第3話 ロス・タイム
◆
当機はロサンゼルス国際空港に降り立った――らしい。
「ほら、あんたら、起きぃや。お父さん、子供ら起こしちゃって」
「はぁ、やっとや。皆、眠れちゅう?」
そんなわけない。布団でもベッドでもない、こんな狭いシートで。冷房ガンガンなのに、毛布一枚だけなんて。それに、修学旅行どころか、家族とだって旅先で眠れた試しがない。おまけに変な夢を見て、謎の声の相手までしていたのに。
<Good morning!>
……レイだ! まだいる。目を開ければ覚める夢じゃなかった。
「え、どっこいしょ……あぁ、腰痛うてかなわん」
出がけの若々しさはどこへやら、両親は背と腰をひねっている。
「じじくさ、ばばくさ」
夜特有の興奮が切れて、真紀は素に戻っている。今時の小学生に寝不足の文字はない。一緒に夜ふかししても、こっちは二歳老けている分、体にだるさが残る。
「じゃ、時計、直そか」
「時計? 何で? 壊れてないで」
「時差は十七時間、サマータイム入れて十六時間。午前十一時やね」
「えっ、今、日本は夜なが?」
四月初め、社会で出た時差の話は本当だったのか。
<タイムトンネルをくぐったみたいやろ>
やっぱり外国なのだ、ここは!
「お父さん、サマータイムって、夏だけ時間変わるが? 何でそんなややこしいことするが?」
「太陽に合わせて、一時間早う仕事始めるがよ。省エネになるきね」
そう言えば、昔、授業で聞き逃したポイントを家で尋ねると、お父さんはいつも根気よく教えてくれた。
「じゃあ、かえって残業増えるろう。家におる時間が長うなったら、エアコンの空調代バカにならんで」
日本にないわけだ。お母さんはやっぱり現実的だ。
強ばった足取りで飛行機を出る。箱の中に十数時間いただけで、本当に海を越えて違う国に降り立ったのか。半日ぶりの外の空気は、日本ではなく、アメリカの――
(……関空と、あんまり変わらんで)
<そりゃ、ここに限っては、同じ目的で、同じ行動する所やき>
「お父さん、出口こっちでえいが?」
「人の流れについて行きよったらえいろう。ほら、お姉ちゃん、学校で習うたろう。読んでみぃや」
長い通路にエスカレーター、頭上の表示、矢印下の文字、どれもこれも、アルファベット。
「分からん。ヘイとかハローとか、挨拶だけしか覚えてない」
「荷物は? どこで返しゆうがやろ。お母さん、ガイド取ってや」
「その前に入国審査あるって書いちゅうで」
出口の手前らしいだだっ広いフロアに出る。体育館に集合した全校生徒よりもゴミゴミと、どっちを見ても人だかりだ。
<ほら、そこ。固まっちゅうで。さくさく列に並びや>
(……け、けんど)
肌が白い黒い茶色い、髪が金色や茶色で縮れて、目の色も青に線に――すれ違うほとんどが、白人か黒人だ。
(……本当に、外国ながや!)
人種のるつぼとかサラダボウルとか、受験参考書の言葉が、今、目の前にある。
<飛行機の大っきい箱――あれはタイムマシンで、どこでもドアや>
◆
空港を出たバスは、広い道路をガンガン飛ばして走っていく。お父さんは、今日一日このバスで移動して回る、と、言っていた。全ての道が高速道路みたいで、一般道路がちっともない。
(へぇ……家も日本と全然違う!)
