第4話 天使の街にて影を踏む

 寝不足の頭と未消化の胃が、他人の物のように重い。凶暴な朝日に、乾いて痒い眼球は、瞼を固く閉じて拒む。首と、肩と、腰と、背中がだるい。重い体をよじって、枕元のデジタル時計に鼻を突き合わせると、数字の横にPMのアルファベットが光っている。

 皺だらけになったシャツを脱ぎ、数日分の衣類と纏めて洗濯機に放り込む。床に散らかったスナックの袋とアルミ缶を摘み上げて給う。インスタントパックのゴミを纏め、京都市指定袋に詰め込んで縛る。すっぴんジャージ姿で、マンション下のダストシュートに二袋ほど放り込む。

 ついでにそのまま、徒歩五分のスーパーへ買い出しに向かう。時間を掛けて値札を睨み、お買い得札付きを慎重にカゴに入れていく。二、三十円に敏感なくせに、昨夜はとんだ出費をしてしまった。

 ここ数年、我が家の巣ごもり消費は拡大している。家に帰って確かめると、案の定、今週も買い過ぎだ。覚えのないアマゾンの発注、勢いで入札したオークションの落札を、クレジットカードで決済する。一晩点けっ放したパソコンを、ようやくシャットダウンする。

 浪費の反動で、作り置き用のカレーを煮込み、節約に励む。大量に炊き出したご飯を、一食ずつラップに包んで冷凍庫に入れる。

 洗濯機が回っている間、菓子くずの散るフローリングに掃除機を掛ける。抜け毛の張りついたバスダブと洗面所を、二日ぶりに磨く。

 夜になってから、持ち帰りの仕事にやっと手を着ける。迫り来るブルーマンデーを前に、本と書類を持って、暗い部屋を飛び出る。夕食時のピークをやり過ごしてファミレスに入り、ドリンク・バーを頼む。数時間居座って、残りわずかな休日を有益に消化する。帰宅してどっぶり風呂に浸かり、早めにべッドに入る、はずだが……

 今週末は何かが違う。

<Good morning!>

 ああ、そうだ……今、ここは、空の上……

<まぁた、待ちぼうけ?>

(システム全部ダウンって……ああ、もうっ」

 職員の様子と周囲の会話から単語を拾うまでもない。不動の人波が、眼前に延々と横たわる。

(せっかく、地球を半周もしたのに)

<絡むんは、酒の入った夜だけにしてや>

(なぁ、中学の時って、一日目はどんな感じやったっけ?)

<あぁ、ハリウッドで男子が嫌や言うて、ホテルでは学校の愚痴や>

(あんた、全部分かっとるくせに、知らん振りかましとったんやな)

<けっこう大変やで。初めて聴くみたいなリアクション続けんの>

(せいぜい、ボロ出さんようにな)

<後であんたの話も聴いたげようか?>

(初めて聴くみたいなリアクションで?)

<ボロ出さん自信は、あるで>

 パスポートの検査、名前や目的の質問、指紋のスキャン、顔写真撮影――急に列が進んで、番が回ってきて、バタバタ慌しく手続きする番が回ってきた。

「Welcome everyone! ようこそ、ロスへ」

 声の主は、バスガイドの制服とはかけ離れた、釣りや競馬やパチンコにでも出掛けそうな、シャツにジーンズ姿のおじさんだ。

「さ、バスに乗って。他の人が揃うまで、ちょっと待ってて」

 在住ン十年といった中年男性の醸す手馴れた様子に、密かに息をついた。太平洋を越えた異国の地で、唯一人の味方になってくれる日本人だ。

<今からオプション? どういう行程やった?>

 日程表のロス車内バスツアーのページを開き、目から脳へ、招かれざる居候に情報を送ってやる。

<どれどれ……ヒルズ、ハリウッド、リトル東京……うわ、こんなに無理しとったっけ?>

「こんにちはっ!」

 突然、肩越しに明るい声。反射的に振り返る。

「……あ、こんにちは」

 体一つくらいの間合いに、その人は立っていた。

 二十代半ばくらいだろうか。丈の短いロゴ入りのTシャツ、グレーのジーンズ、アディダスのスニーカー、黒髪ボブのシンプルな女の子だ。大きすぎる手荷物を抱え、笑みを浮かべて立っている。コンベヤーの上を流れている、これまた巨大なトランクを、堅太りの腕で、ひしと抱え上げている。

