何を思っていたのだろう。

   ◇

(……正月は、どうするか)

〈いい歳の独身女にとって、帰省ほど重いイベントはないもんな〉

(盆は海外に逃げられても、正月はそうもいかへんし)

〈実家って、静養のための別荘みたいに、新人の時と同じ気分でいると、とんだ災難に見舞われるしな。仕事と結婚の話が重過ぎるわ〉

(休みに行くんやないねん。課題がのしかかるんやで)

 クローゼットから選りすぐって一番いい服を取り出し、シグネチャーのブランドバッグに無理やり詰め込む。時計、靴、アクセサリーも目立つものを着ける。黙っていれば、オークションのUSEDとは分からない。

 手土産の一つも買って、大きな荷物を抱えて、早朝の高速バスに遅れないように、慌ててマンションを飛び出る。

〈前の日に、「ガス栓は締めたか、切符は持ったか、携帯の充電器は……」とか、持ち物リストのメールが届くよね〉

(私は、何歳や? 遠足前の小学生か? 忘れたら、うるさいし)

〈どうせ後から、リストにない物を言われて、無駄やけどね〉

 いい格好をして、少しでも機転が利くように、素を出しすぎないように、客ではないから家事も手伝う――道中の高速バスから構えて、育った家に気負って踏み入れる。

〈口調が土佐弁に戻るまでの、せいぜい最初の数時間だけや。すぐに甘えが出て、子供に戻るやん〉

(昼間に帰り着いて、夕食頃には、もうすっかり素になってるな)

 パソコンに向かって、昔かなり夢中になったゲームの映像を眺め、押し入れに溜めて漫画を読み耽る。

 すっかり気の抜け切った私に、いつまでも子供だと、呆れかえる両親――癒しのサブカルチャーを遮って、「いい加減、大人になりなさい」と、背中に棘が突き立てられる。

(漏れた隙間から、敵の侵入、攻撃開始や。居間で寝転がっている時、移動中の車内、墓参りに親戚参り、買い物や犬の散歩――いつ何時どこからでも、ゲリラのように撃ってくるで)

〈地雷原と分かって踏み入れたからな。後悔、先に立たずや〉

(大人にやかましく言われて、反抗する子供の気持ちが、この時だけは、よく分かるわ。教師としての自分も同じなんかな)

〈そういう、すり替えて考え出す態度が、よけい親をヒートアップさせるんやけどな〉

 延々平行線を辿る、不毛なやりとりが、うるさいと思うと、本当にうるさくて仕方ない。真偽の次元ではない、もう生理的に、そうとしか思えなくなる。

(頭では分かっているのに、どうしても、素直に受け入れられへん。諭されてできるなら、とっくにそうしとるし)

 理由なき反抗心は、物理法則のように絶対的で、同極の磁石のように拒み続ける。

(『勉強しぃ!』とか『受験はどうするが』とか『男との付き合いは、こうあるべき』とか、今までもいろいろあったけど、学生時代の比やないわ、この手の対立は)

〈壮年期・更年期の熾烈さに比べれば、可愛いもんや〉

(いつだって、今この時は、かつてないんや)     

 年に一度と思って我慢していりゃ、エスカレートして、手がつけられなくなる。大晦日から始まって三が日を過ぎる頃、説教文句の弾が無数にめり込んで、すっかり穴だらけでボロボロだ。

(実家住まいのシングルは、毎日この重圧に耐えて、尊敬するで)

 平行線のままタイム・オーバーに持ち込み、ようやく戦線離脱。復路のバスに飛び乗って半日、マンションの部屋に舞い戻って来て、ふうっと息をつく。

 牛後の日差しの差し込むベランダで、ハーブティーを淹れて手すりに寄りかかる。すっかり馴染んだ異郷の風景を見下ろして、慌ただしい帰省をゆっくり振り返る。

 先祖の基のある東山という場所は、中腹の小高い丘に聳える鉄塔がある。それに上るという、小学生男子並の行動で、故郷の平野、変わらない山々と海の色が美しく、吹く風を受けて見つめていた。

 二十代前半の頃は、馬鹿な我が子を激写すると笑って、面白がってデジカメのシャッターを切っていた。だが、今年は、さすがに視線が冷たかった。

〈何で、鉄塔に上るんやろうな〉

(今、上らへんと、後一年は上れへんやん)

〈いつまでそうするんやろうな〉

 三十歳を越えても、やっばり上るのだろうか。風俗に通う男のような疚しさを持って、一人きりでこっそり漫画や動画を観て、鉄塔に上る――これが大人になるということか。

 仕事、結婚、人生――説教の集中砲火で、延々と言い続けられる、親自身の後悔と希望による修正を加えた経験則――時代差を微調整しつつ、言う通りにすれば、同じようになれるだろうか。

(我が子が人並に生きられる『安定』――子の生存を案じる不安、その保証を強く求めてるんやろ)

〈いついつまでも労の絶えない、親の性か〉

 親という存在、私という存在――遠い日々に一体であったものが、分かたれて新たな一個となってゆく。

(問題は、私自身やけどな……まだ選び抜けへん、貫けへん自分や)

 親、金、若さ、仕事――空、大地、海、大気、水みたいに、いつまでもあると信じて疑わない、現在進行の「今」という時――。

 燃えるような西日の光源を、もう一度見つめる。

(高齢化とか介護とか、生徒に概念を教えてるだけで、実体なんか一つも分からん)

〈すでに親と今生では会えへんなった友達も、何人かおるやん〉

(『老後は、あんたらに迷惑は掛けんから』て、言ってたな)

〈子供には、あれだけ迷惑を掛けられてるのにな〉

(まだあるで。『自分一人で大きゅうなったような顔して!』)

〈『結婚したら、自分の時間なんて一切ないと思っとき』〉

(『偉いつもりやったら、あんたらみたいなえい子を生んでみぃ』)

 目を閉じると、あの日の言葉が、何度でも響く。

(『可能性を捜しながら、今は独りを楽しみや』)

〈『新しい世界と可能性が広がるんやったら、飛び込みや』〉

(『独りも新しい家族も、どっちからやって何か学べる。魂が求めるんなら、命をまっとうしてるんなら』)

〈……充分や。幸せに、巣立ったやん〉

 誰かに、そう言ってほしかっただけかもしれない。たとえ、それが自分自身であっても。

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