第7話 噴火の熱、噴水の光

 ◆

「ああー、楽しかった!」

「すっからかんにスっちゃったけどね」

 お酒で頬が上気した留美さんが、恵さんにしなだれかかって、二人とも千鳥足でふらついている。

「あたしらに博才なんか、ないって」

 加奈子さんが留美さんの頬に、ウーロン茶のグラスを押し当てながら、ちらりとこっちを振り返った。

「それよりさぁ、もっとスリルあったじゃん」

「小中学生カジノに連れ込むなんて! 子連れの状況が刺激的!」

 三人してげらげら大笑いしている。悪いことが面白いのは、大人になっても同じみたいだ。

「あたしらさぁ、就職決まって、フライングの卒業旅行なんだよね」

 留美さんが真紀の肩に、真っ赤なマニキュアの目立つ手を置いて、今更なことを言う。

「げっ、思い出させないで。あんな大変だったの、生まれて初めて」

「内定のご褒美、卒業まで待てるかっての」

 他の二人も、あからさまに嫌な顔をする。

「友紀ちゃん、知ってる? 今、仕事すっごく少ないんだよ」

「テレビで聞いたことあります」

 不景気とか就職氷河期とか、聞いた覚えがある。

「あたしなんか、何十社受けたか……そんで、やっと一社だしねぇ」

「留美、アパレル受かったじゃん」

 恵さんが宥めると、留美さんの目が吊り上がった。

「人事部のオヤジ、胸元とか脚とかに視線チラついてるくせに、仕事の厳しさがああだこうだ、圧迫面接かますし! あいつら、違う部署だといいんだけど。ノルマもきつそうだし。不況で売上がどうこう、研修うるさかった。加奈子も恵も資格あっていいじゃん」

「大学と予備校のダブルスクール、キツかったわ。ちなみに、あたしは医療事務ね。分かる?」

 加奈子さんの仕事は、保母になる前のお母さんと同じだ。

「病院の受付ですか。恵さんは?」

「地元に戻って、教員採用試験受けたけどね。少子化で、採用あまりなくて。もし落ちてたら、私立を探すか、来年は講師ね」

 歯切れの悪い口調に、私は口をつぐむが、真紀は直球に聞き返す。

「先生って、みんな同じじゃないんですか」

「生徒からすれば、みんな先生よね。でも、あるんだよ、身分って。今、思えば、教育大に行っときゃよかったな。ね、友紀ちゃん、学校の先生って大変そう?」

 真剣な眼差しが、遠慮は無用だと言っている。

「えっと……大変みたいです」

 本当は、さっぱり分からない。でも、恵さんはドラマやニュースの中身と同じ答を予想してそうに思えた。

「やっぱり! 塾のバイトみたくいかないよね……今から憂鬱!」

 頭を抱える恵さんに、加奈子さんがカクテルを手渡す。

「でも、今、アメリカ来れてよかった。新人研修とか、春だと三人の予定が合わないもん」

「いい思い出よね。最後に弾けて、羽を伸ばせてさ」

 階上の部屋に戻り、服を着替え直してメイクを落とす。覚めない夢はないけど、何だか魔法が解けたみたいだ。祭りが華やかで盛り上がるほど、終わった後の脱力や寂しさはひとしおだ。