「どちらからですか」

「京都から……そちらは?」

「うちは大阪。近いじゃないですか!」

<関空発の便に関西人、当たり前やろ>

 しまった、トランクが目の前を流れていった。荷物が一周している間、立ち話は進んだ。大阪でOLをしている竹内夏子さんは、女一人旅なのに、初の海外という。

 家族連れやカップルで満員のバスに、女二人乗り込んで座る。

「では、皆様。これより、ウエストサイドへと入って参ります」

 モルタルの家々を脇に、バスはフリーウェイを颯爽と走っていく。

「あの『ウエストサイド・ストーリー』かな?」

「そうや。小原さん、ドラマ観たことない? うちは、この辺りが旅のメインなんや」

 ビバリーヒルズの街のサインとともに、高級住宅地らしい並木道に入る。庭園とプールを見下ろす豪邸が、揃って現れる。

「あ、ここ!『ビバリーヒルズ青春白書』にあった! 知っとったら、面白いで。テレビと同じや!」

「そりゃそうやろ。竹内さん、結構ミーハーやな」

「結構やなくて、かなり。わっ、あっちも! いやぁ、すごいわぁ!」

「そんなに? ドラマ、観とけばよかったな」

 中心の「ロデオドライブ」を、本当にただドライブする。すれ違う車の数台に一台は高級車という、恐ろしい場所だ。

「ご覧のように、多様な車種も、この通りの特徴ですね。皆さん、お隣の車は何かご存じですか」

 顔を突き合わせ、まさか、と、目で交わし合う。

「隣はポルシェ、手前はジャガー、後ろはBMW、対向車はロールスロイスですね」

 映画やドラマでしか見たことない代物ばかりだ。

「実物初めて見るわ。私、ペーパードライバーやもん」

「うちの数年分の年収の鉄が、ビュンビュン走っとるわ!」

 がっちり脇を固めるように、有名ブランド店がひしめいている。

「シャネル、グッチ、エルメス、フェンディ……はぁー、ほんまにヒルズやな!」

「私、オークションでタイミングみて、半値以下で一つか二つしか買ったことないで」

 連なる高級店を眺めるだけ、踏み入れることさえ、ままならない。店員はもちろんガードマンまで、その店のブランド品でコーディネートしていることも、ガイドに言われるまで分からなかった。

「うちな、大学の時、ブランド狂いの派手女に、『どこのが好き~?』て、小馬鹿にした調子で聞かれて、ムカついたことあるわ」

「正規の店で、定価で買える地位も財力もないやろうに。品物にふさわしい格が自分にあるんか、っちゅー話や」

「ディスカウントで買ってまで飾ろうとしてんのも、今になって思うと可愛いな。何か違っとるけど」

「テレビのブランド品特集で観たことあるわ。『ロデオドライブはきちんと正装して来る場所やのに、ジーンズ姿の日本人が大勢で詰め掛けて買い漁ってて、地元の人は滑稽に思っている』て」

「あのブランド狂いの背伸び女に、聞かせてやりたいわ」

 ハイシーズンに地球の裏側まで来て、音に聞こえたヒルズの外観を眺める。

「アメリカ来るだけでも、夏のボーナス全部注ぎ込んでも足りへんで、貯金まで切り崩してんのに。小物一つで、旅行代金の何倍もするんやからな」

 ハイシーズンに地球の裏側まで来て、音に聞こえたヒルズで、店内の限定品でなく、外観だけを眺める。USEDを値切りまくった私たちが、ひっそり静かに通り過ぎる。

 予定にはなかったが、気分の乗ったガイドのサービスで、富豪の屋敷に立ち寄ることになった。カリフォルニア油田を堀り当てた石油王の物で、広大な庭園跡と無人の洋館が、どこまでも続いている。

「ここに住んだ人たちは、預金の利子だけで何不自由なく暮らして、働いた経験など一度もないでしょうな」

 自分の案内している場所なのに掴み切れない、と、言い足して、ガイドは首をすくめた。

「ごく少数の人間が、大多数の富を所有しているんですよ。しかも年々、差は拡大しています」

 ガイドはカメラや資材を担ぐ集団に目をやって、敷地内では映画の撮影が行われているんですよ、と言い足した。

『You will be Blood』、タイトルからして、ホラーかサスペンスだろう。一日の使用料は三百万円。翌日になる前に、私の年収を超える。ヒルズのバブリーな雑学は、延々と続く。