<モルタル造りっていうが。ガイドに出ちゅうやん>
(車やって、変な形。あ、トヨタ! ニッサンも。日本産やん)
<何でか知っちゅう?>
(日本車の輸出が多いからやろ。受験でやった)
「さて、お次は、ロサンゼルスの代名詞、世界に冠たる映画の都・ハリウッドでございます」
派手なTシャツにハーフパンツのおじさんガイドが、ずっと何やら陽気に喋っている。
「もともとここは、東部の白人主流派に対抗する人々が選んだ場所でした。西海岸というのは、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州を指します。ここカリフォルニアは、自由のイメージで語られる場合が多いですね」
自由、という言葉に、車窓から視線を戻した。
「フロンティアの最西端に位置するこの地は、東部主流派や保守層に対抗する文化を育むには絶好の場所でした。十九世紀半ば、ゴールドラッシュを機に、アメリカンドリームの実現を追い求める人々の新天地だったのです」
皆が夢見る所なんて、そんな場所が、本当にあったのだろうか。
「今でこそ、ハリウッドを抜きにしてアメリカ映画は語れませんが、かつての拠点はニューヨークやシカゴにありました。ニ十世紀初頭、映画技術の特許権を獲得していた発明家トマス・A・エジソンを初め、白人主流派ワスプが、強大な資本力によって、映画産業を独占支配していたのです」
大ヒット映画のタイトル、主演役者の名前、歴代アカデミー賞作品……バスは、ぼそぼそ呟き合う日本語に満ちている。
「一方、主流派に反抗して、独自に映画製作しようとした、いわゆる独立系の人々は、新しい映画制作地を求め、ロサンゼル郊外に目を付けました」
真紀は座席から半分ずり下がり、今頃やってきた眠気の波に揺られている。
「理由は、海辺や山岳地帯の美しい景観に恵まれ、西部劇に欠かせない広大さに加え、年間を通して雨が少なく、撮影にはとても適しているからです。雨が降らなければ、撮影がスケジュール通りに進みやすいのです。晴れの日に人工的に雨を降らせることはできても、逆は絶対に不可能ですからね」
<はい、そこ! ちゃんと聴きゆう?>
(社会、まだ都道府県や。次は、歴史。世界地理は二年でやるき)
フロントガラス向こうの山上に、白い大きな文字が見える。
「さあ、見えてまいりました、ハリウッド・サイン。一文字の大きさは、高さ十五・二メートル、幅九・一メートルもございます」
HOLLYWOOD――ローマ字読みじゃないけど、Hから始まるから、最初の目的地だ。
「一九〇〇年初頭から二十年ほど、映画全盛期に栄えたハリウッドには、銀幕スターたちも数多くおりました。しかし、次第に華やかさを失っていきました。現在では、地下鉄の開通や『ハリウッド・ハイランド』完成など、大規模な再開発計画によって、再び活気を取り戻しています」
「そろそろやない? 皆、降りる準備しちょきや」
今朝に限って濃い髭面のお父さんが、前の座席からにゅっと覗く。
「では、『ワーナー・ブラザーズ・スタジオ見学ツアー』を、心ゆくまでお楽しみ下さい」
撮影現場やスタジオを、案内に従って見学していく。小学校で行った地方テレビ局の社会見学みたいだ。
でも、何もかもが、比べものにならないくらい大っきい。有名な俳優が着た衣装や映画の豪華セットが揃えてある。
「さぁ、こちら、十年の歳月を掛けて完成しました、エンターテイメントの殿堂、ハリウッド・ハイランドでございます。東京ドーム十五個分に相当するこの敷地には、免税店を扱うDFSギャラリアを初め、各種ショップ、レストランが一堂に会しております。こちらでは、お食事とお買い物をお楽しみ下さいませ」
お父さんが、ウエストポーチの中から、財布を取り出した。
「あんたらにも五ドルずつやるき、何か買うてみぃや」
普段は絶対ねだってもくれないお小遣いを、試すような顔つきで自分からくれる。
「お父さん、何ちゃ、このお金?」
「一ドル札ゆうがぞね」
「一ドルって、なんぼ? 百円ぐらい?」
「えいところや。ニュースで外国為替市場て聞いたことあるろう?」
「エンダカとかエンヤスとか?」
「そうそう。今は円安やき、ちぃと損やけんど」
「何で?」
