第5話 Bad Girls

 ◆

 ロスを後にして、ラスベガスに向かう飛行機――空の物珍しも薄れ、慣れない海外旅行の疲れも噴き出し、家族全員が朝寝している。

 夕べ、サンタモニカの夕日を見て、日没とともにホテルに戻った。

すぐに寝て、夜中に起きて、水を飲んで、また寝て、それを何度も繰り返した。

(……レイ、今日、休みやな。学校、行かんでえいな)

 実家にいた頃の休日――いつも容赦なく布団をはがすお母さんも、先に出勤して食卓にいないお父さんも、二人揃って寝過ごしている。

 私と真紀が先に起きて、こっそりゲーム機のスイッチを入れる。続きをリロードして、声を立てず、身振り手振りでプレイする。声を出せない時ほど、笑える場面や会話が多い。不審な物音が、親の目覚まし代わりになっていたようだ。

 十一時前になると、近所の喫茶店に駆け込み、モーニングを注文する。四人揃って読書して、一時間半ほど居座る。その後、春は山で土筆やイタドリを取り、夏は市民プール、秋は紅葉の公園でバドミントン、冬は陽だまりを散歩し、海岸でお湯を沸かして、コーヒーやラーメンを作った。

〈えいよ。夏休みやからな〉

 頭の中の声は、語りかけた内容にしか応えない。思いや考えの全てを悟られるなら、私はきっと狂ってしまう。レイはいつも静かに寄り添って受け止めてくれる、否定せずに。

 面白い、ノリのいい話をしなければ――クラスメイト相手に身構える、いつものプレッシャーは全くない。言いたい時に言いたい内容を、言いたいだけ言ってもいい。

だから昨晩、みっともない恥ずかしい、友達、先生、親にも言えない話まで吐き出したのだろう。

(ね、レイってさ……)

〈今度は、何?〉

(……ううん、何でもない)

 レイには過去の記憶がない。自分が何者なのか分からない、というのは、不安なのだろうか、自由なのだろうか――。

   ◆

「何、ここ! 音、すっごい、うるさい!」

 飛行機からマッカラン空港に入った途端、極彩色のライトの光、パチンコ店みたいに景気のいい音が鳴り響いている。耳を塞ぐお母さんの後ろに、いきなり奇妙な形のマシンが浮かび上がる。

「あれ、スロットマシンやろ。さっそく空港にあるで!」

 お父さんの指差す先にあるのは、洋画や漫画で観たカジノだ!

ターミナルのフロアには、全校生徒に一人一台あてがっても余るくらい、列を成してマシンが並ぶ。

 ほとんどボタン式だけど、いくつかレバー式もある。後から来た黒人男性二人組が、さっそくマシンに飛びついている。浅黒い手の太い指が、乱暴にボタンを押すと、「BAR」とか「7」とかいろんな絵柄が流れ始めた。男たちは三面連続で揃えようと、躍起になっている――本当にラスベガスなのだ、ここは。

「ほら、時間押しちゅうき、もう送迎バス来ちゅうで!」

 バゲージクレームのあるメインターミナルまで、トラムで向かう。

 両親がトランクを受け取って、カジノ以外はロスとよく似た空港の通路を抜ける。

 表へ出たとたん、もわっとした熱気にあてられた。慌てて全員、駐車場にたくさん乗り入れているバスの、鞄のタグと同じJTBの旗を掲げている一台に向かう。さっきの黒人並みの脚力で、猛ダッシュして飛び乗る。

「なに、この気温! ありえんで、こんな暑さ!」

 クーラーを点けない時の真紀の愚痴が、さっそく飛び出す。

「お客様、ラスベガスは砂漠にできた街でございますよ」

「えっ、ここ、砂漠なが!」

 質素な感じのおじさんガイドの言葉に、真紀と顔を見合わせる。本当にこんな熱風の土地があったのか。それなら、高山も氷漬けの土地もあるに違いない。私が知らないだけで、実在しているのだ。

 どこもかしこも縦横無尽にフリーウェイが伸びている。空港から出てきたシャトルバン、二階建てバス、タクシー、レンタカーらしい車が、英語の標識の下、砂漠の上のアスファルトをびゅんびゅん走っている。アメリカは車がないと、どこへも行けないみたいだ。

「今走っております、この通りは、メインストリートの『ブルーバード』、通称ストリップでございます」

 髭にアロハシャツのおじさんガイドが、妖しげな名前を口にする。

 窓に張り付いて眺めると、煌びやかなネオンと、巨大な建物が、ひしめいている。ずいぶん賑やかな街だ。派手な看板を掲げた、妙な形の建物がそこら中にそびえ立っている。

「通りに沿って、たくさんのテーマホテルが立ち並んでおります。海賊をモデルにした『トレジャー・アイランド』、NYの街並みテル内に模した『NY・NY』や、水の都の再現『ベネチアン』など、いろいろございます」

 通りに面した前庭に滝が流れているホテル。本で読んだ「白亜の殿堂」という言葉がぴったりの、宮殿みたいな建物。凱旋門とエッフェル塔にそっくりな建造物。翻るスカートを押さえている、自由の女神の像。巨大なギターのネオンサイン。ピラミッド型の建物の前には、小さなスフィンクスもいる。

「さて、この車は、ホテル『サーカス・サーカス』に向かっております。その名の通り、無料でサーカスショーが観られます。併設型の室内遊園地もついております。私も子供が小さな頃、よく遊びに来ました。ぬいぐるみなど、たくさん獲って、車のトランクいっぱいに詰めて持ち帰ったものでした」

 おじさんは目前のホテルを遠いところを眺めるように目を細め、さっきまでの流暢さが一転、噛み締めるような口調だ。アルバムを見る時のお祖母ちゃんの表情によく似ている。

「要は子供向け、ファミリー向けながやね」

「真紀、子供が、子供向けとか言わんでや」

 お母さんの言葉とは裏腹に、ホテルの看板は、ロリポップを持ったピエロだ。サーカス小屋風のピンクの屋根――大人ばかりのカジノ街で、浮き立って見える。

 ホテルに入るなり、館内に充満している濃い解放感に包まれる。老若男女がはしゃぎ、皆が皆ハメを外して遊び惚けている。完全なるエンターテイメントの追求、その一点だ。ホテル全体が、巨大な遊園地みたいだ。