「竹内さん、私ここ出る時、絶対に金銭感覚おかしくなってるわ」

「うちもや。何の買い物もしてへんのにな」

 ツーロデオのヨーロッパ風の階段を過ぎて、四方を高級車に囲まれた豪華な信号待ちをする。何げなく目に入ったカルティエの店先に、一台のリムジンが停車した。

 運転手兼ボディガードであろう大男が、うやうやしく後部座席のドアを開いている。ドレスアップした、いいところの奥様とお嬢様然とした娘、いかにもセレブな人種が降りて来て、店に向かって堂々と闊歩している。

 その姿を見つめながら、ほんの数メートル先の光景に、果てない距離を痛感した。娘の体がツアーバスのドアを隔てて私と横並びになる瞬間――次元を異にする決して交わらない世界が、一瞬、私の世界と平行した。

「ほら、あれやないの?」          

 高く掲げた竹内さんの手に沿って、天を仰ぐ。蒼い空に光る白い文字――「ハリウッド・サイン」だ。文字の高さが十五メートル、幅は九メートルもある巨大な看板で、当初不動産屋の広告として造られただけあって、遠くからでもよく目立つ。

 そもそも「ハリウッド・ランド」が、山の造成地の名称で、「街に漂うスモッグより上にある住宅地」が謳い文句だったとある。

「ガイド見てみ。『新人女優が仕事の失敗を苦に、最後のDの字から飛び降り自殺した』んやって」

「……へぇ」

「小原さん、どうかした? レッドカーペット着いたで」

 下から顔を覗き込んで来まれて、あわてて首を振った。

 無人の空間は、アカデミー賞の監督や俳優が闊歩する華やかな絵とは、また違って見える。赤い絨毯は、ここを歩いた何人もの想いを受け止めて、穏やかに静まりかえっている。Dの文字までの三十七メートルを、もう一度、振り仰ぐ。

 ハリウッド・ハイランドの免税店で、同僚に頼まれたクリニークの化粧品を買い込んだ。映画コーナーも、役者の手形も観た。

 集合時間まで、カフェにしけ込んで、遅めのランチを取ることにした。アイスコーヒーとBLTサンドを取る。サイズはでかいし、トッピングの分厚い野菜は、はみ出している。

「竹内さんは、ロスを観た後、どうするん?」

 ELTのレタスとトマトを喉に押し込んで、竹内さんはガイドをぱっと開いた。

「うちは、メキシコや。明日、行ってみるわ」

「え、アメリカやなくて?」

「近いで。せっかく国境付近まで来たんやし」

 近所みたいに事も無げに言うが、国境を越えた外国だ。

「はー、ラテンかぁ」

 言葉だけで、いきなり違う雰囲気が漂う。

「私が真っ先に思いつくんは、密入国やけどな」

「ああ、小原さん、先生やったっけ」

「うん。アリゾナとかニューメキシコって、元々メキシコの領土やん。向こうにとっては、自分らの庭なんやって」

「ふうん、科目は社会か?」

「アメリカの果樹農家にしても、安い労働者を利用できる。労働不足を補って、メキシコ人を入国させて雇うプログラムあったし」

「最近、うちの工場にも、中国とか東南アジアから、作業員が来とるで。えっと……」

「外国人研修生」

「そう、それ。似とるね。昔からやっとったんやな」

「アメリカの人口が安定して、何十年も前に打ち切られたけどな」

「今でも入り込んで来てんの」

「リオ・グランデ川を渡って、下水管の中でネズミに齧られてずぶ濡れで、ウェットバック(背の濡れた者)て、言われるんやって」

「はー、就職の決まらへん女子大生よりキツいなぁ」

 竹内さんのガイドをざっと斜め読むと、思ったよりずっと近い。

 ロスからサンティエゴを経て、トロリーに乗って三十分、国境のサン・イシドロ駅を目指す。歩道橋を渡って、鉄棒の回転ドアを潜る。そこはもう、メキシコ、ティファナの街だ。入国審査はない。