「……ええと、どう言うたらえいろう……一ドル百十円やから……そうや、一ドルのお菓子があったら、百十円掛かるがよ。百円で買える時もあるに、損しちゅうろ」
「それがエンヤス? 百円より高いに、エンダカやない?」
「いや、円安なが。やぁこしぃけんど」
「何で得しよったり損しよったり、いちいち変わるが?」
「三年生あたりで習うろう、しっかり聴いちょきや」
お父さんと問答しているうちに、お母さんは免税店とかいうスペースで、熱心に化粧品と睨めっこしている。真紀は今だけお母さんの後ろで、百均ショップとは違うブランド品をまじまじ眺めている。
お父さんは周りをちらちら窺いながら、二人を待ち腐れている。
<観んが? 映画グッズ、いっぱいあるで>
(洋画はあんまり。本のほうがえい)
<ああ、飛行機でもずっと読みよったね)
実家に帰るたび、宝探しのように漁って、数冊を抜き取っては、寮に持ち帰った。本棚にぽっかり大きな空白ができて、バレたけど、怒られはしなかった。寮の部屋は、ブックオフの古本と合わせると物凄い状態になって、むしろ、そっちに文句を言われた。
<大人の本棚? ははぁ、そりゃ、あんた……>
図書室にある物語は、ほとんど読んでしまった。近所の図書館の貸本と、親や親戚がくれた小説で繋いでいた。尽きると、お父さんの部屋の本棚に手を伸ばした。
家族が留守の日曜日に、何げなく手にとった本で――ある文に、頭を強く打ちつけられて、全身が痺れたみたいになった。台所の椅子の上に、固まって動けなかった。
脇役の女が喚く描写――おぞましい何かを見てしまって、一日中ずっと、何をしていても頭から離れなかった。
<青少年に有害な話は、気ぃつけや>
家族でテレビを観る時、男女が絡み合っている、女が襲われているシーンは、リビングの空気を一気に凍らせる。チャンネルを変えるのもわざとらしいし、かと言って内容について話せる訳もない。
真紀はあまり分かってなさそうだが、ロにできない空気だけは何となく感じるらしい。無表情の無言でうろたえる両親の顔をなるべく見ないようにして、次の場面に移るのをひたすら待つしかない、やけに焦れったい時間――
(……男って、何か嫌や)
<何かって?>
(髪は引っぱる、無神経なこと平気で言う、いっつもふざけて、すぐ手ぇ出す)
小学校の頃は、教室で言い合いもしたし、通学路とは正反対の道をどこまでも追い掛けてやり返した。敵もさるもの、隠し持っていたオモチャの銃から、いきなり2B弾が放たれ、素足を撃たれて痛みに蹲った。砂のたっぶり入った缶を投げつけられた時もあった。
<初恋くらい、あるろう>
四年生になった春、家が近所の男子・寺石涼と、保育園の時みたいに、その日も連れ立って帰った。翌日、教室の黒板の落書きから始まって、とんでもない噂に仕立て上げられ、急速な勢いで尾ひれをつけて広がっていった。
必死に否定するうちに、嫌いと言うしかなくなり、いつしか遠く離れてしまった。出会ったばかりの幼児の頃から、三年生が終わるまで――何か置き去りにしたまま、私はひたすら逃げた。今頃になって、もう見えなくなった遠くのものを、目を凝らして探している。
<これからやろ。中学生になったき、もっとえい体験あったろう?>
「……もっと最低!」
中学生男子という生き物は、さらに輪を掛けて酷い。性を平気で口にする。
小学生の頃は気にしていなかったけど、中学生になった男子と言葉を交わすのが、ひどく難しく思えてならない。
秘めて伏せておくもの、という、我が家のリビングにおける暗黙の決まりは、学校の男子にさっばり通じない。部活の先輩から吹き込まれて、その手の知識はどんどん増えている。
流行りの映画で、ブレイク中のアイドル演じる女子高生が、「レイプ」されて「ニンシン」するストーリーを、教室の真ん中で大声で話している。
<青臭いガキばっかりやないで。大人っぽい格好えい子もおるし>
勉強もできて、バスケ部でも一年生エース、皆の輪にも入るけど、一人で本を読んでいても自然な、窓側から三列目前から二番目の席の男子・相田修二――先生に先輩にはっきり話し、それでいて嫌味たらしくない。平然と「そういうこと」を口にしたり、女の子を恥ずかしがらせたりしない。あの人も実は、興味があるのだろうか。