 カジノを横切るだけでもずいぶん掛かり、エレベーターでようやくゲストルームに着いた。カード式の鍵で扉を開けると、昨夜のロスの中級ホテルとは比べ物にならないインテリアが、目に飛び込んできた。

「うわぁ、豪華やん! えいやろ、お父さんのチョイス!」

 一人満足気なお父さんを置いて、女三人は当たりを物色し始める。ダブルベッド二つ、革張りのソファ、アンティークなテーブルに椅子四脚、TV二台、事務用デスク、クローゼットに、室内金庫が付いている。

「バスルームのアメニティ、すごいで! 大荷物、持って来んでもよかったわ」

 充実した洗面台に興奮気味のお母さんは、ブランドのロゴが付いたソープやシャンプー、ソーイングキットを鷲掴みにしている。

「カジノフロア中二階で、ちょうど無料サーカスやりゆうで」

 アメニティは目もくれず、ドア付近でお父さんが手招きしている。

「もう、お父さんはすぐ外に行きたがる。ベッドに寝転びたいわ」

 お母さんはしぶしぶ鞄を手に取り、お父さんに付いて行く。

「……新婚旅行で来たら良かったがよ」

 わざと足音を立てて廊下を歩く真紀が、ぼそっと呟いた声が、耳を掠めた。

 大盛況のステージを、各国の客がずらりと取り囲んでいる。原色の派手な服を着たピエロが、ジャグリングと空中ブランコを決めた。

 世界中の子供たちがドッと沸き上がり、手を叩いて喜んでいる。通路向かいのフロアでは、親らしい大人たちが、「SEGA」のロゴがついた、百台以上はあるビデオゲームにかじりついて、仮想現実に没頭している。

 うちの両親だけが、小さな子供たちと一緒になって、惜しみない拍手を送っている。

「飛行機でも言うたけど、この後、大人組と子供組に分かれるきね」

 ピエロの男と綱渡りの女が交代する幕間に、おもむろにお母さんが言い出す。子供は話を聞かないと決めつけられているみたいだが、実際その通りなので、面白くない気持ちをもて余す。

 真紀だけが、何の表情も見せない。目の端でちょろちょろするピエロを、まるで無視している。心は別の場所で、じっと何かを考えているようだ。移動に次ぐ移動中も、こんな顔だった。ずっと同じ時間が続くと、飽き飽きした表情を遠慮なく浮かべる。遊園地もサーカスも興味ない、子供じゃない、とでも言いたげだ。

「よし、こっからは、自由行動や」

 幕引きとともに、お父さんが財布をぱかっと開く。好きに遊んできぃやと、何枚かの一ドル札と、知らないお札を何枚か手渡された。

 親たちは、さっき話していた、安いステーキハウスでランチにするのだろう。引けていく観客の人ごみに、両親も呑み込まれていく。

 ばらばらに散った子供たちが、ゲーム・アーケードでごった返している。ボールを的に当ててヌイグルミを狙ったり、ピンボールで大はしゃぎしていて、両親の姿はすぐに見えなくなった。

「やっと子守から解放されたって顔しちゅうわ」

 人ごみに向って、真紀が鼻を鳴らす。

「それ、もらうで」

 ぶっきらぼうに紙幣を全部掴み取って、真紀はふいと背を向ける。

「ちょっと、真紀。私のは? どうするが、お金?」

「外、行くに決まっちゅうやん」

 近所の自販機にジュースを買いに行く、みたいな軽さで、真紀は事も無げに言う。

「――は? なっ、何を言ゆうが、あんた!」

 いくら「好きに」といっても、「ホテル内で」という制限は、暗黙の了解のはずだ。建物の探検、ゲームコーナー、室内遊園地アドベンチャードームしか選択肢はないのだ。

「真紀! ここアメリカやって、分かっちゅうが!」

 ラスベガスの往来を一人歩きする、小学五年生の日本人女子など在りえない。

「別にお姉ちゃんを誘うてないで。一人で行くき」

「待ちや! ちょっと、こら!」

 黒人のドアマンは、外国人の子供の言い合いに、微笑ましい表情を向けてくる。ホテルから表通りへと飛び出した真紀を、反射的に追って外へ出た。

 行き抜けるだけでも数分は優に掛かりそうな駐車場のアスファルトから、ゆらゆら陽炎が立ち昇って、もわっとした熱気に体が蒸し上げられる。

「暑っ!」

 サウナ室に踏み入れてしまったみたいに、二人して慌ててクーラーの効いたポーチへ駆け戻った。

「あらあら、まぁまぁ」

 湯気の出ている頭上から、のんびりした調子の日本語が降ってくる。シャンデリアが煌煌と輝く正面玄関フロアに、参観日の父兄のように着飾った四人組の日本人のおばさんが歩いて来る。温度の感覚が麻痺しているのか、濃い化粧の顔に汗一つかいていない。

「慣れないと暑いわよ、ここは」

「今日は気温が高いからねぇ」

「去年なんか、五十度を越した日があったんですって」

 嘘だろう、と、言いたくなる。インフルエンザの山場を、遙かに上回っている。

「ちょ、無理やん! 真紀、聞いたろう、今の」

「歩きやなかったら、えいやろ。バスとか、トロリーっていう乗り物あるで」

「さっきのガードマンの手前、引き返すが格好悪いだけやろ」

「お姉ちゃん、うるさい!」

 また急に飛び出した真紀を追って、再び外へと踏み出した。

   ◆

 巨大なホテルの巨大な駐車場をどうにか抜け、木陰伝いに通りへ出て、バス停らしい場所を目指す。

 およそ日本のものとは似ても似つかない、白と紫の二色のバス停サインの前に、人だかりができている。破れたジーンズを堂々と着た黒人男性と、大きく胸の開いたノースリーブで胸の谷間が見えて