「あの、ありがとうございました」

「どういたしまして! 楽しかった?」

 反応を期待するように、三人はにこにこ覗き込んできて、やけに可愛らしく見えた。表情をにこやかに動かし、何度も頷く。

「真紀ちゃんも?」

「……はい、とっても」

 笑顔を浮かべてはいるが、真紀の表情は、無料サーカスを観た時みたいな違和感が戻っている。

「あ、留美、加奈子、『シルク・ド・ソレイユ』始まるんじゃない?」

 恵さんが高そうなシルバーチェーンの腕時計を見て、サイドテーブルに置いてあったパンフレットを掴む。

「ほんとだ、忘れてた!」

 三人の時間も、再び動き始めたようだ。

「ごめーん、サーカスのショー始まるし、もう時間なくて」

 留美さんも加奈子さんも、口紅を塗り直し、手早くバッグの中身を入れ替えている。 

「お世話になりました」

 ちょこんと頭を下げると、真紀も首を浅く動かした。

 ふいに恵さんの携帯画面が光り、写メールを撮られる。

「最後にもう一回、小中学生に触っとこ」

 六本の腕が伸びてきて、髪やら肩やら背中を撫で回す。初めにメイクされた時のくすぐったさが、今はなくなっていた。

 廊下に出ておじきする私と真紀に、三人揃って大きく手を振った。

「じゃあねー、バイバーイ!」

 花嵐に遭ったような驚きを、噛み締める間もなく、花たちは熱風に乗って去ってしまった。

   ◆

「はー、びっくりしたぁ! でも、面白かったやん!」

 カクテルガールから受け取ったのは、オレンジジュースとアイスティーだったけど、本当に酔っていたみたいだ。

「真紀、受験前のえい思い出になった?」

 大人になる前に思いきり遊んでおく、と、三人は言っていた。

「……なに、それ」

 二人になった途端、真紀の声がオクターブ低くなる。

「恵さんら言よったやん、就職前にって。あんたが街に飛び出したがも、同じ理由?」

「……ホテルの外に出たらいかんがやろ」

 目も合わせずに、真紀はポツリと言い捨てる。

「そりゃ、ラスベガスの往来に出ろって親は、おらんやろ」

「おとなしゅう言う通りにするが、シャクやんか」

 苦い言葉をロにする、一歩手前の顔――家にいた頃、よく見た表情だ。大体、厳しい口調に変わって、けんかの引き金が引かれる。

「……お姉ちゃん、知らんろうけど」

 窓外をふと見やる。絡み合いを避けるように、視線が宙を彷徨う。

「お姉ちゃんがいなくなって、すご――く、うるっっっさいがよ。二つのエネルギーが、あたしだけに集中するき」

 伸ばしたり詰まったりと、挑発的な口調がひっかかる。理屈は分かるが、すんなり胸に入って来ない。

「お姉ちゃんは何で受験したが?」

 先輩の志望動機を知ろうとする殊勝さではない。反語調の皮肉に、すぐに返事ができない。

「今、実際どうなが? お母さんと抜き打ちで部屋に行ったら、いっつも物ひっくり返っちゅうし。お姉ちゃんがああやし、あたしにこうしろって、いちいちいちいち」

 目を吊り上げて、怒っているお母さんの顔真似までしている。敵対視とさえ言える態度だ。

「昔っからそうながよ。保育園も小学校も、勉強も習い事も」

「言うてくれるやん、真紀。いつやって、私を先に行かせといて」

 尻拭いをさせられているという発言には、黙っていられない。

「自分は後から来て、ずっと要領よくやれるくせに!」

「遅く生まれたが、あたしのせいやない。教わること何もないし!」

 母親に手を引かれて歩いている赤毛の男の子が、目を剥いて真紀を見つめている。

「そっちがあんまり馬鹿やき、反面教師にしちゅうが!」

 真っ白になった頭に、過熱した血が上ってくるのを抑えきれない。

「何、あんた! まだ親元におって、大変さを知らんくせに!」

「年上ぶらんといて! そっちこそ小学生の時、同じやったやろ。自分がいろいろ上手くできんからって、人に当たるがやめてや!」

 ドーン!

 遠雷のような破裂音――真紀の背を映している窓ガラスの向こうで、空が赤く爛れた。押し寄せてくる緋の色。社会の戦争アニメで観た赤く空にのしかかる雲に目を奪われ……真紀は消えていた。