<男だけやない。女の子やって、負けんばぁ興味あるがやで>
リーダー格の女子グループは、男子の過激な言動に動じるどころか、むしろ楽しんでいる。女子の知識も、実は男子顔負けだったりする。自分から話し掛け、騒いだり貶したりと、切り返す。
くっついては離れるドラマのような相関図を、クラスや部活に置き換えて、芸能リポーターみたいにお喋りで描いている。
<保健体育とか、そろそろ男女別れてやるしな>
(やけに詳しゅう知っちゅうな、お化けやに)
<その前に、家で教わっとくのが、えいけんど>
初夏のある週末、下宿から家に帰った時だった。居間のローテーブルにあった本を、何げなく覗き込んで、タイトルを見て固まった。
『教えて、男の子女の子』という本が、棚に返し忘れたふうを装って、平積みになっている普通の本のてっぺんに堂々と置いてあった。
周りを確かめて、そっとページを捲った。教育漫画みたいに味気ない、のっぺりした三頭身キャラクターの男女が、絡み合うように、変なポーズをとりながら知らない単語だらけの台詞を言っていた。
思わずじっとり見入って、顔が熱くなるのを感じた。手も触れなかったように、同じ位置にそっと戻しておいた。
<友達同士やって、そういう話、増えてくるで>
休み時間のメニュー――移動教室、着替えや器具の準備、トイレか購買なら、まだいい。お喋りしか選択肢がない場合が、一番困る。
恋愛ドラマ、ブレイク中の芸能人、ファッション雑誌、先生の悪口、クラスメイトの噂……聞いていて面白いとも思えないのに、ましてや何を言えばいいのやら、さっぱりだ。
けらけら笑う女子は、何がそんなに可笑しいのか、どうしても分からない。会話の大半は、なくても誰もちっとも困らないと思う。
互いの手や肩や髪や体を触り合い、意味のない叫びや笑いを繰り返している。皆、本当に、よく喋る喋る。多ければ多いほどいいみたいな口数が、煩くて堪らない。
一緒に笑ってみようとしても、引きつっているのが自分でも分かる。上手く出てこない言葉は、タイミングも的も外していて、ますます無口になっていく。
小学校の時は、休み時間が好きだった。運動場へ出て、遊具やポールや、縄跳びで遊んだ。先生に隠れて、漫画や少女小説を貸し借りし合った。
<あんた、この手の話には興味ないが?>
(や、何ていうか……>
お化け相手にどもっても、どうにもならないけれど――
<ああ、分かったで。言うてえい?>
(……分かったって、何が?)
<漫画読んだり、テレビ観たり、ゲームしゆうのが楽しいがやろ>
◆
「お姉ちゃんは、何ちゃあ買わんが?」
お父さんの声で、音のない頭の中の声が途切れ、密かに息をつく。
お母さんは「近所の奥さんに頼まれた」なんて、同じ化粧品をいくつも買っている。スーパーでお菓子を手に取っただけで、無駄使いさせまいと棚に戻すのに。
円でないお金を使って、外国で買い物――日本では、お小遣いの不足に悩んでも、商品で迷うことなんてないのに。でも、何も買わないのも癪だ。とりあえず子供も買えそうな小物を見てみる。
お金が違っても、数字の大小だけは共通だ。スパイダーマンのキーホルダー、小学校時の友達とおばあちゃんに出すポストカードを手に取る。
通路を遠回りして、レジの前で一分くらい足踏みしていたが、思い切って日本人客の後ろに並ぶ。
大丈夫……何度も暗算した、お金は足りるはずだ。日本のスーパーでも、店員と話すことなんてない。
ロゴ入りの紙袋を抱えて、前の人が横に逸れる。次の瞬間、金髪の店員とバッタリ向き合う。
慌てて、お金を全部置いた。店員の女の人は軽く笑いを浮かべて、二枚ほどこっちへ戻した。丸いお金をじゃらじゃら受け取って、足早にレジを離れる。後ろで「サンキュー」と、高い声がした。
元の通路へ戻ると、お父さんが何やら文句を言っている。お母さんは完全に居直った表情と口調だ。お父さんの過去の失敗と自分の功労を、三倍くらい持ち出して反撃している。少しずつ問題をずらされて、ロ下手なお父さんは、巧みに言いくるめられていく。
<お父さん、旗色悪いで。マイホームパパの辛いとこや。公務員?>
(まぁね。農家の生まれやけど)