 メインストリートのレボルシオン通りの写真には、レストランや露店がたくさん映っている。料理はプレートにふんだんに盛られて、割に野菜が多くヘルシーな食材ばかりだ。

「へぇ、ドルが使えるんや」

 フリーマーケットを雑多に凝縮したような、カラフルなワゴンの写真に目が行く。骨董品、民芸品、民族衣装、テキーラの店も多い。

「竹内さんのガイド、ショッピング情報寄りやな。どれも安そうや」

「あかん! 払う前に、値切らんと。どうせ、値切り前提の値段を言われるんや。三分の一からいけるで」

 強引な客引きを思わせる、恰幅のいい濃い顔立ちのおばさんが、所狭しと映っている。

「ネイティブのおばちゃん、手強そうやん」

「身振り手振りの掛け引きが面白いんやないの」

 集合時間五分前になった。紙袋を両手に、バスへと小走りに戻る。

「小原さん、フリープランやったら、メキシコどう?」

 発車と同時に、横から顔を覗き込まれた。

「行きたいんやけど、旅行会社の日程がキツいな……」

 二時間もドライブすればメキシコで、ドルも使える。ラテン圏という未知の入口が目の前にあり、もう少し足を伸ばせば届くのだが。

「遠出が無理やったら、深夜の射撃ツアーもあるで」

「あかん。朝、五時起きやもん」

「ノリ悪いで、自分。そんな早起きして、どこ行くん?」

「――ラスベガス」

「はー、えらい飛ぶなぁ。そこにずっと滞在するん?」

「いや、次はグランドキャニオン、その次は、サンフランシスコや」

 盆休み六日のうち、二日は日本との往復にとられ、残り四日で三郡市の周遊だ。

「小原さん、えらい欲張るなぁ。アゲ過ぎや。バーゲンのおばはんみたい」

「今しかないやん。後、正月までずっと仕事やで」

 限られた時間で、ポイントを効率よく回るツアーにせざるを得ない。本当は、滞在型の落ち着いた旅だって、してみたいのが。

「せやな。あぁ、何で帰らなあかんのやろ。うちはずっとロスやけど、一ヶ月おってもええな。帰んのだるいわぁ。一箇所にじっくり滞在して、現地の生活したいわぁ」

「金はあるけど、差し迫って時間ないもん。何で時間って、こうもないんかな」

「仕事あるからな。何で仕事せなあかんの。まぁ、金は要るけど」

「稼いだ金でここまで来て、したいことしようとすると、仕事で時間無うて、できへんねん」

 約束のパブを目指し、ホテルを出て、ダウンタウンの往来を行く。

 英語だらけのテレビは、すぐ電源を切った。のんびり浸かる風呂もない。寝過ごすにしても、時差が大きくて無理だ。

 いい時に竹内さんから電話を貰った。

 ガイド片手に、「リトル東京」へと足を踏み入れる。日本料理店、銀行、日本の雑貨を売るショップが、通りに溢れている。

<どれ、見して。『第二次世界大戦中の強制収容、戦後の開発を支えた移民と日系人、その努力の結晶――退廃した寂しい街は、日系人の熱意で、見事に再開発がなされていた』か。異国の地で這いつくばって生きてきたんやな>

(な、ちょっと、教えてほしいんやけど)

<未来のネタバレ禁止。My policy,ok?>

(外れない予言を、教えてもらいたいわけやない)

<知るのが怖い?>

(……別に。もっと知りたい情報があるだけ。分かるやろ)

<そりゃ、あたしも同じ質問したからな。どうやって、過去の自分とコンタクト取れるか、やろ?>

(中学の時、あんたのこと、レイって呼んどったな。あんた自身、中一と二十七歳の時に「レイ」に会ったん?)

<つまり――未来の自分が、過去の自分に接触している。接触される側から、いつかは接触する側に回る、て、ことやな>

(そうなんやろ! どうやってやるん?)

<ふーん、未来より、過去に興味あるんやな>

(こうやって知らん土地を歩いてると――思い出すんや)

 膨大な時間に埋め尽くされて、「自分」を見失った中学生だった。耐えることも向き合うこともせず、生活も勉強も必要なことは全部、丸投げにした。

 狭い部屋を飛び出し、相棒の自転車に跨って、何時間も掛けて市内を脱出し、海を求めて港へ向かった。親の目が届かないのをいいことに、学校をさぼって欠席した時は、いつもそうだった。旅行と呼べる代物ではない。落ちこぼれ中学生の徘徊に過ぎなかった。