   ◆

「で、何がどうしたってわけ?」

 携帯電話の発信ボタンを押すと、流行りの着メロの代わりに、お母さんの不機嫌な声が、這うように流れてきた。

「まったく……見くびっちょったわ、あんたらを。日本やったら、こういう展開もあるろうけど」

 電話の操作は簡単だった、何度も着信が入っていたから。

「まさか、ラスベガスでやるとは思わんかった」

電話向こうの語気が、少しずつ強まっている。

「……お母さん、怒っちゅう?」

 赤い空に目を背けても、地鳴りのような響きが、何度も灼熱の大気を打ちつけている。

「ここ、日本やないて、分かっちゅうが? 言葉は? お金は? 誘拐されたら? 次の瞬間、銃でズドンと撃たれるかもしれん」

 いきなり、ロスのハリウッドで観た、歴代アクション映画みたいな展開を持ち出される。顔の見えない、低く重い声が、火照った体を急速に冷やす。

「そんなの、現実にあるわけないろう……」

「世の中には、あんたの知らん嘘、盗み、暴力――理不尽なんか、いっぱいある! そこは、小中学生が子供だけで歩く場所やない!」

 綺麗な壁に、上気した頬が触れて、冷たい。

「あんたらは自分で行ったがで。その責任は取れるが? 何か起こって――大怪我して、ずっと引きずって、一生消えんで、最悪死んでも――自分の行動の結果やって。監督不行き届きの社会的責任は、母さんらが負う。でも、あんたらの体と心は、トラブルとダメージに対して、回避と回復ができるって言うが?」

 電話越しに、並々でない剣幕がひしひし伝わってくる。相手の怒りや激情に、体が固まり、思考は停止する。言い返そうとすると、どもって十分の一も言えない。

「一緒やったら、親の責任で、盾にはなれる。それさえできん状況や。親は子供を背負っちゅう。あんたは妹を背負っちゅうが。生意気でも、二つ年下で、英語もろくに知らん。真紀に何かあったら、姉として責任を負う――そこまでの覚悟はあるが?『真紀が勝手に出て行った』なんて、通らん。止めるどころか、一緒について行って――呆れるわ!」

はっきりと怒気を含んだ声色が、耳を突き抜ける。

「……そっちこそ、あたしらのお守が嫌やったがやろ! お父さんと二人が良かったんやろ!」

 まったく無駄だと分かっていても、言われるがままの状態がたまらなくなって、言葉が勝手に飛び出していた。

「あんたらが二人に、一人になりたがるのと、同じやろ。いつやって、親が鬱陶しいって態度のくせに。こんな時だけ泣きつくが?」

 ここまでずけずけ言われた説教が、これまであっただろうか。

「泣いて無理って言うがやったら……自分のした行動に責任も持てん甘ったれのくせに、無鉄砲で軽はずみで考え無しの、どうしようもない馬鹿やろ」

……分が悪くて当然だ。何をどう言っても、元はこっちが悪い、その事実に変わりはない。

「信用して、四六時中見張らんで好きにさせた。でも、あんたらは勝手に出て行った。やったことはやったこと――後悔しても、遅いで。迎えに行くのは容易いよ。でも、こっちからは手を延べん。今、あんたらが取るべき行動は、家族に合流することや」

 無断でラスベガスの街に出た私たちは、無鉄砲に違いない。でも、親の対処だって、何という大胆さであろうか。必勝の保証もない手に、ずいぶん思い切って賭けたものだ。

「冷たいと思いゆう? あんたらの行動は、そのくらい重いきね。責任を取るか、非を認めて謝るか――筋を通しや」

 不思議に感情の壁が透けて、激しい言葉が爽快だとさえ感じる。

「帰れないのに飛び出すほど馬鹿やない!」

 思いっきりぶつけてぶつけられる、大きな感情の塊に喰らいつく。

「――帰ってみせる!」

「そこで泣きついてきたら、引っ叩いたけどね。話し合いは後にする、まず自力で来ぃや。罰やない、責任――最後まで通しや」

怒りに任せた感情で、見捨てられたのでないと、分かっていた。今、この瞬間、一台の携帯電話を、細い命綱のように握り締めているのは、私だけではない。

  ◆

とにもかくにも、真紀を連れ戻さなければ、始まらない。お姉さんたちと別れた後に乗ったエレベーターと通路を通って、ランチを食べたフードコートに戻る。

構造も広さも分からないホテルで、うっかり動けば、迷子になりかねない。真紀どころか、自分でさえ今の場所に戻れないかもしれない。日本のように、店員さんに聞いたり、館内放送をかけてもらったりなど、この英語力では叶わない。携帯電話は一台しかないから、連絡は取れない。