<真面目そうやな。あんたと一緒や。顔も一緒やき>
(……それ、言わんといてや)
結婚式やお葬式で、初めて会った親戚に毎回ばっちり言い当てられる。小学校の頃、遊びに来た友達が吹き出すのを堪えていた。
<自分に似ぃちゅう子やったら、可愛いと思うろう>
似ているのは顔だけだ。お父さんを、あまり私は知らない――そんなこと、子供の頃は思いもしなかった。
「総合的な学習の時間」で、来年の職場体験の話が出た時、そういえば昼間お父さんは郵便局で何をしているのだろうと、ふと思った。
幼なじみの理沙ちゃんは、家が洋食屋をしているから、店の手伝いを日記や作文に書いていた。私は、働いているお父さんを見たことがなくて、その手の題材にほとほと困らされた。
毎朝、私たちより早く、背広を着て郵便局へ出掛けて行く。夕食が終わった頃、ぐったりした顔で玄関のドアを開く。朝の三十分と夜の一時間くらいしか顔を見なかった。その間、何をどうしているのか、考えもつかない。
「昔は、外の問題を家に持ち込むこと全然なかったにねぇ。最近は、愚痴とビールが増えたちゃ」
先月、家に帰ったとき、誰に言うともなくお母さんがこぼしていた。どうやらお父さんは、今年になって、仕事が郵便局の内から外へと変わったらしい。
「……何もかも置いて、どっか行きたい」
何年前だったか――私の前で、何かの拍子に、お父さんがぽつりと呟いた。
何も言えなかった。
もし私と妹がいなかったら、お父さんは今のお父さんじゃなかったかもしれない。お父さんが望むお父さんだったかもしれない。
お父さんは、ぽつぽつ何か言っていたけど、理解できなかった。
「気にせんでや。あんたらがおって、お父さん幸せやきね」
やっぱり何も言えなかった。どっちが本当なのか分からなかった。
市内の学校へ通って、下宿住まいで、アメリカにも足を踏み入れた。入試に合格した時みたいに、私が模範的に好成績を取り続ければ――その苦労は実るのだろうか。
現実には、生活はぐちゃぐちゃ、勉強も落ちこぼれ、友達もいない――お父さんだって、今の私を知らない。
私も、お父さんと一緒だ。私たちは場所が違うだけだ、自分で選んだはずなのに。
目ン玉の飛び出るくらい高いアメリカ旅行は、お父さんに報いてくれるだろうか。
「ほら、手形と足形を入れて、写真撮ろう」
どうにか買い物が一段落して、広い広場に連れて行かれた。
「グローマンズ・チャイニーズ・シアター」という場所は、地面に手形と足型をたくさん刻んでいる。生乾きのコンクリートを、大勢が押し寄せて踏みしめて行ったのだろうか。
「お母さん、何でこんなに、手と足いっぱいあるが?」
「どれ、『映画館の建設ラッシュが起こった時、劇場経営者のシド・グローマンが、他との差別化を図ろうと、中国の明王朝時代の寺院を模したユニークな外観の劇場を建設……近年リニューアルして、前庭の敷石に型付けられた百七〇を超える映画俳優や監督たちの手形と足形が見もの』か」
「ほら、スピルバーグやったら、あんたたらも知っちゅうやろ」
お父さんは、誰もが知ってそうな人を選んで、デジカメで撮っている。ジョージ・ルーカス、トム・クルーズ、アーノルド・シュワルツェネッガー、ジョニー・デップ……。
「よし、やっぱり僕はこれや。リチャード・ギア。そっくりやろ」
自称で似ていると言って、はばからない。
「アルバムに載せる傑作を録るで! 友紀、シャッター押してや」
フランケンシュタインの格好の人に「チップ」を手渡して、並んでポーズをとっている。
(……お父さん、白髪、増えちゅう)
ゴマ塩を振ったような、というありがちな言い方がぴったりだ。数年前は黒々と多い毛量で、白髪や薄毛の同僚よりずっと若く見える、と自慢していたのに。
毎日見ているお母さんたちより、たまに再会する私のほうが、どうしても目につく。
頭の盤上で、白と黒が陣地を取り合っている。黒が盛り返す可能性はない。どれだけ保って遅らせられるか、じっと考えてしまう。
笑いながら怪物に襲われるお父さんのショットを、フレームごしに見つめていた。
◆
「友紀、夕ご飯、食べに行くで」
ホテルのベッドで突っ伏して動かない私の後頭部を、お母さんの手が軽くはたいた感触がする。