 部屋から、学校から、手に着かない日常から、一時でも離れたかった。市内の中心街から郊外へ、携帯も持ってなかった、あの頃、完壁に一人になれた。大勢の中での一人ぼっちから、自ら逃げた。

 誰も知らない街を、たった一人で彷徨った。お腹が空くと、コンビニかファーストフード、足が疲れるとデパートのソファや公園のベンチで休んだ。今いる場所も店の名も、何も知らなかった。

 名も知らない当時の空間を、やけに鮮明に覚えている。午後の日差しや夕焼けの穂並み、吹き寄せる風――

 なぜ、今、私はアメリカにいるのだろう。

 逃げたのが学校から会社に、行き先が市外から海外へと代わっただけで――私はまだ、あの頃のままなのだろうか。

(で、過去と対話できる方法は?)

<ほら、着いたで、和風パブ>

(ちょっと、話、まだ終わってない――)

「小原さーん! こっち! 何か無性に、和食が食べたなってなぁ」

 手招きする竹内さんの姿が目に入ると、「レイ」は沈黙した。

「とりあえず、うちはビール。串の盛り合わせと、刺し身とサラダ」

 席に座るなり、相談もなしに、さっさとオーダーされた。

「じゃ、私は梅酒。出し巻きにフライ盛り合わせも」

 和式居酒屋風パブでは、日本の本も新聞も手に入る、寿司だって焼き鳥だって、食べ放題だ。

「分カリマシタ。ビール、梅酒デスネ。少々、オ待チ下サーイ」

 金髪碧眼のお兄さんも、発音以外、バイト敬語は完璧だ。

「竹内さん、電話、ありがとうな。こっちも退屈してて」

 冷えた飲み物が来て、グラスをカチンと合わせる。

「ええよ。なんかさ、一人で部屋におっても、仕事とか、ろくなこと考えへんもん」

「なるなる。で、気ぃ付くと、夜中になってんねん」

 休日の静かな時間、時化は突如として襲い来る。自分で自分を宥めすかし、閉じ込めるのに、半日がかりになる。たくさんあったはずの時間が、あっと言う間に消え失せて、夜に落ちている。

「竹内さん、休みの時は、いつも何してんの」

 串にソースをたっぷり付けて、手渡してもらう。

「いつもより四、五時間は多く寝てる。起きたら、録画しといた海外ドラマ観とるな」

「好きやな。私はジムとか、カフェとか、友達に会うわ」

 家を飛び出て、人と会い、ジムで汗を流す。飛び散りそうな破片を、必死に繋ぎ止める、意識の闇を覗き込まないように。

 少しでも空洞が生じると、とにかく何でも放り込んで、慌てて埋めてしまう。隙間に埋め込むサービスは、ごまんと溢れていて、ただただ穴を埋め続ける。

「あぁ、月曜はともかく、盆と正月の直後は、ほんま嫌やわぁ」

「竹内さん、仕事はキツいんか?」

 一週間ともなると……非日常が日常になって、速く流されて、もう戻れない気がする。

「せや。もう、聞いてやー。うちのエリアマネージャー、めっちゃ、最悪ねんで!」

「こっちも似たようなもんやで。塾長とかブロック長やけど」

「エリアの支店でな、自分の地域に有利なオプションつけんねんで。本社の偉いさんも数字だけ見て、あのおっさん、買っとるし」

「竹内さんは他の支店におるんやな」

「あんなん、一緒におれへん。去年もたいがいやったけど、今年、もっと僻地飛ばされたんよ」

「なんか……大変そうやな」

「戦略に乗れへん支店は、どんどん悪くなってく。エリアの人事権、握っとるからな。売れ行き悪そうな立地の店に嫌いな社員を送り込んで、業績不振で降格させて。で、自分の息の掛かった奴を送り込んでくるんよ。上に取り入っとから、上のお達しって形で辞令出させるんよね。もっと酷いのは、引きずり下ろした元店長を、異動させずに置いといて、若い奴につけるんよ。辞めさせたいんやろうな。その人、結構な歳やから、不況のさなか、再就職も難しいやろ。主婦の奥さんと小学生と幼稚園の子供おるし……」

「それって……」

「せや、去年おった支店。元店長は、新人の時から世話になった人や……組織向けの人間やなかったんやろな……今時、職人みたいに偏屈で昔気質やった。うちも、絞られてしんどかったけどな」

