第6話 船上の舞台

 ホテルのチェックイン・アウト、目的地や空港までの道のり――

 マップやガイドを見回し、交通機関、時間、料金を調べる。たどたどしい英語で尋ねて、乗り物の中でも気が抜けず、ホテルのフロントで想定外の質問が出ないか、ビクビクする。

 そういう煩雑な苦労が醍醐味だという変わり者、いや、通もいる。

 限りなくビギナーに近い、卒業旅行にうぶ毛の生えた平均的トラベラー、かつ大雑把で細かい雑事が嫌いな私には、金にあかせてショートカットできるのは有り難い。

 今朝、迎えに来た現地スタッフは、たった一人の私などさっさと済ませて、次の仕事に移りたいらしい。半寝入りの私を早々とホテルから連れ出し、朝のフリーウェイを飛ばして、フライト三時間前のLAX(ロサンゼルス国際空港)へと放り込んだ。

 銀行ATM、郵便局、フィットネスクラブは、もう営業している。

バーガーキング、プレッツェル、ピザハット、シナボン、タコベルからは、いい匂いがする。

 搭乗手続きと荷物検査が終わっても、かなりの時間を持て余す。連れがいれば、昨日のロス市内観光や今日のラスベガスの予定を、どっしり構えているキングサイズのソファで話し合っているだろう。

 港内という特殊な空間、旅という非日常の時間――

 移動中のふとした瞬間の、名も知らない道、街、人々――数年前の旅を振り返ると、見知らぬ街の自然な空気が仄かに胸をかすめる。

 まだ未明で、食欲が湧かない。スターバックスで並び、言いやすい品を単語でオーダーし、馴染みのない小銭で手間取らないよう、札で払って、釣り銭と一緒にカプチーノを受け取る。

 手近なソファを見つけ、深々と掛けて体を沈める。目を閉じていても、夜の闇が朝の光に優しく包み込まれていくのを感じる。

 フライトを待つ読書中のトラベラーは大勢いても、自作の小説を校正している人は、さすがにいない。電車でもカフェでもベンチでも、クリアファイルから感熱紙を出し、ペンを片手に取りかかる。

 目と手が勝手に動き出すと、切り取られた脳の一部が、彼方へ飛んでいく。見覚えある文字の配列を目で追いつつ、意識は昨日のリトル東京へ引き戻される。夢破れ、自ら命を絶った、若い女優――

限られているのだ、この旅も、若さも、人生も。

 書けばいい、裂けて溢れ出す思いを――それでいい、今はただ感じたままで。平行線を走るあらゆる思いが立ち消えて、この手で描いた世界に没入する瞬間を待っている。意識を物語へ引き込む、見えない強い力が欲しい。

 「レイ」はここにいる。気配は確かに在る。無いのは言葉、いつもの軽口だけだ。耽っている時は一人にしてくれる、本当の「独り」に――それでいて、そっと側にいる。レイが「私」だからか――

他の誰かとも分かち合えるだろうか。独りきりでありながら、繋がっている、この「自由」を――。

 機体は、西部山岳州ネヴァダの上空を飛んでいる。かつてカウボーイの駆けた広大な平原地帯だ。

 どこまでも広がる赤土の大地には、真っ赤な奇岩が林立している。降り立って見えるなら、想像を超える特異な景観、日本では考えられない圧倒的なスケールを目の当たりにするだろう。

 馬の蹄と嘶き、荒々しい男の掛け声は、時間の壁とエンジン音に遮られて耳に届かない。赤い山々、広がる砂漠、点在するオアシスのような緑地帯――日本の空からは見えない形と色が、途方もない広さで果てしなく続いている。

 離陸した時からずっと窓に張り付き、本もドリンクも忘れて、ただひたすら景観に見入った。音楽チャンネルに繋いだヘッドフォンからは、ヴァン・ヘイレンの『JUMP』が流れている。

 幼い時分の空を飛ぶ夢想が、間接的に叶えられている。遊びに連れていってもらえる休日の朝みたいだ。今でさえも――。

 風を切る機体に並んで、飛び行く影――雲海に映る人型の光――風に薄い布が靡くように、光は気の流れるままに波立つ。

 私もそこへ――目を閉じれば、レイの見る光景が浮かぶ――いつだって、大地から見上げていた、蒼い大気、浮かぶ雲、遊ぶ光――今、一瞬だけ見下ろす、触れてみたいと手を伸ばしながら。

 マッカラン空港――鳴り響く大音量のサウンド、極彩色のライトに浮かび上がる。

<Wow! これこれ! この騒音! 無駄なくらいの大音量! あぁ、テンション上がるわぁ!>

(頭ん中で、うるさくせんといて!)