いる白人女性が、互いの肩や腰を抱きながら大声で笑い合っている。

 すぐにでも引き返したかった。どことも知れない場所へ、危険を冒して、なぜ行こうとしているのか。

「お姉ちゃん、ホテルの看板、大っきいピエロがロリポップ持っちゅうき、覚えちょってよ」

「うちのホテル、メイン通りに沿っちゅうき、すぐ分かるやろ」

「この通り、ストリップって言うがやろ。何で、服脱ぐ、って名付けたがやろ?」

「あんた、そういう話、よう口に出せるね」

 帽子も被ってない頭頂部に、ぎらぎらと太陽が照り付けて、かなり熱い。金髪に茶髪に黒髪、直毛に巻き毛に縮れ髪、一様に水分が蒸発している湯気が出ている。

 一時間に一本しかない田舎のバスとは違って、数分後に変わった形で赤い色をした、可愛らしいバスが来た。居並ぶ各国の観光客に押されて、慌しく乗り込む。

 派手なショー広告の付いたバスに入る。高知安芸線の県交通バスとはまるで違う車内だ。車高が高く、天井も高く、幅も広く、吊り革手すりさえない。

 一斉に乗り込んだ乗客は、黒人、白人、黄色人とごった返している。真紀が二人掛けのシートに滑り込み、何とか腰を下ろせた。ここでは私たちが外国人、しかも子供同士の無理な組み合わせだ。前に座っている老夫妻を、家族のように見せかける。

「真紀、一応聞くけど……どこ行くが?」

「さぁ、適当」

 非常識な行動をしでかしている自覚が、まったく感じられない。掴みどころのない大きな隔たりに、愕然と肩を落とす。

「やっぱり、そんなことやろうと思うた! 目的地ないが? 何にも? バスがどこに行くかも分からんに!」

 高知でだって、バスなんか滅多に乗らない。子供たちだけなんて、尚更だ。見も知らない外国で、放送の英語だって分からないのに。

「パリスとニコールやって、私と同じ小五で、自分らだけでラスベガスに来たで.バッド・ガールズて言われゆうけど、格好えいやん」

「誰、それ?」

「お姉ちゃん、芸能人全然知らんね。パリスは、ヒルトンホテル創った家の子で、ニコールは歌手ライオネル・リッチーの娘やで」

 得意げな表情と、自信満々の口調で教えられる。顔も性格も、ちっとも似てない姉妹だと言われるのは、無理もない。

「写真も文もごちゃごちゃした、ティーン雑誌の受け売りか。でも、その人ら金持ちやろ。お金もクレジットカードもあるやん」 

「カードないけど、ガイドは持っちゅうで」

 ガラス窓を隔てて、カラフルな街並みの残像が、目の端を流れていく。バスはとっくに走り出していて、速度に急かされて、お父さんのガイドブックを慌ててバラバラめくる。

「お姉ちゃん、ラスベガスって、テーマホテルがポイントながやろ」

「うちのホテルはサーカス・サーカス……あ、これや。他はどのホテルがえいわけ?」

「待ちや、今見ゆう。たいがいホテルは、ストリップに沿っちゅう」

 老夫婦は心配そうな表情で、しきりにこっちを見ている。隣の席では、白人の幼稚園児くらいの男の子が、父親の膝で無邪気にはしゃいでいて、母親は幼い頬を愛しそうに撫でている。

「Hi!」

 前の通路に立っているネイティブが、何やら話し始めた。ジーンズ姿だけど、金髪に青い目――白人の男の人だ。

「Hello,girls」

 恐る恐る周囲を見渡す。これだけびっしり人がいるのに、ガールは――私と真紀だけだ!

「あ……え、えっ……ハ、ハイ!」

 私たちの会話が一段落するのを、待っていたのか。

「Where do you come from?」

 子供に問いかけるゆったりした口調。でも、音の質がまるで違う、半分も聞き取れない!

(レ……レイ、レイ! 英語や、英語、分かる?)

 い、いない――こんな時に限って! あれだけいつも憑いて、話しかけていたくせに! ピンチの時に助けてくれるドラエもんのように思っていた。当てが外れると、よけい状況が悪くなったかのように、焦りが一気に押し寄せてくる。

「お、お姉ちゃん……どうしよ……何なが、この人……!」

 眼前には、不自然な沈黙をいぶかる白人男性の顔。背中には、見知らぬ外国人に怯える真紀の声。頭上では、一緒に焦っている老夫婦の視線――

(落ち着け、落ち着いて……Where……どこ……)

 出発地か、行き先か……fromだから――

「あ、あー、アイ……ゴー、じゃない、カム、フロム、ジャパン」

 実地の英会話――授業で目立たないできない私が、指されるはずもない。囲った時に助け舟を出す日本人の先生もいないのに。

「Ah! You come from Japan!」

 外見で分かっているだろう。コミュニケーションを取ろうとしてくれているのか。基本的な英文に根気良く付き合ってくれるALTの先生みたいだ。

「Where are you going?」

 単語しか分からないが、文脈からして――今度は目的地か。

「えっ……と、どこ……って、言われても……」

 せっかく意味を掴んだのに、答となる行き先は全く決まっていない。緊迫した真紀と老夫婦の視線を、頬にチリチリ感じる。

「ア、アイ、ドン、ノウ……」

「Really? Please show me your 

guidebook」

 ガイドブックか! 大急ぎで真紀から取り上げて、名も知らない白人の乗客に渡す。

「How about this one?」

 ラスベガスのページを開き、メインストリートに沿って並ぶ、ホテルの写真を指差している。薦めてくれているのか。

「ベ……ベネチアン?」

 助かった。ガイドなら日本語も英語も、両方載っている。百聞は一見にしかず、だ。

「Yes,it is very nice!」

 ろくに読まなかった本が、こんなに役立つなんて。英語の海の真ん中で、流れてきた浮き輪にしがみつく。

「えーと、じゃ、こっちは……は、ハウ?」

 適当なホテルを指差すと、土地の人なのか通なリピーターなのか、即座に返してくる。オススメかイマイチか、オーバーなまでにはっきりした表情から読み取る。

 いくつめかのバス停が近づいて、減速していくスピードに合わせ、彼は大きな身振りでゆっくりと、ドアの方向へ促す仕草をしている。

 モダンな建物と、宮殿風の建物の間に、橋が架かっている。建物も橋も、細かい部分にまで彫刻が施こされているのが目に付いた。

「真紀、降りるで! あっ、み、ミスター、サンキュー!」

「You are welcome」

「ちょっ、お姉ちゃん、本当にえいが?」

「えいから、早う!」

「Bye! Have a nice trip!」

「はぁー、びっくりしたぁ!」

 バスを降りたとたん、思わず大声が飛び出た。膝が折れ、焼けたコンクリートに下半身が崩れ落ちる。

 へたり込んだまま、シンボルであろう、高い鐘楼を見上げる。

「PHANTOM」の大きな文字で、Oの文字は怪人の仮面の絵だ。

 アスファルトの上にいたら、すぐに日干しだ。勢い立ち上がって、目の前の、天に向かって高くそびえるホテルへ猛突進する。

「ちょっ……待ってや、お姉ちゃん」

 遅刻寸前で教室へ滑り込むより速く、ホテルのポーチを抜けた。

 天井が格段に高い。正面玄関からずっと、理科で見せてもらった大理石がふんだんに使われている。

 このホテルもきっとカジノがあるのだろう。けれど、そんな賑やかなスペースがあるとは思えない重厚さだ。作り物とは思えないくらい、綺麗で豪華な内装だ。

「……っ、ハア……ハ……ふっ…‥」

 クーラーの冷気が、首や脇や背の汗に染み入ってくる。バスを降りられた、ホテルだ、涼しい――!