結局、じっとして動かないのが最善だという結論に至った。壁にもたれて、行き交う通行人の群れに日本人女児を探しながら、お母さんの言った内容を、何度も思い返した。

「……お姉ちゃん」

――真紀! 戻っている、いつの間に……

バツが悪そうに目を逸らし、俯きがちに小声で呟いている。口パクで三音、唇の形が「ゴメン」に見えた。

「真紀、あんた……」

こっちも何か言うべきか……はっきり謝罪が耳に聞こえたわけではない。それに、後々しこりの残りそうな強烈な駄目出しを、歳下の妹からされたという、さっきの状況――厄介なプライドが、意地になってわだかまっている。

「……お母さんに電話した。『ベラッジオ』ってホテル、ナイトツアーのバス乗り場の所まで、自力で来ぃやって」

押し寄せる文句をぐっと腹に押し戻し、いつも通りの声を出す。

「もうゲームやない。現実のオリエンテーリングや」

「それ、六年生の修学旅行でやる倉敷市の班別行動のこと?」

「うん。指定されたポイントを、地図を使って発見して、できるだけ短時間で最終地点への到達を目指すんや」

「五年でも今、調べゆうで。ポイントって、美術館、考古館、記念館やろ。係の先生がおって、判子くれるって」

 腕に提げたナップサックのサイドファスナーから、真紀はさっきのガイドブックを取り出し、こっちへ押し出す。

「真紀、行こう、次のポイント」

 クーラーの風吹きすさぶベネチアンを出て、熱風絡みつくラスベガスのフィールドに、再び踏み出す。

「……暑っ!」

「もうすぐ日が陰るやろう。あ、ここ――」

 ホテル「ミラージュ」――無料の火山ショーをやっている所だ。

「真紀、さっきの爆発、ここやで」

 火山の形をした、沈黙の巨大モニュメントだ。赤い空と地鳴りの爆心地――あれが火を噴き、池に溶岩を流し、爆音とともに空を赤く染めたのだ。

「……静かな池やな」

 あの激しい鳴動が嘘みたいだ。

真紀にしても、飛び出したものの、財布、携帯電話、ガイドの入ったナップサックは、私の肩に掛かっている。連絡も取れない無一文の状態で、目的地も方向も知らず一人で行くなど、無謀以外の何物でもない。学校でも塾でも一番の真紀に、分からないはずがない。こういう理性的な面が、お母さんに似て現実的だ。

火山に背を向け、再び足を進めながら、真紀が呟く。

「南向きやから、えっと……あの店の方向や」

その小さな免税店は、小旅行で立ち寄る田舎の土産屋みたいだ。店先に並んだ雑貨の中に、スノードームのようなオブジェがある。

「うわっ、蠍やん! こんな物まで売りゆうが?」

手を伸ばしかけて、一瞬固まったが、意を決して掴む。

「まさか買う気? お姉ちゃん、ええ趣味やな」

「あんたの分も買うで。冒険の記念や」

こうしていると、小学校の頃、街に出て行ったフィールド学習を思い出す。まだ見ない物へのしっくりこない感じに、楽しみと煩わしさの入り混じった気持ちが蘇ってくる。

班ごとに商店街に出て、どんな店があるか調べる課題だった。走っていく男子の背を見つめながら、女子はもじもじ立ち止まっていた。思い切って、クリーニング店のおじさんにこわごわ話しかけた。背中をバシッと叩かれて、振り返ると息を切らせた男子が立っていた。十円で手に入れたという大根を、得意げに握り締めていた。