 流れている曲は、ケニー・ロギンスの『デンジャー・ゾーン』だ。

<カジノや、ベガスに来たなぁ、また来れたんや……!>

(二度目の私より、三度目のあんたのほうが感動してるやん)

 声の主は、カジノの光景が眩しくて堪らないらしい。

(……な、あんた、一人でもカジノ行ったん?)

<『行った』言うたら、自分も行く?『行かへん』て答えたら?>

(教えてくれてもええやろ。あんた、全部『続き』知っとるやん!)

<だから、あんたの好きな2chスレみたく、バレは投下せぇへん>

(あんたがやった行動が、これから私がやる行動ってわけ?)

 旅行代埋店の現地ツアー・コンダクターが、自社のロゴ入りの旗を振りながら、ゲートから吐き出される新規客を待ち構えている。

<ほら、次の出会いやで>

 眼鏡のぽっちゃりしたおばさんが、自分の旗と、私の胸のシールを交互に見て、一致を確かめるように、にやっと笑った。

「まーあまあ、女の子が一人でこんな所まで来るなんて、ねぇ」

 今日の日替わりツアコンは、在住ン十年のべテランみたいだ。山下陽子さん――母と同世代の中年女性だが、服はラフさを残しながらも整っている。

 陽子さんにも私と同じ歳の息子がいて、フリーウェイの移送中、折に触れて「健ちゃん」が話に登場する。

 陽子さんは、遠くに住む親戚のおばちゃんみたいな感じだ。

 連泊するベガスのテーマホテルは、あの「ベネチアン」だ。

「すいません、お金が少なくなったんで、替えてきます」

 陽子さんがチェックインに並んでいる闇、トラベラーズ・チェックを両替に行く。

(ここ……真紀と一緒に潜り込んだホテルやな)

<だから選んだんやろ>

(あの時、よくお姉さま方に従いて行ったな)

<無謀やな、子供って考えないし>

(女子大生やって、ノリで、色々としでかしてくれたやん)

<ほんま、若さって怖いわぁ>

 お姉さんたちと遊んだカジノは、このフロアの向こうだった。

「小原さん、これ、部屋の鍵。遅かったわね。迷ってた?」

 目を奪われて遅くなったと分かっていて、そっとしてくれるのだ。

「すいません、陽子さん。あんまり賑やかで、フロアに目がいって」

「でしょうね。あ、そうだ、次のお客を迎えに行くまで、まだ時間があるのよ。よかったら、一緒にランチを食べない?」

手招きされて、二つ返事でひょこひょこ従いて行った。

(な、あんた、陽子さんも懐かしい?)

<もう、めちゃくちゃ懐かしい!>

(ええ人そうやな)

<ええ人やで>

(バラすなや!)

<ほら、バレってムカつくやろ?>

(あんたがムカつくわ!)