「真紀、金髪の人に話しかけられたで!」

 フロアに踏み入れるなり、また大声を上げていた。周りが振り返るのもお構いなしに。

「うん、こっちの人って、フレンドリーながやね。見ず知らずの日本人に声かけるし。逆はありえんにねぇ」

「文法分からんかったけど! 私の言葉、通じちょったよね!」

 先生が言っていた、片言とかブロークンとかいうやつだ。とにもかくにも会話は成り立っていた。

 英文というものは、テキストのダイアログを分担して交互に読まされるもの、予め決まったセンテンスを教科書に向かって棒読みすると、思っていた。

 筋書きのない、ネイティブとの実地の英会話――入試本番、合格発表、寮で初めて過ごした夜ぐらい、足が震えていた。

「お姉ちゃん、けっこう話せるやん、英語」

 ぼそりと真紀は呟く。

 幼い頃、街を歩いていると、英語で道を尋ねて来た外国人がいた。少しの英語と、普段は見せない大きな身振りで、お父さんは必死に応えていた。私は二人から少し離れて、何度も聞き返す男をじっと見据えていた。

 英語、いや、どの科目だって――身を縮めて下を向いて口を閉ざし、次の人を指名し直してくれるのをじっと待つ、長い長い数秒の沈黙――答えられない私も、指した先生も、待たされている皆も、クラス全体が間の悪いぎこちなさに、うんざりしている。

「こんな程度も……」と言わんばかりに、押し殺そうとして漏れた息で、先生は言葉もなく劣等性をなじる。頭でっかちは大抵せっかちで、イライラの目線が何本も突き刺さる。

 そのうち、相手もさるもの、先生は全員の力量を正確に見抜いて、キャッチボールの成立する子に問いを投げる。私に回ってくるのは、数日に一度あるかないか、誰だって答えられるレベルになっていた。職員室に入った時、耳の端で捉えた、「ボトム・ライン」なのだ。難しすぎるより、簡単すぎるほうが、むず痒くてしょうがない。

 答えることが目的じゃない。いつだって教室の隅で、むっつり押し黙っている私だって、皆と授業に参加している――ことになる、そう知らしめるための茶番だ。

 でも、今は違う。苦手な英語に、感謝を覚えるなんて! 鬱陶しくてならなかった単語・文法テスト、憂鬱な中間・期末テストにも。

シナリオを持たず、相手の発する予測のつかない音を掴み、答えとなる語を頭中ひっくり返して必死に探す。容量のあり余っている頭に、わずかに使える単語が入っていた。対話を通して情報を貰い、ストリップの果てまで行き抜けてしまわずに、今こうして有名ホテルにいられる。

 一学期の学習は、この瞬間のためにあった――

「真紀、あの店に入ろうや。人が多うて落ち着かんし」

 正面入口近くの、子連れの日本人ファミリーがいるカフェを指す。開放的な明るいスペースで、料理のディスプレイや食器、デザートのデコレーションも凝っていて、高級感が漂っている。

「子供同士で? えいがやろか」

「えいやろ、私、中学生やき。こんな所に、先生らおらん」

 自分を中学生だとはっきり自覚したのは、初めてかもしれない。

「それに私、マクドにミスド、イートインのコンビニもベーカリーも、カフェは入り慣れちゅうし」

「へぇ、安芸市にはないもんね」

「通学路の途中にあるし、結構よう行くで」

「やっぱり、住むがやったら高知のほうがえいね」

 真紀は、お洒落なカフェ、というより、可愛い服が溢れる店、遊べるスポットを想像しているみたいだ。

 カフェ通いを自慢してみたものの、実際の動機は、かなり懸け離れている。

 本やら服やら食器やら散らかって、五畳一間の寮の部屋は、まるで落ち着かない。学校で誰とも話してないのに気疲れしていて、備え付けのベッドやテレビ、レンタルの漫画やCDの誘惑に勝てることは滅多にない。

 何より煩わしいのは、壁の向こうから聞こえてくる女子の笑い声だ。毎日が修学旅行みたいな絶え間ないお喋りに、耐えられなくなって寮を飛び出す。

 部活帰りの中高生で混む夕方を避けて、マクドでソフトドリンクを一つ、ミスドでドーナツを一個、お金があればスタバにも行く。

 ご飯時に行って、本を読んだり、日記や物語を書いたり、たまには課題もやった。テレビや漫画など頭を使わない受身の遊びに逃げないで、本当にやりたい作業をやれる気がした。

 勉強している大学生、読書中のOL、ノートパソコンのキーを打つサラリーマン。互いに会話があるわけじゃない。でも、誰かが近くにいる。一人で座る私を包む、周りのお客の気配が、やけに心地良かった。

 オープンな厨房では、料理人がショーケースからケーキを取り出してカットしている。美味しそうに盛り付けたデザート皿と、飲み物の入ったグラスをプレートに載せ、店員が客に手渡している。

「ウエイトレス来んで、お姉ちゃん」

「セルフっていうがやろ。適当に何か頼んでくるで」

 カウンターに並んで、テキストのユニット5『ハンバーガー・ショップで注文』の対話シーンを思い浮かべる。単語の並びや文法を、頭の中で何度もリピートする。

「May I help you?」

 来た! テキストの店員の台詞、そのまま!

「……ト、トゥー・アイスティー・プリーズ!」

 乾いた唇をすり抜ける、くぐもった昔。

「Lemon or milk?」

 けげんな表情で、茶髪の若い女の人は、ゆっくり問いかけてきた。大きなシルバーピアス、白い半袖フリルシャツ、短めのチェック柄スカートで、テキストの適当な店員イラストとは、大きく違う。

「えっと……ミルク、ミルク・プリーズ」

 真っ赤なマニキュアの指先が、長いグラスを二つ取り、氷を入れている――通じた!