「書く内容思いついた? 題名はこれでいいよね、友紀?」

 学校に帰って、教室で模造紙にまとめる作業にかかると、女子は忙しくなる。文章を考える役の私に、班長の声が飛んでくる。

授業内では終わらず、休みの日に班長の家に集まった。家中をうろちょろ遊ぶ男子を注意しながら、結局表に出て遊んでしまった。

 どうにかこうにか終わらせて、月曜日の発表にこぎ付けた。緊張しながら教壇に立って、黒板に磁石で貼った模造紙を指しながら、順番に全員で発表した。体はカチカチで、声は上ずっていた。

「以上で終わります」班長の声に、ドっと脱力した。他の班の発表も似たり寄ったりで、今思えば、他愛のない内容だ。けれども、見も知らない国や県の知識を、机の上でノートやワークに写すより、ずっと面白かった。

「よし、三班はようできちゅうで」

 小学校の担任は、人数が増えて疎遠な距離の中学校の先生より、ずっと密で濃い関係だった。

「えいか? 社会を暗記科目だと思いゆう者が多いけんど、そうやない。何でそうなっちゅうか過去の原因を突き止めて、規則性を見出し、未来に生かす学問や」

 熱っぽい語り口調を、男子が影で真似して笑い物にしていた。うるさいと反発しつつ、感じ入って聴いた多くの言葉は、半年で大半が失われた。一年も経たずに、すっかり思い出せなくなるだろう。

「お姉ちゃん? どうしたが、黙りこくって」

アメリカにいながら、心は日本にいた。学校や寮にいる時は、別の場所を思い描いたのに。外国に来て、元の場所を思っている。

「夏体み中で、旅行やのに、嫌いな勉強のこと考えよった――」

「お姉ちゃんやのに、優等生みたいやん」

「嫌いやなかった……どっちかっていうと、好きやった……なぁ、真紀……大事なものって、その時には気づかんよね」

「そうなが? よう分からんけど……」

「うん。手紙かタイムカプセルみたいや」

 ただ残るのは、あの学びの空間に満ちていた、皆の熱だけ――。

 いつだって、時間も場所も変わって、胸に届く。

もう無くなったのに、もう一度聴きたいと、切に思う。

 こんなまま、いつか全てが、完全に終わるのだろうか。

今という時間を、捉えられないのだろうか。

「旅っておかしなことばっかり――おかしいのが旅なが?」

「そうかもな――お姉ちゃん、さっきの話やけど」

「ああ、受験……受けるが?」

 いつの間にか、ストレートに、自然に、核心に迫っている。

「分からん、正直……考えんようにしちょった」

 濁した訳ではなく、今の真紀の本音だろう。

「なぁ、お姉ちゃん……今更やけど、家族揃って、夏休みにアメリカって、どうながやろ?」

 大前提を大真面目に尋ねられると、あまりにも今更で答に窮する。

「そうそう来られん、貴重な体験やろ」

「何でそんな無理するがやろ? 今、かなり赤字やないが? 来月ちゃんと生活できる?」

 可愛げのない小学生だ。親も無理し甲斐がない。素直に喜んでいるだけで、充分ではないか。

「そうまでして、何したいがやろ。お姉ちゃん、分かる?」

「自分らが来たかったんやろうけど、喜んでほしいんやろ、私らに」

「そうやろうか? ここで、あたしらに、どうしてほしいがやろ」

「考えさせたいがやろ、私にも真紀にも、こういう風に」

「何で海外に来て、わざわざ考え込まないかんが? まぁ確かに、朝起きて、学校行って、六時間も授業を受けて、クラブ、塾、帰ってご飯、お風呂、ちょっとテレビ、寝たら、またすぐ次が来て――家に居ってもあんまり話してないしな……」