「……体、しんどい」
「お姉ちゃん、団体行動、乱さんといてや」
真紀には言われたくない。
「もう、えいやん。ご飯いらんかったら、放っちょこうや」
自分こそ、春休みに行った愛媛の動物園で、「家族一緒とか、恥ずいし」と言うなり、ずかすか一人で歩いて行ったではないか。
「お姉ちゃんは時差で疲れたが? 近所のレストランやき、遠くないで。ちょっとでも食べたほうがえいで」
「いや、昨日の飛行機も、一昨日の晩も、夜ふかししたからや」
お母さんはいつだって、家族で一番現実的だ。
「そんなにしんどかったら、おとなしゅう寝ちょりや。お父さん、カードキー取って」
「早う戻るきね。何かあったら、携帯に掛けや」
「お父さん、お母さん、早う行こ。もう、お腹空いた」
ドアが閉まると、急に部屋が狭く見えた。
「……疲れた」
急に目に見えない重みが体にのしかかって、ベッドに寝転がる。
<そんなにハードやなかったろう。バスに乗っかって、二、三箇所観て回っただけやん>
「……寝不足」
終業式の夜、飛行機、ニ日連続だ。
「‥…あと、筋肉痛」
<若いに、何、言ゆうが>
歩き過ぎた脚じゃなくて、心――人疲れだ。しばらくの間なかった、ずっと誰か一緒にいることが。
「……一人になりたい」
手荷物から本を取り出して、パラパラ捲る。本を開けば、誰にも話しかけられない。「一人」が守られる。アイドルや男の子の噂話を避け、席に座っていられる、一人で、自然に。長すぎる休み時間を、一気に早送りできる。間の悪さには、猫も杓子も読書だ。幽霊にも、この手は使えるだろうか。
我が家の読書は、客が少ない休日のファミレス・モーニング付きだ。十一時ぎりぎりに駆け込んで、昼食代わりにする。ランチを注文することは滅多にない。ディナーは、なおさらだ。一時間半ほど、お父さんは新聞に持ち込みの本、お母さんは『オレンジページ』と『婦人公論』で、真紀はティーン雑誌、私は宿題か図書室の本を、めいめい読んで食べて、また読む。
あの休日の習慣は、私を抜きにしても続いているだろう。
今回は十時間近くも飛行機のシートに座る。お父さんは、皆に旅行用の本を一冊ずつ手渡してくれた。ボーナスで払ったという旅行代金は、家族割引でいくらか浮いたらしい。
私には『ハックルベリ・フィンの冒険』、真紀は『トム・ソーヤーの冒険』、お母さんは『アルジャーノンに花束を』、お父さんは家の本棚にあった『老人と海』を読んでいる。
『老人と海』は、簡単な文章だったから、去年の春に走り読みした。時間はたっぷりあったけど、事件を捜して目の動きが速くなっていた。結局、大事件は見当たらないまま、最後のページが来てしまった。本を閉じた時、「今読みたい古典名作」と書いてある帯に、初めて気づいた。読書記録カードの感想欄に「不漁続きの老漁師が、ある日、大物のマグロに当たった。でも、結局サメに食べられてしまった。すっきりしない話だった」と書いた。
カードを横から覗き込んだお父さんは、「働き出したら、もう一回読んでみぃ」と、ぽつんと言った。
『ハック・フィン』は、初めから気に入った。ハックが同じ年頃の男の子だからだ。
養子に迎えられた未亡人の家を飛び出し、砂糖の空き樽を住処にした。何もかもが別々に料理してある食卓より、いろんなものが一緒くたで汁が混ざりあった残飯の味がずっといいと言った。死んで誰の役にも立たないモーゼを学ぶより、少しはためになる喫煙をしたがった。永久に歌い続けている大したことのない天国より、どこだっていいからどこかへ行って変化がほしい、地獄へ行きたいと言って、大人を怒らせた。あまりに寂しい夜、死人が出たと告げる梟の声と、死人が出ると告げる夜だかと犬の声と、嘆き悲しむ幽霊の声を聞いた。午前零時に家を抜け出し、トム・ソーヤーが作る盗賊団に入った。
ハックが筏の上で眠るシーンに来た時、急に瞼が重く感じた。
◆
「……う……ちこく…‥」
<うん? どうした?>
「…‥遅刻する……テスト……」
<あんた、寝ぼけちゅう?>
「……また、受けれんかった……」
<いや、夏休みやで>
「……レイ……どうしよ……怒られる……今からでも行かな……制服と鞄……雑誌どかせて……下に……」