安いと評判のステーキハウスは、混む時間で空席がなかった。

 隣のイタリアンカフェに入って、Sサイズという名の特大ピザ、一リットルパックのコーラを、日本人二人で囲んで分けて食べる。

 いろんな具の入ったミックスピザは、定番の肉に野菜にシーフードから、一見何か分からない食材が、ふんだんに盛られている。

「いろんな人を迎えているけど、女の子一人ってのは、そうそうないわね。感心するわ」

 女一人旅に対して、頭ごなしの批判でなく、ちょっと難しめの課題に挑んでいる優越を感じさせてくれる。

「いえ、今はそんなに珍しくないですよ」

「これから、どこへ行く予定?」

「昨日はロスの市内観光をしました。今日はナイトツアーに出て、明日はグランドキャニオン、明後日はサンフランシスコです」

「ずいぶんハイペースねぇ」

 一人旅行なんて若いねぇ、と言った中年の同僚と、同じ口調だ。

「お盆休みが六日しかないのに、移動に二日も取られるんです。四日間の三都市周遊ツアーが、ちょうど見つかったので」

「さすが若い人は体力あるわね。私なんか、当分はゴメンだけれど」

 若さを羨みつつ、自分たちのほうがもっとよっぽど凄い冒険をしでかすミドルパワーを、陽子さんに会った時から感じていた。

「どこか遠くに行かれたんですか」

「ええ、この春、一時帰国してね。日本発の世界周遊ツアーにね」

 さすがアメリカ国籍、規模が違う。

「すごいじゃないですか! 世界一周なんて、憧れます!」

 哀しい女工に過ぎない、駆け出し社会人には、想像もつかない。

「船旅で三ヶ月だけどね。でも、言うほどいいものじゃないわよ」

 口に入れた黒い物体は、ビーフかと思ったら、キノコだ。

「寄港地はいいけど船内がね……人間関係とか、イベントとか」

「三ヶ月もかかるなら、年配のトラベラーばっかりですよね」

「ええ、健ちゃんも、やっと大学院を出て就職したからね。私は、五十半ばだけど、船内では若輩なの」

「うちの母より上の年代ですね」

「あれは――何て言うのかしらね。海外トラブルに加えて、仕事場やマンションや老人ホームのいざこざが、客船内で起こっているの」

 日々の憂さを晴らしに行くのではないのか? まるで本末転倒だ。

「……何か凄そうですね」

「客の持ち込んだパソコンとか電化製品がなくなるなんて、何度もあったわ。一ヶ月が経ったある夜に、港に停泊した時、盗賊団が乗り込んだの。手薄になった隙をついて、何事もなかったかのように、鮮やかに仕事をしてみせてね」

「盗賊団て本当にいるんですか! 本かTVでしか知らないです」

 思ってもみない単語に、恐さと興奮が湧き上がってくる。

「盗賊なら、まだ諦めもつくわ。だけど、船内での犯行は最悪ね。隣の部屋の人は、二カ月も録り貯めたデータを、デジカメごと盗まれて。掲示板に『カメラは差し上げます! データは返して下さい!』って張り出して訴えたけど、結局、というか、やっぱり出てこなかったわね」

 気の毒そうな表情を眺めていると、旅情に水を差される、というか、ぶっかけられたみたいに、理不尽さへの苛立ちが募る。

「やっぱり海外で盗難って、よくあるんですね」

「もっと悪いのは、パスポートの紛失ね。再発行に足止めされて、結局、帰国した人がいたわね」

 気の毒そうな表情で、口調が重くなる。

 冷えて固まったチーズが、フォークに絡まる。

「まだ酷いのは、犯罪に巻き込まれる事件よ。タイで、タクシーに乗った女の子は、山奥まで連れて行かれて、船に返してほしければ、三十万円よこせと脅されたの。船内に逃げ込んだ時点で、もう追って来られないから、無視しちゃえばよかったのに。日本人て根が真面目よね。わざわざ戻って、払いに行ったのよ」

「無事に済むなら、命が助かるなら――安い値段だったんですね」

 治安の悪い東南アジアで、山奥に連れ込まれるなんて……!

「こっちが犯罪と紙一重、ってケースもあるのよ」

「……犯罪小説みたいですね」

「合法で麻薬、家族や知人の目の届かない所で買春――動機は、それぞれなのよね。味をしめた中毒者が船内に麻薬を持ち込んで、発覚した時点で船を降ろされて、日本へ強制送還された人もいたわ」

 コーラの炭酸が、喉に噛みつく。合法と犯罪、船とともに境界線が移動しているみたいだ。

「個人的に一番タチが悪いと思ったのはね……」

 十八番ネタを披露する直前に、一拍を置いてもったいぶるのは、どのガイドさんも一緒だ。

今度は、どんな危険な話が飛び出してくるのか――。

「やっぱり――恋愛、かな」

 正解率一桁のクイズの答を明かすバラエティ司会者みたいに、陽子さんの口角がにやっと上がり、豊麗線が深くなる。露ほども予想してなくて、聞き間違えたのかと思った。

「へっ、恋愛……ですか?」

「ちょっと前に、日本でブームだったんでしょ、純愛って。それならまだしも、不倫のアバンチュールが、そこかしこでね」

 女子同士の内緒話みたいに声を潜められ、思わず身を乗り出す。

「……お年寄りでしょ?」

 カレーや酢豚と同じ、ピザにはミスマッチなパイナップルを、皿の端に取りのける。

「私が見た人は、凄かったわね。初めっから恋人探しが目的だったり、フラれたあてつけに、他のおじいちゃんと形だけ船内結婚式しようとするおばあちゃんだったり」

 思わず恋愛と年齢の相関を考察してしまう。

 二十代にして干物の私、いきいきと恋を追う老人たち。少女のように初々しい表情の老女が見えてきそうで、干物女には眩しすぎる。

「あの船で楽しめるのは、ツルみ・ダベりが好きな人でしょうね。船がどうやって動いているか、知ってる?」

 動力の話でなく、経済的な背景だろうが、何やら神妙な面持ちだ。

「引率スタッフとして乗ってるのは、ほとんどが二十代の若者なのよね。フリーターとか、ニートまがいなんでしょうけど」

 窘めるような苦々しい口調――若者に自立を諭したい気持ちと、我が子ならぬ他人ゆえの距離の、ジレンマが垣間見える。

「そうですね。定職に就いてちゃ、何カ月も船旅なんて」

「その子たちって、何ていうか……もう、引っきりなしにイベントやらミーティングやら開くのね。こんなに一生懸命に企画しました、皆さん奮って参加しましょう、って、ムードが充満してて」