「誰も味方せぇへんかったん?」

「……しゃーないやろ。刃向こうたら、次は自分や。皆、あの人を悪く言うことで、自分を守る。そのために、誰かを標的にするんや」

「……そのエリアマネージャー、むかつくな」

「おっさんは、若いバイトの女を侍らせて、喜んどるわ。知織もやる気もないギャル崩れに、飯やら菓子やら食わせて手懐けてな」

「……最低、エロオヤジ」

「うち、あいつの好みやなかったんやろ。もう若うないし。何より、元店長の下におったしな。弟子やと思われて、結構、皆、冷たいわ」

 社名は、はっきり言わない。けど、フード関係のようだ。話し忘れているから、何度か尋ねてみるが、駆けつけ三杯で酔いが回った上に、スイッチが入ってしまい、私の声は届かない。

「どこに居って誰と一緒でも、うちは、やるべき仕事やってただけや。どこの職場にでもあるんやろうけど――同業他社を牽制して、新規展開はバンバンやるし。結局、人は足りんのに、雇う金ケチっとるから、サービス残業やら、ヘルプ行かされて。給料なんか業界きって最低や。いい加減、狭い場所で、悪口と足の引っ張り合いで。客のためやないんよ。何かもう、やる気なくなってきて……」

 ビールをなみなみ注いだタンブラーに口をつけたまま、大粒の涙がこぼれている。

「こんなん話せるの……ヒッ……誰もおらへんなった……仲良かった同期の子ら……グッ……皆、辞めて……女は二十代を使い潰されて終わるんよ……三十歳以上の女の先輩おらんから、どうなるんか見えへん……アラサー女に、いい転職口なんかあらへん……分かっとるんよ、いつまでもあんな会社おっても、先は無いって……エッ……でも、何をどうしたらええの……ねぇ、うち、どうしよ……」

 新しいお絞りを、そっと差し出す。メイクの流れた顔をごしごしやって、思いっきり鼻をかんでいる。

「だから、来たんよ! アメリカっちゅー、でっかいとこに!」

 アメリカはでかいけど、私らは、ちっちゃい。

「な、自分もそうやろ? やってられへんもん!」

 でかい場所に立ったからって、自分がでかくなるわけじゃない。

 私が来た理由は――

◇ 

 手を振って別れ、再びリトル東京の往来を歩き出す。

 居酒屋に三時間はたっぷり居座った。久々に飲んだ。別れ際の竹内さんのスッキリした顔を思い出す。

(山ほど飲んで、喋り倒して吐き出すと、爽快になるんやろうな)

<竹内さん、激しいからな。でも、次へ進むのに大事かもしれへん>

 酔い切れなかったこっちは、自分だけで一杯一杯なのに、人の分まで溜まってしまった感がある。

<飲んで喋って、憂さ晴らしできるタイプやないもんな>

 たった数日なのに、もう戻れないような、遙かなる日常――私はなぜここに来て、どこへ行こうとしているのか。

 アルファベットのネオンが、昼間のハリウッドサインに重なる。夢なくして、大空に飛び込んだ、新人女優――

(本当は分かってるんや、自分が今ここにいる理由――)

<まぁね……小説やろ>

 夢だけ見ていた十年間は、あっけなく崩れてしまった。

 今年の初夏、編集者という人に初めて会った。同年代の女性編集者は、しきりに私の作品を褒めていた。

<前川……やったっけ、あの人?>

(『ここ数年、自費出版をきっかけに、名を成す作家が多いんです。今は夢の一歩手前で、ここが決断時です』て、熱っぽく息巻いてたな。年収に匹敬する出版費なんか、無理やん!)

<コンクール対象キャンぺーンとかって、提示金額の横にバカ高い金額をわざわざ書いといて、上から斜線で消してたな>

(一ヶ月間のみの適用も、判断を煽るための時間制限やったんやな)

 中企業に四年ほど勤続した私は、小口でも支払い能力があると踏んだのか、トントン拍子に話が進んだ。頭金を引いた残額を、安月給の四分の一に当たる額で、六〇カ月の返済プランが手渡された。