 席にトレーを置くなり、勢いよくストローで吸い上げ、一気に半分以上じゅるじゅる飲み干す。

「……ね、真紀、ここってどこやろ?」

 暑さが和らいでくると、冷静さが戻って来る。

「ここはどこ、って、店員に英語で聞いてみてや」

「それ、記憶喪失やろ。いくつめのバス停で降りたっけ?」

「なんか目印――あ、向かいの建物の看板、お姉ちゃん読んで」

「えっと、トレジャー……アイ……アイランド?」

「ガイドの地図では……あった……ここ! て、ことは――」

「「ベネチアン!」」

 声がハモって、二人とも笑い出す。

「そっか、あんたと二人で、こんな所まで来ちゅうがや!」

 たかだか数キロだけど、遠く遠く遥か彼方、見も知らぬ地に流れ着いたみたいだ。ハック・フィンは、よく手作りの筏でミシシッピ川を何キロも下ってくけたものだ。

「真紀、荷物、何がある?」

 言われるままに持たされて、ろくに使いもしていなかったナップサックをテーブルに置き、勢いよくファスナーを開いた。

「ハンカチ、ポケット・ティッシュ、ペットボトル、ガイド、それに、携帯電話があるで」

 いざという時は、連絡の手段があるのか。

「ペットボトル、文庫本、小銭入れ。お姉ちゃん、お金、分かる?」

「ガイド貸して。えーと、これが十ドルやき、一、二、三……だいたい三十五ドルくらい」

「それって、いくらなが?」

「お父さんがエンダカとか言よったけど、三千円くらいやない?」

 レジで商品を手渡してから、財布を見たらお金が足りない事実に今更気づいたみたいに、真紀にしては珍しく弱気な口調だ。

「な、お姉ちゃん……こうしゆう間にもな……」

 真紀はさっきから、ひっきりなしにガリガリ氷を噛んでいる。

「何かが突然、襲いかかってきたりせんよね……ほら、マリオとかみたいに」

 未知の世界を、小学生なりに理解しようとしているのだろうか。

 『スーパーマリオブラザーズ』は、初めて買ってもらったゲームだ。マリオはちびで太ったおじさんだけど、世界一有名な配管工だ。

 クリボーにノコノコ、うじゃうじゃいる敵を、よけて踏んでやっつけて、コインやキノコを取ってゴールを目指す。

 一人がコントローラーを操作し、画面に張り付いているもう一人が、前方の敵を察知して指示を出す。失敗したらプレイヤー交替だ。

「そう言われたら、今の状況――マリオとルイージが、同時に画面に出ちゅうみたいや」

「プレイヤーがキャラになったみたいやん。お姉ちゃんがマリオで、私がルイージで」

「ここはラスベガスってステージか。裏技とか、高望みはせんわ。ゲームオーバーにならんかったら、それでえいし」

「あ、でも、マリオより、『ファイナルファンタジー』っぽいかも」

 中古ゲーム屋で見つけて、皆が持っているからと、軽い気持ちで買った。アクションしか知らないのに、説明書なしで、ロールプレイングを理解するのは、恐ろしく時間と手間が掛かった。

 戦闘、回復、イベント、セーブ、何もかも手探りで、何度データを飛ばしたかしれない。

「確かにゲームで言うたら、アクションよりロールプレイングやな。地図調べて、目的地探して。真紀と一緒にやったが、いつやった?」

「一昨年。去年、お姉ちゃん受験やったろう」

「ゲーム、買ってもろうたばっかりの時か」

 クラスの皆がゲーム機を持っているのに、厳しいお母さんのせいで、一番欲しかった時に全く触れられなかった。

 ようやく五年生の誕生日に買ってもらえて、二人ともすぐに夢中になった。一日一時間と決められていたけど、両親の留守を狙っては、テレビに囓りついた。

 休みの日には、起きると、さっそく取りかかり、お母さんに怒られて、ようやく朝食を取る。両親が出かけると、すぐにテレビ前に集合、少しでもストーリーを進めようておこうとした。

 数ヵ月後、親のいない休日、長時間覚悟で最終決戦を迎えた。

 ラストステージには、ぎりぎりレベル六〇、ラスボスに挑む一進一退の攻防が続いた。崩れ落ちる闇、鳴動する世界、新たな光が差し――二人して興奮気味に歓声を上げ、抱き合って喜んだ。

 流れるエンドロールを前に、ジュースやら菓子やら冷凍食品やら、自分たちを囲んでフロアにたくさん並べた。好きなだけ飲み食いしながら、遡るダンジョンを懐かしみ、その時々の苦労を語り合った。

「……そんなこともあったか」

 あの頃が、ひどく遠く感じる。受験生になり、中学校に行って、真紀と一緒に何かすることはなくなった。

 今、一人でやっているDS版最新ソフトは、グラフィックも綺麗でストーリーも複雑に練ってある。でも、あの頃の高ぶる気落ち、冒険心とも言える、ワクワク感が無い気がする。

 一人黙ってボタンを押し続け、決められたプログラムをなぞっている。今日の復習も明日の予習も放ったらして、今日も明日も忘れて、中毒のように何時間も小さな液晶の世界に閉じこもっている。

「マリオはゴールの旗を取る、FFはダンジョンのボスを倒す――お姉ちゃんと私はどうするが?」

「とりあえず、ガイドはマップ、建物はダンジョンや」

「じゃ、ここは旅の初め、スタートの村やね」

「お昼どうする? 私、結構お腹空いちゅうけど、真紀は?」

「さっそく補給ポイントやね。村のINNを探そう」

 氷が溶けて薄まったミルクティーを、最後まで飲み干す。HPをポーションで回復した。

 DSのCGグラフィックより豪華なフレスコ画が埋め尽くす、丸天井の広いロビーに、マリオとルイージが揃って駆け出して行った。

「すごい豪華。大人っぽい。うちのホテルとは大違い。広すぎやし!」

 小学一年生で、初めて大丸のデパートに入った時、こんなに広い建物はないと思ったが、それどころではない。フレスコ画や天球儀はレプリカだろうけど、エントランスやフロアを埋め尽くすほど飾っている。本物を知らないけど、この豪勢な美しさは本物だ。