 有難迷惑の顔に、深くうなずいてみせる。

「私も苦手ですね。マイペースな一人旅がいいですよ」

「乗客のためというより、大体が自分のためだからね。タダで世界を周れるうえに、溜まって行き場のないエネルギーが凝縮してて、ここぞとばかりには集中して、一気に吐き出されているの」

 フリーターでアルバイトしていた頃、私も周りにこんな風に見られていたのだろうか。

「客も一線からリタイアして、世間から切り離されて寂しい人が多いから、孫と遊ぶみたいに一緒になって騒いでた。最初は付き合えても、どうして若者本位で、私たちには合わない活動が出てくるの」

「ジェネレーション・ギャップってやつですね」

「のんびり自分のペースがいい人には、居心地が悪いのよ。鬱陶しいくらい熱の籠もった催しに不参加だと、非協力的で協調性がない、ノリが悪くて冷めてて暗い、皆と交われない孤独で寂しい人にされちゃうし。余計なお世話だってのにね」

 中学の頃に嫌というほど感じていた、クラスの女子の輪みたいだ。

「彼らのエネルギーを利用すれば、人件費はかなり抑えられるし、勝手にガムシャラに働くじゃない。そうやって経費の掛からないようにして、乗客からはたっぷり絞り取るの」

 裏側を知った陽子さんは、辟易しているのだろう。充実を渇望する若者の熱意が、そんな形で利用されているなんて。フリーターたちがその側面を知ったら、どう思うのだろう。

「地下鉄数駅の観光地に、わざわざバスやガイドや食事を付けて高いオプション料金を請求する。そういう事情を知っていたリピーターに運良く教えてもらえてね」

「私は面倒で、全部任せるんですけど、やっぱり割高なんですね」

「ツアーをキャンセルして、その人に従いて自分たちで行ったの。安上がりだし、時間と行動が自由で良かった。他にも何かにつけてお金を落とさせるようになってたわ。主催者はボロ儲けでしょうね」

「……そりゃ、商売ですもんね」

 いつか私も世界を周りたい――なんて、無知な憧れだったかも。

「日常の舞台から、ようやく世界へ解き放たれたはずだった。社会の暗部が凝縮した船内で、人間関係の煩わしさが繰り返されて――逃れたはずなのに、自ら飛び込んだみたい。陸では家に帰れば一人になれるけど、海の上の狭い船内じゃ、四六時中離れられないの」

「……それ、私は無理です」

 どこに行ったって、同じことが起こっている。集団と個人の壊界が混線状態で、住み分けられず、どちらも選び切れない。徹し切るか、器用に切り替えるか。陽子さんの芯は、きっと太くて強いのだ。

 加えて、大いなる金の罠――

 この旅だって、盆というハイシーズンに、ニーズの増加で代金が高騰して何倍に吊り上がった。ビジネスや亡命でもないのに、行く必要のない場所へ、日々の労働に耐えた見返りに自分を慰めに行く。

「寄港地は最高だったし、しっかりしたいい方が、たくさんいたわ」

 眉間に皺を寄せていただろうか。何事か考え込んだ時の癖らしい。

 裏話に立ち竦むビギナーをフォローするように、陽子さんの表情は目に見えてトーンアップした。もっと食べてね、と、ピザの残りを皿によそってくれる。

「船内で繰り広げられる日々の出来事をルポにして、ノートパソコンからリアルタイムで送信してる人なんかいたわね」

「ライターか作家ですかね。本当にいろんな人がいますね」

「事情通のリピーターの方に、いろいろ連れて行ってもらって、賢く十二分に楽しめたわ。フィヨルドやナイアガラの絶景を一緒に観た友達とは、今も連絡を取り合っているしね」

「三ヶ月も一緒でしたもんね」

 陽子さんの話は、ガイドブックに載っているありふれた土地情報より、ずっと鮮烈だった。分厚いバンズと一緒に、刺激の余韻を噛み砕いていた。

「今日のアフターはね、古い友人を我が家に招待するの。その人、あなたと同じ、高知からなのよ。家が会社をやっていて、時間が自由になるんでしょうね。数ヶ月に一回こっちに訪ねて来るのよ」

「高知の田舎でも、いるところにはいるんですね、そういう方」

 陽子さんがおもむろに携帯電話を取り出した。

「今、どこらへん? うん……はいはい……じゃ、五時に着くのね。今、お客の女の子とお昼食べてるんだ。可愛いし、話しやすい子よ」

 正面でにこにこ聞いている私を、ちらっと見た。

「じゃ、その子に代わるわね」

 いきなり携帯ごと、丸投げに手渡された。

「――あ、えっと……こ、こんにちは」

 知らないおばさんと話したこの数分間を、何年も経っても、不思議に覚えていた。

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