<……焦ってたんやな>

 十代、二十代の若手が次々と頭角を現わす低年齢化の昨今、無為に歳を重ねた分、どんどん不利になる。

 新人の頃からコツコツ積み立てた百数十万の預金と、実家の父に借りた百万円を頭金に工面した。

 保証人は退職した両親でなく、大企業に就職した妹の真紀にした。

<食費、衣料、光熱費、交際費……節約方法を、必死に考えたよな>

 承諾の返事をし、送られてきた出版契約書をじっくり書いた。休日に、発送する予定だった。でも、高額費用を払い切れるのか――

(考えると、怖うなってきて……眠れん夜が、何日も続いたわ)

 節約で睡眠薬も買えず、常備していた風邪薬を飲み、催眠作用でようやく意識が途切れた。

<今やって忘れられへん、あの真夜中は――>

 仕事を終え、夜中の駅のホームで終電を待つ間、何げなく携帯を手に取ると、メール着信を知らせる赤い点滅。「今日のニュース」というタイトルで、父からのメールだった。

『自費出版した顧客が、不当高額請求の出版を強いられたと、同出版社を訴える』

 立ちくらみを堪えて、発車し掛けていた電車に駆け込んだ。

 上がる息を抑えて、深夜の市街地を自転車で飛ばした。マンションに着くなり、靴も揃えず、フローリングのテレビに直行した。

 真紀と繋がっている携帯を片手に、目の前で流れる深夜ニュース――提訴の内容を事務的に説明した後、訳知り顔のキャスターとコメンテーが、急増する自費出版に疑問を投げ掛けていた。

 ものの数分で次のニュースに移ると、真紀は受話器の向こう側から、妙に穏やかな口調で言った。

「ネットで見たけど、ひどい内容いっぱい流れてたで。契約書を出す前で、本当に良かった」

 翌日、出勤前に電話をかけ、「契約を白紙に戻す」と、前川に告げた。すぐに着信があり、前川の上司と名乗る女が、一気にまくし立ててきた。

「新人賞は確率が低いですし、弱小出版社で安く発行しても結果は知れていますけどね」

 話の途中、無言で携帯を電源ごと切った。

<今も時々思うわ。出版社への提訴が、報道が、もう二日遅かったら、家族が誰も気付かへんかったら……>

 全てを失っていた。数年がかりの貯金、退職した両親の援助、六年も掛けた作品――。

(コンクールの形をとってるけど、本当のターゲットは膨大な落選者なんやな)

<せや。とりあえず文章になってたら、自費で出版させるんやろ。損失のリスクは回避できるし、原価に上乗せした差額も取れるし、当たれば儲けもんや>

 一握りの華やかな入賞者の影に、どれほど多くの者が消えていったのか。自己表現の欲求を、大金と引き換えても叶えようとする者がいる。賭けるように夢に託す者も。

(前川って人、今もメールよこすし、暑中見舞いの葉書も送って来たで。相変わらず、『この作品が好きだ』て、何度も繰り返してるわ)

<言うだけ書くだけ、タダやし簡単やし。そんだけの手間で、何百万も落とせるなら、安い労力や>

 小説に限らず、駆け出しの頃の自己負担で、世に出るケースも増えているだろう。許容範囲内でやるべきなのだ。数年掛かりの千枚にも達しようかという膨大な枚数など、論外だ。短編の少額から入るべきなのだ。出版事情への無知、自費しか出版し得ない実力、費用も捻出できない、しがない財力。市場・販売のニーズも考えず、好きな話を好きなように書いているだけだった。

(書いてさえいれば、いつかは――漠然と信じてた)

<出版契約を白紙にして、倹約の反動が一気に押し寄せたんやな>

 銀行からボーナスを引き出すと、その足で旅行代埋店に直行し、アメリカ旅行を即決した。

 仕事に身が入らず、理由も覚えてない瑣末なミスで上司に怒られた。周りが退社して一人になった仕事場――メモ用紙を十数枚、わっと掴んで、真っ二つに引き裂いた。細かい紙片になるまで、何度も何度も千切って床に散らかした。

 鞄からiーpodを引きずり出し、めちゃくちゃにボタンを押した。流れてきた曲は、高校生の頃に聴いた、スピッツの『チェリー』――溺れる者が水面で喘いで掴んだ歌詞とメロディー、鳴咽が後から後から湧いてきた。

 どのくらいぶりか分からなかった。

 何とか現状復帰し、仕事場を後にしたのは、終電間際だった。

 日付を越えて部屋に辿り着き、温かいコーヒーを淹れて、パソコンを立ち上げて、また描いた。




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