 家族間の変化は、ずっと前から、少しずつ進んでいたのだ。気づいたのは、はっきり変わった後だった。 

なぜ、親と子は、姉と妹は、反発し合い、口を閉ざすのか――。

 往来の炎天下で喋っていると、暑さのあまり、口の中が干乾びそうだ。Tシャツの背中も、ジーンズの内側も、汗でべっとりだ。

「暑い、暑いで、お姉ちゃん……」

幾日も水一滴さえ飲んでないかのような、激しい乾き……容赦ない熱、何も考えず体だけ動かしている、運動会の終盤みたいに。

「真紀……しっかり歩きや!」

太陽が黒髪を焦がし、湯気が出ている頭頂が焼け、ぐらぐらする。

「さっきの蠍、生きちょった時は、この暑さに耐えよったんやな」

「死にかけた記念になるやん。お姉ちゃん、洒落にならんわ」 

さっきのオブジェ、不毛の大地を徘徊していた生き物を見るたび思い出すだろう――灼熱の大地を這いずり回る苦しさを。

「……いかん……この焼け付く……ジリジリする感じ……」

方角は、集合場所に向かっているはずなのに、なかなか見えてこない。強烈な砂漠の熱に、前進すらままならない。木陰伝いに少しずつ足を運ぶが、物事には限度というものがある。

 徒労の観光客を見飽きているのか、眉一つ動かさない通行人の姿さえ、霞んで陽炎に熔けているように見える。

「なぁ、お姉ちゃん……砂漠って本当、何て――」

 何て場所にいるのだろう。ただの外歩きに、死も垣間見える――

 くじけそうになる熱気――砂漠というものを、言葉や映像でしか分かってなかった。じりじり焼ける肌に、容赦なく思い知らされる。

「本物はこんなもんやないで、真紀……八十度くらいあるし、夜は一気に零度まで下がる」

あり得ない熱気は、人を蒸し殺しそうだ――。

灼熱の大地に突如現れたラスベガスの街――不毛な砂漠に立つ、陽炎のような都市は、人に征服されても、大地の熱を失ってない。

 頭は呆け、目の前が白く歪む……熱中症……死亡……意識は朦朧として、視界はアスファルトの陽炎で霞む……

蜃気楼が揺れる――よく見知った姿――お父さん、お母さん!

「友紀! 真紀!」

 両親に向かって、真紀が前のめりに倒れこんだ。目の前の地面が大きく傾き、焼けたアスファルトの熱に腹を焦がされる。

「顔、真っ赤やわ! お父さん、早う!」

 お父さんに担がれて、脚が宙に浮いている……あぁ、涼しい物陰、ひんやりした風……凶暴な太陽も、苦しい熱気も、もう、無い。

「母さん、水!」

 目が開かない……乾いた唇に、プラスチックの感触……。

「飲み物も持たんで、ずっと歩いて来たがか!」

 ペットボトルの飲み口……噛み付くように吸い上げて、慌てるあまり、飲みきれず、咽せ返る。

「一気に飲んだらいかん、ゆっくり、ゆっくりや!」

 飲んでも飲んでも止まらず飲み続け、ペットボトルを一気に飲み干して、お父さんがホテルの中に買いに走って行った。

   ◆

脱水症状が落ち着くと、ホテルフロアの真ん中で、各国の観光客の視線もよそに、私たちはたっぷり絞られた。      

 ホテル「ベラッジオ」――宿泊客以外、十八歳以下は入場禁止だそうだ。熱中症気味の外国の子供を見て見ぬ振りしてくれた警備員も、母親の激しい剣幕は見過ごせなかったみたいだ。一発目の雷で、早々に玄関先に追いやられた。

もっともポーチに追い出されたくらいで、すさまじい雷鳴は止まるものではなかった。甲高い声が裏返って、そこかしこに響き渡る。随分いろんな内容に飛び火した。「大体、昔から……!」「あの時やって……!」 色々と持ち出されて、聞く側はたまったものではない。黙りこくっても、今日はなかなか離してくれない。久しぶりに頭頂部を平手で叩かれた。通行中の世界各国の観光客が、ほぼ皆振り返っていく。日本人女性が感情を露に、大声を張り上げているのが、意外そうだった。

「お母さん、すっきりしたわ。久しぶりに言いたいこと言えたし。ずいぶん我慢しちょったがよ。最近のあんたら、難しい年頃で反抗的で。何か言うたら、また反発するって、手控えちょったきね」