<アメリカから、学校行く気? 通学に飛行機が要るで>
「シャツ……洗濯してない……アイロンも……」
<何か食べや。昼間お父さんが買うたパン、鞄にあるやろ>
「食パンもうない……ポットの線切っちゅう……レイ、吐く……」
<やっぱり、もう寝ぇたら?>
「私やない……あいつ……真美が……塾が終わるまでって、電話十時まで待たせて……」
<真美と電話したが?>
「……二時間も……自分のことばっかし喋って……一方的に……」
寝入りばなに読んだ『ハック・フィン』ではなく、かなり前に読んだ『リトル・トリー』の夢を見ていた。チェロキーインディアンのリトル・トリーが祖先の過去を知る章だ。
連邦政府軍はチェロキーを狩り、山や畑や家を明け渡して、白人が見向きもしない土地へ移動するように命じた。何もかも奪われたチェロキーは、軍の用意した幌馬車に乗らず、全員歩くことを選んだ。行列を見ようと群がった白人の笑い声にも振り向かなかった。飢えと寒さに死んでいく子供や老人を背負って運んだ。
「涙の旅路」は、行列を見て泣いた白人を指す。チェロキーは泣かなかった。魂を覗かれたくないから、人前では泣かなかったのだ。
<あんたの話も聞いちゃる。言うてみぃや>
「……私、十二歳やけど、独り暮らしながよ」
<『魔女の宅急便』みたいやん。修行の旅か?>
「別に珍しゅうない。村にも町にも、大学に行ける高校ないき。成績良かったら、市内の中高一貫校を受験するがよ」
少し意識がはっきりしてきて、ホテルの内装がぼんやり目に映る。
<日帰りで通えんが? 下宿か寮に入っちゅうとか?>
「うん。そんな生徒が、クラスに何人もおる」
難関を突破した子供が全県中から集まると、通学の仕方も様々だ。
市内の子は、自転車かバスを使う。西部出身の子は、列車に乗って来る。でも、東部の交通事情の悪さと来たら、古いバスが一時間に一本出ているだけだ。おそろしく時間が掛かり、一日の四時間は移動に取られてしまう。そこで、家を出て市内に住むことになる。だから、東部の子はあまりいない。
<でも、親が十二歳の女の子を、よう一人で外へ出したなぁ>
「『地元に残っても、先は決まっちゅう。学費と生活費は何とでもします。この子を市内の学校に入れちゃって下さい!』て、塾の面談室で塾長に向こうて、お母さん、ソファから身ぃ乗り出して叫びよったがよ」
<はぁー、熱心な親やなぁ>
「私、村の小学校を卒業したら、隣町の中学校へ行くはずやった。難しかったけんど、市内の国立中学校の入試を受けたが」
<あんた、頭えいがやね>
「ううん、模試の偏差値、直前まで全然足りんかった。最後、猛烈に追い込んだもん。『伸るか反るか、一発大勝負や!』て、言われた。多分、ぎりぎりやったろう。先生も友達も親戚も近所の人も、驚いちょった」
<そんな苦労して入ったに、学校どうながよ?>
「……長かった、ほんまに一学期が長うて、時間の檻に閉じ込められちょった」
受験期、近所の個人塾に週二回通っていただけで、力の全てを使い切って有名校に滑り込んだ。今の私は、伸び切ったゴムだ。
「小っちゃい時から塾とか、私立の幼稚園とか小学校で、みっちり勉強しちゅう市内の子らに、ついていけるわけないやん……」
何をどうやって、どれだけ勉強すればいいのか。分からないまま、授業はどんどん進んでいく。
「なに……何しゆうが、みんな……って、毎日ずっと思いゆう」
独走する先頭集団、平均の大集団にも置いていかれた。教えてくれる子もいなくて、一人ぼっちで取り残されている。何もかもビリになって、底辺という未知の場所を這いずり回っている。
「こんなこと、村の小学校では一回もなかった……」
<……クラブとか、友達とか、何かあるやろ>
「真美みたいなクラスで浮いちゅう子が、一方的に寄ってくるだけ。毎日ほとんど『……ただいま』しか、喋ってない。ぐったりして下宿のドア開けたら、散らかったゴミだけが迎えてくれるで」
洗ってない食器は山積みで、洗濯物はカゴから溢れている。平日は夕食が出るけれど、それ以外は、自分で用意しないといけない。通学路にあるコンビニは、一日一回行きつける。
<……村の実家の家族は?>
「……別に」