「ここ、カップルとか大人向きやね」

「ふーん。あ、お姉ちゃん、見て!」

 一瞬、外へ出てしまったのかと思った。

「なに、これ……!」

 青い空浮かぶ白い雲、社会科の資料集で見た運河と橋、小道の両側には可愛らしい店が連なっている。

「何で、いきなりこんな……お姉ちゃん、いつの間に、どうやって?」

 ヨーロッパの街並みの中、水流に浮かぶ黒く細い長船に、人が乗って漕いでいる。

「真紀、天井と壁! 絵やで、空も街も」

「なーんだ。でも、すごい凝っちゅう」

「ガイド見せて。へぇ……『イタリアの街を再現――水の都ベニス』建物の中に街造ったがや。あのゴンドラ、買い物もできるって」

「わ、花嫁さん乗っちゅう! 結婚式やん。お姉ちゃん、あれ乗ろ! ね、行ってみようや!」

「無理。いくらかかるか分からん。言葉やって上手く言えんし。結婚式で使うき高いちゃ、絶対」

「ケチ! じゃ、何か食べようや」

 花より団子で、子供には場違いな運河を通り抜ける。捜すこと十五分、デパートのフードコートみたいに、飲食店の集まっているコーナーがある。ここなら気後れせずに入れて、お金も足りるだろう。

「あぁ、お腹空いた。もう三時やん。真紀のお腹やろ、さっきから変な音で鳴りゆうが」

「だって、給食が六時間目まで延ばされちゅうもん」

 中華テイクアウトの店に近づいて、ショーケースを覗き込む。カラフルな野菜が餡やソースに絡まって油っぽく光っている。油の照りに、腹の虫がうずいている。

「ディス・ワン・プリーズ!」

 その一言でいくつも指差して、頼みまくる。茶色い肌の店員は、プレートに盛ったライスの横におかずをよそってくれた。

 少し長めのパサパサしたご飯、砕いたビーフの入った色とりどりの野菜、骨付きフライドチキン、カットフルーツ――二人ともテーブルに着くなり、酢豚とも野菜炒めともつかない炒め物を、ライスと一緒にバババッとかき込む。

「お姉ちゃん、いくらやった?」

「二人で七ドル。八百円くらいやろうし、安い。お札もまだあるし」

 お腹がくちくなると、いよいよ元気が回復してきた。

「次のダンジョンを捜そうか」

「ラスベガスって、カジノの街やろ。お姉ちゃん、やろうや」

「子供はいかんやろ、ゲームコーナーくらいやないと」

 カジノへの入場は、さすがに一線を越えてしまう気がする。

「えぇー、ブラックジャックとかルーレットとか、簡単やんか!」

「じゃ、やってみる?」

 背後から唐突に高い声がした。

   ◆

 突然降ってきた日本語は、大人びた女の人の声――

プラスチックの椅子の上で体を固くして、おそるおそる振り返る。

「あ、ごめーん、驚かせた?」

 バスの白人男性と同じ、フレンドリーな調子だ。二回目だし、日本語だが、それでも前触れのない唐突さに目を見開く。

 若い女の人が三人、背後の席からこっちに身を乗り出している。居並ぶ外国人に負けない派手なファッション、外国のど真ん中の日本人とは思えない堂々とした佇まいだ。

「カジノ行ってみたいの? 中学生くらいだよね」

 興味深げな口調で、しげしげとこっちを見つめている。大学生だろうか、OLだろうか。先生よりもずっと若く、先輩よりもずっと大人で――小中学生には一番縁のない世代だ。

「あっ、はい、あの……」

 こんな歳上の人は、従姉妹たちにもいない。もちろん言葉を交わしたこともあるはずない。

「そんな怖がらなくていいよ、危ない人じゃないからね」

 こっち側に座っている最初の声の人が、首を斜めに傾げて、顔を覗き込んでくる。オレンジに近い明るい色の無造作なショートカットは、ムースか何かで濡れている。

「姉妹? お父さんとお母さんは?」

 脚を組んで座っている背の高い人は、長い髪のカールを揺らし、何重もネックレスジャラジャラさせている。濃く赤い唇が目に付く。同じ日本人なのに、違う人種に対しているみたいな戸惑いを覚える。

「えっと、別のホテル……『サーカス・サーカス』で……」

「うそぉー、君たちだけで来ちゃったんだー。偉いっていうかぁ、かなり無茶ー!」

 語尾を伸ばした甲高い声。他の人よりかなり小さな体格、肩に掛かる、ゆるゆるウエーブ。二人に比べると、可愛らしい感じがする。

「あたしらだって今日、来たばっかりで、まだ緊張してるのにー」

「あ、あたしたち、大学生ね。東京からだけど。就活、あ、就職活動ね、仕事が決まった者同士、羽を伸ばしに来たんだ」

「君たちは、どこから来たの」

転校生を和ませようとする先生のように、オレンジはやたらとテンションが高い。子供好きそうなオレンジにつられて、他の二人も物珍しそうに話しかけてくる。高校の文化祭を見学に行って、年上の人に囲まれた時と同じ、もぞもぞ落ち着かない感じだ。

「……高知、です」

「へぇー、遠くから来たねぇ。海外は初めて?」

 真紀も目が泳いで、口はぱくぱくと息を次いでいる。

「はい、リラックス。自己紹介しよっか。あたし、恵っていうの」

「……小原友紀です。こっちは真紀」

「お姉さんが友紀ちゃん、妹さんが真紀ちゃんね」

保育園の先生が幼児に向かうように、オレンジが恵、濃いメイクは留美、私より頭一つ小さいのは加奈子と、勝手に名乗ってきた。顔一杯戸惑いの表情を浮かべているのに、先方は遠慮の気配がない。