 お母さん、ちょっと小じわ増えてる――今になって、気になり始める。普段、親の顔など、まざまざと見つめたりはしないのだが。

「お母さんは思うんやけど、沈黙は見せかけの平穏で、当たり障りないぬるま湯やん。よう目ぇ凝らしたら、アカや脂が浮いてるのに。見えん振りしよったら、どんどん溜まってくだけや」

「汚いたとえ……もっとマシな言い方ないが? なぁ、真紀?」

「こら、母さんの気持ちがそんなやったら、可哀想やろ」

 軽く私の頭をこづくお父さんの手は、意外に大きい。

「正面きって突っかかられても、陰で何を言われても、しばらく口きかんようになっても――言うべきことは言うべきや」

 あれだけ言い合ったのは、いつぶりのことか。この前は受験真っ只中だった。久方ぶりの衝突――すっかり忘れていたタイムカプセルが開いて、記憶にない物が出てきたみたいだ――よく知っていたはずなのに。

「そうやな。家族同士で言い合えんで、他人とは、とてもとても」

「そりゃ、他の人とは、あんな、剥き出しに言い合わんし」

 先生に怒られるし、グループから外されるし、と、真紀が呟く。

「せめて、僕らの間だけでも、本当のこと言い合おう。人に言うたり言われたりする時も、もっと上手くできるで」

 大きな手が、今度は真紀の頭を撫でる。昨日までなら、とっくに振り払われていただろう。

「やっぱり生々しゅうて、えぐいもんや……家族って」

 母さんの目線が、ふと遠くなる。おばあちゃんと、ひいばあちゃんを思い出しているのだと、何となく分かった。

「煩わしさを抜きにするのは、無理やき。都合えいことだけ、あるわけないきね。正面から踏み込まな、決して辿り着けんがよ」

 こういう衝突を、お父さんもお母さん、おじいちゃんおばあちゃんたちは、果てなく積み重ねたのだろう――深い洞窟の闇をまさぐるように、眼球でない「目」を凝らし、その気配を捉えようとする。

 お父さんの両手が、二人の頭をがっしり押さえる。

「何でもバンバン言うで。嫌われることも恐れん、自分の娘やき」

 周りが日本語を分からなくて、本っ当によかった。

「えぇー! これ以上言わんでえいし!」

「今やって充分うるさいで!」

 横を向いたり、頭を掻いたり、二人して躍起になって言い返す。

「何を、まだまだ。これでも、まだ我慢しちゅうきね」

 不思議に悪い気はしない。日本じゃないからだ、きっと。

「あんたらが年頃やとか、僕らとは時代が違うとか――思い込んで、必要な対話まで避けちょった」

「そうそう。お父さんの言う通り、衝突こそ、本当に必要な時もあるがよ。口を閉ざすのは良うない。色々と試みるべきやに」

「……難しいがやけど。なぁ、お姉ちゃん?」

「まぁね。でも、難しいき、面白いかもしれん」

「……ふーん、そんな感じ?」

 歯切れの悪い言葉と裏腹に、真紀の顔はすっきりしている。恐れながらも、やり合いたくてしょうがなかったのかもしれない。

 プシュウー!

 水音とともに、もうすっかり暗くなった空に、突然、光が弾ける。

「うわ! 何、急に?」

「後ろ見て! コモ湖の噴水や」

 千台はある発射機から、水群は様々な形を次々と生み出していく。

「お父さん、カメラ、カメラ、早う!」

噴水の水は 曲ごとに動きを変え、色とりどりにライトアップされ、踊っているみたいだ。

「凄い、ほんまに、凄い――!」

「ねぇ、すっごく綺麗!」

 今、目の前で繰り広げられているショー、国の違いを超えて人々を魅きつけるものを作った人は、奥底で何を思っていたのか――

いつだって、フィールドワークの終わりは、心地よい達成感と、とめどなく湧いてくる新たな謎に包まれている。

歓声に混じって、弾んだお母さんの声が流れてくる。

「場所がラスベガスやなんて、豪勢なケンカやったね」

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