あれは五月のゴールデン・ウィーク、日帰りのドライブで、家族の話が分からなくなっていた。黙りがちにぼんやりと、窓の外を流れる景色ばかり見つめていた。
することもなく、両親が真紀と私の名を呼ぶ回数を数えていた。あっちは二十回、こっちは四、五回。真紀が疲れて眠ると、こっちを向く。適当な返事をして、目を閉じていた。
<……まぁ、今は夏休みやん。楽しゅういこうや>
「うん……終わった……学校、終わったちゃ……!」
終業式の済んだ昨日の夜、本棚から漫画全巻、引っくり返して、長編シリーズを一気読みした。
何度も観たアニメビデオ流しっ放しで、節約したお昼代で買ったポッキーやアイスやチョコをベッドに広げ、音楽をがんがん掛けた。
一つの学期が、ようやく終わった! こんなに長く感じた時はなかった。ここまで休みを待ち侘びた時はなかった。
何もかも放り投げて、思いっきり過ごしたのは、いつぶりだろう。受験が終わった日、取り上げられていた漫画やゲームが解禁になり、一気に何時間もプレイし続けた、あの夕方を思い出した。
読んだことのある話や、ゲームのイベント自体より、ムダに費やせることの贅沢さ――
幼い頃を少しだけ取り戻す、気ままな自由に浸っていた。
◆
「友紀、起きちゅうが?」
ゆっくりドアをノックする音――お母さんだ。聞かれただろうか? レイと話しても、私一人の声しかしないから、変に思われたかもしれない。
「……あ、えっと、テレビ観よった」
大急ぎでテレビの電源を入れる。出掛けにお父さんがNHKのニュースを観ていたから、すぐに日本語が流れてきた。
「ちょっとは休めた?」
「う、うん……もう、起きちゅうで」
「外に行く元気あったら、海の夕日、観に行かん?」
「……別に、えいけんど」
服のまま寝ていた。ぼさぼさの髪を三つ編みにし、靴を履く。
ホテル前のバス停から、真っ赤な色で、見たこともない形のバスに乗り込む。
「お姉ちゃんがおらんと、やっぱり気になるき、レストランすぐに出たわ」
横に座ったお父さんが、しきりに声を掛けてくる。さっきのレイとの話を聞かれていないか――気になっていたたまれない。
バスが最後に停車したのは、ロサンゼルスの顔ともいえる古くからのビーチリゾート・エリアの、「サンタモニカ」だ。
隣の家族連れが一緒に買い物をと誘ってくれたが、海沿いの景色を見たいと、お父さんがやんわり断って別行動にした。十数人の乗客も、買い物と散策の二手に分かれていく。
太平洋の海沿いに広がるサンタモニカ――ビーチ沿いにはパームツリーが並ぶ。ガイドブック一押しの「カリフォルニアらしい風景」で、南国ムードの名所だ。
デザインの違う道路標識や信号を、足早に通り過ぎて行く。地元民か観光客か、いずれも、すれ違うのは白人か黒人だ。一瞬、ビクっと体を固くして、アメリカを歩いているのだと思い出す。
「パシフィック公園」を過ぎて「サンタモニカ・ピア」の橋に立つ。写真そのまま、古い木の桟橋が海に突き出している。
多くの映画やドラマで使われていると、ガイドブックにあり、最近よく見た煙草のCMの舞台だと、にわかに思い出す。修学旅行で行った奈良県で、小学校の歴史教科書そのまんまの大仏を目の当たりにした時と、同じ感じがする。
ビーチには褐色のサーファーが集い、海にはヨットが停泊している。散歩やジョギング、テニスやローラースケート、日光浴に海水浴、ビーチバレーと、多くの人が行き来している。
海の匂いを辿って、桟橋の端先へ、強い光の方角へ向かって歩く。
(――海や!)
海の村で生まれたのに、今は市街地に住んで、毎日ずっと見ていた海を、めったに拝めなくなった。
久しぶりの海の気配や匂いに、体中が詰まりそうになる。
こんな地球の裏側なのに、なぜ今、思い出すのだろう。
保育園児の真紀と、テトラポットの影で隠れんぼした。幼かった飼い犬と、思いきり走り回った。息を切らせて、砂の上に倒れ、仰向けに転がった。見上げた空から、幾筋も光の桂が降り注いでいた、あの故郷の海――
今、乾いた潮風に吹かれ、飛び交う海鳥の声の中、落ちていく日に照らされて、少し違う色の海を、ただ静かに見つめていた。
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