「さっきの話だけど――カジノ、連れてってあげようか」

 集団トイレに誘う女子と同じ口調だ。冗談に見せた本気なのか、子供をからかって反応を楽しんでいるのだろうか。

「大丈夫よ。友紀ちゃん立ってみて」

 立ち上がると、小さい人と背中合わせに並ばされた。

「加奈子、やっぱり負けてるよ」

「友紀ちゃん、背が高いね。歳いくつ? 身長は?」

「中一、一二歳、一六〇センチです」

「うっそー、あたしよりずっと高いよ、この子!」

 小さい人は赤い頼をふくらまして、本当に子供みたいだ。

「友紀ちゃん体格が大っきいから、ちょっとお化粧すれば大丈夫だって。真紀ちゃんは顔が大人っぽいけど、背がもう少しあったらね」

「ね、メイクしたげよー。可愛くなるって、絶対」

「え……いえ、あの……」

「待って、ここじゃ、まずいって。外国じゃ、人前で化粧するのって……ま、ともかく、うちらの部屋に移動しよ」

 見も知らない人に、密室に連れ込まれる――作り話を観ているみたいで、現実の流れに頭が追いつかない。麻痺したみたいに、正常な判断ができない。意識の一部で警鐘が遠鳴りしていたが、足は別の生き物みたいに動き出していた。

 断る余地もなく手を引かれ、エレベーターで階上の部屋に行く。

 もし悪い人たちだったら……女の人だから変なことはないだろうけど、部屋に閉じ込められて、荷物を盗られたり、親に電話させられてお金を要求されたりしたら……なぜ、知らない人に、のこのこ付いてきてしまったのか。

「……あ、あのっ、トイレ借りていいですか」

 返事も聞かずに、入口近くのトイレに二人して駆け込む。

「ど、どうするが、お姉ちゃん……」

「カジノとか入ったら……やっぱりまずいやろう」

 小学生の頃、クラスの男子が中学生と一緒に休日の学校に入り込んで、えらく怒られていた。彼らは「中学生に言われて、断れなかった」と、しょげていた。子供が学校に入るなんて、何の問題もない。これから私たちが連れ込まれる場所に比べたら、ずっとよっぽどまともだ。

「親にバレたら、やばいで……いや、学校に知られたら……!」

 これは一体、どれだけ厄介なのか。男子や先輩がやった悪事といえば、殴り合い、万引き、買い食い、盗難、原付バイク、不法侵入……だめだ、どれも大して悪くない!

「ねー、準備できたよ、早くおいでー」

 おそるおそる、トイレから出る。お姉さんたちは、トランクの中身をひっくり返していた。ベッドの上は服にアクセサリーにメイク道具でいっぱいだ。

「中学生って素っぴんなのか。今時、小学だって色気づいてるわよ」

 恵さんは、前学年で身に着けておくべき項目を取りこぼしている子供に対する先生みたいに、少し呆れた表情で苦笑いしている。

「いいじゃーん、素朴で可愛くてぇ。やり甲斐あるわぁー。真紀ちゃんは今時な感じね」

 人形遊びのように、顔にごてごてメイクされる。クラスの女子がこっそり持って来る、玩具っぽいのとは違う。

 ハンドバッグやポーチにCとかGとかFの大きな文字が背中合わせになっていて、よく見ると化粧品にもついている。可愛いコンパクト、変な形のブラシ、スティック、チューブ、お母さんも持っていない化粧品が出るわ出るわ。

「どうせこっちの人、東洋人の歳って分かんないもん。若く見える大学生ってことにしとけばいいって」

「あたしが引っかかって、この子らがOKなら、マジ傷つくわぁー」

 頬を膨らませた加奈子さんより、十歳も下の私のほうが大人みたいになれるのか。

「あの……カジノって、やっぱり未成年は、だめなんですよね」

「うん、二十一歳から」

 あっさり言われて、恐いくらいの痛快さに、一瞬眩暈がした。

「それ……かなり無理があるんじゃ……」

「平気平気、ね、加奈子」

「何、それ、嫌味ぃ?」

「加奈子さ、レストランでウェイターに『十二歳以下は半額』って言われたんだよ」

 実年齢を聞いた店員のリアクションが浮かぶ。

「二人とも体格いい方だし、大丈夫だって。私らパスポート見せるし。部屋に忘れたとか、適当にとぼけといて。外国の人たちって、ルーズだし、いちいちチェックしないって」

「あ、だめよ、瞬きしちゃ。顔を歪めないで、ムラになるわ」

 留美さんの香水が鼻をつき、豊かな胸が目の前にある。ニキビだらけの赤ら顔を、間近で覗き込まれ、いろんな部分を撫で回される。

 どの科目だったか、授業中の先生の雑談で「パーソナル距離」という話を聞いた。見ず知らず、知人、友達、家族、恋人と、近寄られて違和感のない距離だ。お姉さんたちは初対面なのに、最寄りの距離にぐいぐい侵入して来る。

 やっと終わったと思ったら、息つく間もなく髪のセットに入る。三つ編みを解かれて、ヘアスプレーをこれでもかと吹きかけられ、髪はぐちゃぐちゃでもの凄くなっている。部屋の模様替えをしようとして、収集がつかなくなって、家具や本や服が散乱した床に座り込んで、動けなくなったみたいな脱力感がよぎる。

「強情な髪ねぇ。量も多いし」

「長さあるから上げちゃえば。あ、先にそっち側も留めて」

 毛束を少しずつねじり上げ、頭のてっぺんにピンで留めている。地肌ごと引っこ抜けるんじゃないかと思うくらい、きつく引っ張り上げられて、はっきり言ってかなり痛い。

「服はこれね。体格が似てるから、余裕で入るでしょ」

 真紀は、花柄のワンピースに着替えさせられて、青い石のネックレスや金の鎖のブレスレットを絡みつけられている。テレビでスタイリストがモデルにやるように、三人はいろんな角度からしげしげと、出来上がった私と真紀を眺めている。どうなっているのだろう、今の自分の姿は……銀の鎖に緑の石のネックレス、黒真珠の腕輪、派手なチュニックの裾は見えるが、それを着けた自分はどうなのか。少女漫画みたく一瞬ではないにしろ、時間をかけた分、自分が自分でないくらい変わっている予感がする。

「超イケてる! 高校生以下には見えないよ」

 鏡の前に立たされ、自分と向き合う――これが、これが私なのか!絵本のシンデレラや醜いアヒルの子は、鏡や水面に映った自分に、目を疑いながらも踊り出しそうになるのを堪えていたに違いない。

「どう、友紀ちゃん? 元は可愛い顔してるんだから、このくらいお手のものよ」

 前後の落差を楽しむ『劇的ビフォー・アフター』みたいだ。髪は高くアップに結われ、クセ毛がパーマのようにくるくる舞っている。

 顔はニキビが隠れて、浅黒い色が透明感のある白で、頬紅も入っている。睫が濃く長く、瞼がうっすら緑色に染まっている。唇はピンクで、ツヤツヤ光っている。

胸の開いたひらひらのチュニックで腰のくびれが強調され、ヒールのあるサンダルで背が五センチ以上高くなっている。

 真紀のチャラチャラした格好や趣味をバカにしていたけれど――着飾って綺麗になると、こんなにも嬉しく、楽しく、心踊るなんて!

「ありがとうございます! さあ、早く行きましょう!」

 フロアの大半を占めるカジノフロアは、学校の体育館より余裕で広い。バーゲンや歳末セール以上の人出、人種や年代は違えど、お洒落なゲストがうようよいる。プレイヤーも見物人も区別がつかないくらい、盛り上がって騒いでいる。

 一見するとゲームセンターだが、男子が帰りに買い食いがてら立ち寄る近所のとは、明らかに規模とレベルが違う。パチンコ台やATN機を改造したみたいな機械、こんなに台数が必要なのかと呆れるくらい、ずらーっと何列にも並んでいる。そこに群がっているのは、小中学生じゃなくて、外国のおじさんおばさんばかりだから、祭日の宴会を派手にしたような不思議な光景だ。

「ドリンク無料だから取っときなよ。ほら、バニーちゃんの格好してるカクテルガール」

 薄い衣装で体の線がくっきり見える白人の美女が、飲み物を載せたトレーを持って、フロア中を練り歩いている。

「あ、二人は、お酒飲むのは、まずいか」

 お国柄、そうでもない。お正月に親戚で集まれば、郷土名物の皿鉢料理と一緒に、日本酒や焼酎を嘗めさせてもらえる。真紀は小一で、ジュースと聞達えて梅酒を飲み、ちっとも気づいていなかった。

「大丈夫だと思います」

 飲み物を受け取ると、留美さんがチップを払ってくれた。

「へぇ、やるじゃーん。酒豪の土佐っ子って感じ!」

 恵さんと留美さんはブラックジャックの台に座った。

 ガイドブックのカジノのページを開くと、確かに写真の通り、「ベッティングスポット」に、賭け金の「チップ」が積まれている。二人は最低限の賭け金「ミニマム・べット」を払っている。

 ゲームを仕切る「ディーラー」は、黒い肌に縮れた髪で、うちのお母さんくらいのおばさんだ。「シュー」からカードを引き抜いて、プレイヤーに向かって、手裏剣さながら投げるみたいに鮮やかな手つきで配っていく。

 裏向けにされた二枚のカード、恵さんは十五、留美さん十七だ。マニキュアの濃い三人の手が、奇妙に動く。カードを貰う。「ヒット」と、やめる「ステイ」の動きだ。

「うそぉ、何で六じゃないのよ!」

 七を引き当てて二十二になった恵さんは「バースト」だ。ディーラーに没収され、「ドロップボックス」に収まる。

 十九の留美さんは、ディーラーとの勝負になる。ディーラーの「アップカード」は九、裏向きの「ホールカード」をめくると、ジャックが現れる。留美さんのも没収だ。

 不思議に、このディーラーは全く負けない。見張るように見つめ続けていても、何度ゲームを練り返してもだ。

 ヒットして、二十になった恵さんは、今度こそ勝ちを信じて疑っていない。だが、ディーラーが一枚ヒットすると、なんと二十一でブラックジャックだ。

「ちょっと、恵、あんなのって、あり? 何で一回も勝てないのよ!」

「どんだけ高得点でも、いつもギリギリ上を狙われてない?」

「加奈子、あのおばさん、全部のカードの位置が分かるイカサマしてなかった?」

「分かんないしぃー、もっと簡単なのにしよ。ルーレット! 友紀ちゃんたちもおいで」

 巨大なルーレット盤がぐるぐる回って、小さな玉が落とされて、交互に並ぶ赤と黒の枠を跳ねて転がって、ふらふら弄ばれている。

 カジノと聞いて真っ先に思い浮かぶ図だ。ガイドにも、「古代ギリシャ時代から愛されてきた伝統的なゲーム」とある。こっちのディーラーのテンポも、すごく速い。

「ほら、切ってあげる」

 恵さんからカジノチップを五枚ずつ渡されて、私と真紀は盤へと促される。各国からの多くの客に取り囲まれたディーラーが、盤を勢いよく回し、内側の溝に沿って逆方向に投げ入れる。

 回っている間は、皆は好きところに好きなだけ賭け、チップを追加したり移動させたりしている。テーブルの客全員が場慣れしているみたいで、ベテランに囲まれている気後れで、手の動きがもたついてしまい、焦って黒二倍のところに二枚投げ捨てるように置いた。

「No more bet!」

 とたんに皆が離れ、なおも回転する盤で、いろんな溝に出入りしながら転がる玉を、真剣に見つめている。

 玉は最後の一つの溝に入る。止まったスポットに、ディーラーがマークを置く。赤だ。脇にある電光掲示板に、パっと数字が映る。

「ありゃー、残念。友紀ちゃん初心者なんだし、赤白賭けか、偶数奇数賭けにしなよ」

「加奈子の言う通り、単純にやってみなよ。掲示板の数列で次の目を読むなんて、できっこないんだし。高配当より、安全性よね」

 三人は別のゲーム台に行って、また派手に騒ぎ始めた。

「な、真紀、言われた通りにしても、鏡みたいに全部、逆になるで」

「うん、予想の目と逆にしたら、その逆の結果になるね」

 負けているのに、悔しさも苛立ちも感じない。むしろ、運動会やお祭りの真っ最中みたいな、妙な高揚感と一体感――ゲームセンター感覚で気軽に遊んでいる、にわかギャンブラーなのに。手元に何も残らないのに。きっとゲームは、夢を売っているのだ。

「今って、小中学生が変装してカジノに潜り込んでバクチ、よね?」

「まずい状況やん! お姉ちゃんも私も、絶対普通やないし!」

 トイレで青ざめていた時と違って、二人ともげらげら笑っている。

「中学校の不良とか、全然大したことないよね、私らに比べたら」

「小学校も! 悪さを競うて自慢するけど、ちゃっちくて笑える」

 輪盤の上を踊る玉、宙を舞って床を転がるダイス、カードやコインの裏表で決まる人生――お酒なんかより、よっぽど私たちを酔わせていた。 

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