第2話 関空発ロス行きA701便

 枕元の携帯は、アラームでなく、着信の呼び出し音で鳴っている。

 小原友紀は、力の入らない手で闇をまさぐった。義理というより、耳障りな音を消したいがため、通話ボタンを親指で叩く。

「おはようございます。小原様でいらっしゃいますか」

 聞き覚えのある声……そうだ、旅行代埋店の、担当の女の子だ。

「昨日イギリスにて、テロが未然に発覚しました」

 微かに伝う音は、静かに語られる遠い世界の話みたいだ。

「つきましては、本日出発のツアーの件ですが……」

 重い瞼の隙間から、薄暗いワンルームに、トランクの輪郭がぼんやり霞んで見える。

「空港は厳戒態勢で、欠航になる便もあるとの情報です」

 ……てろ? ……テロ? ――テロ! 

 九・一一みたいな惨事か! あの映画のようなニュース映像と同じ、非現実なリアルが胸につっかえる。

 一ヶ月前から計画した、アメリカ西海岸の旅が――盆休みなのに、仕事中にミスした時と同じ、鈍い痛みがじくじく腹を刺している。

 盆の七日間がどんなに大切か。社会人にとってどれだけ貴重か。

 黄泉帰りの先祖も、集まる親戚も、粗い餡子のお萩も、どうでもいい。三日しかないGWや、実家に強制送還される正月とは訳が違う。日常という名の檻から、年一度の仮釈放なのだ。そのまま脱走するような甲斐性など全然なく、期間内にはきっちり戻ってくる小市民なのだ。

 哀しい女工の年一度のささやかな楽しみに、何をしでかすのだ! 

 電話のお姉さんに向かって、テロリストを罵倒せんばかりのクレームが、喉まで押し上げてくる。

「港内は大変な混雑が予想されます。受付カウンターへは、お早めにお越し願います」

 冷静な声に、腹の痛みは、すっと止んだ。最短新記録だ。

「荷物検査等、出国に手間取ることが……で……でして……」

 延々続く諸注意が、緩んだ頭から、ふしゅーっと抜けていく。

   ◇

「ああ……やっと、やぁっと、やあぁ――――――っと!」

 早朝の住宅地、スーツケースがアスファルトを引っかく音と、でかい独り言が響く。

 勤め先の進学塾は夏場が掻き人れ時で、授業のコマは二倍になって押し寄せてくる。忙しさの反動の興奮、それが盆初日だ。受験生には悪いけれど、きっちり楽しませてもらう。

 塾の人間関係、見慣れない夏季外部生も、秋以降の継続のために躍起になっている塾長も、新規入塾者数をうるさく言ってくる本部も、夏季強化合宿の地獄も、今はひとまずお預けだ。

 前の通りでタクシーを拾って、JR山科駅へ向かう。愛想のいい運転手は、案の定、旅先を尋ねてきた。勤務中の身へ遠慮がちに、海の向こうの国を答える。

 タッチの差で電車一本を乗り過ごす。大阪駅に着いた時、予定の関空快速はとっくに出ていた。

咽せ返るホーム、髪と首の後ろが汗で張り付く。

 昨日、美容院で、もう少し短く切ってもらえばよかった。黒髪のショートは、ほとんど学生だ。肌荒れと剥げたメイクが気まずく、美容師との会話を避けて、目を閉じていた。結局、中途半端な仕上がりに、文句も言えなかった。

 駅のカフェに座り込んで、手持ち無沙汰に時間を潰す。氷の溶けた色も味も薄いアイスコーヒーを左手に、数時間後には役立たずになる携帯を右手に、お気に入りのサイトをサーフする。

 レジに立った時、インディゴのジーンズとレスボート・サックのバッグに水滴が垂れていて、Tシャツの裾を、そっとこすりつけた。

 やっと来た鈍行を乗り継いで、結局、三十分の遅れで、関西国際空港に到着した。

 友達との待ち合わせにも、いつだって五分、十分遅れてしまう。ダイヤと到着時間が合わないのは、JRお出かけネットで調べてないから。電車に間に合わなかったのは、家を出た後で忘れ物を思い出して、来た道を引き返したから。

 加えて今日は、エアコンの点けっぱなしが気になった。いつもは戻るのが面倒で放置するが、六日間では、さすがに電気代もバカにならない。結局、電源はオフだった。

 家を出るのに手間取ったのは、横で流れているニュースに気を取られて、手が止まっていたから。それと、携帯とデジカメが充電されてなかったと、出がけになって気がついたから。

 そもそも前の夜に、油断しきって不摂生な夜ふかして、起きるのが目覚ましより、ずっと遅かったから――。

 古い友達は、「よくまぁ、そんなにも遅れる理由あるなー」と、感心してくれる。子持ちの主婦友達だと「あんたに振り回されて、家事の段取りができんわ」と、ちくちく怒られる。

 旅行ともなれば、連れにこういうルーズさを逐一指摘されながら、起床に始まって、食事、観光ポイント、休憩、トイレ、風呂、就寝と、行動を合わせるのが一苦労だ。

(二時間前に空港に集合ったって、どうせ退屈するやろ)

 甘かった……。

テロの翌日、盆の初日、千載一遇の最悪なタイミングだった。

(間に合うか、フライト?)

 カウンターで出国手続きを済ませ、国際電話用の携帯をレンタルし、いくらかの日本円をドルに両替――卒業旅行の時を思い返し、港内で準備を整える。

 そこまでは良かった。出国最後の砦、手荷物検査の段で、ゲートに人が詰まって、てんで動かなくなってしまった。

〈混んどるなぁ。空港全体が、何か物々しいわ〉

(そうそう、もっと早く進……――?)

 確かに夏は、仕事がハードだ。

〈警備員の数も多いし、やけに入念に荷物を調べとるんちゃう?〉

(だから、昨日テロが――!)

 幻聴が聞こえるほど、身も心も参っているのか。

〈テロ! 思い出すわ、九・一一――いや、さっぱり進まへんね〉

 ……私じゃない。頭の中で、何かが――

〈あ、そういや、まだ名乗ってなかったっけ〉

 何を?

〈あたし、今回あんたと一緒に行くわ。ヨロシクな〉

 …………はい?

   ◇

〈店、見て行かへんの? ほら、Duty―Freeやで〉

 錚々たるブランド店に目もくれず、トランクを引きずって,爆走する私――を、追って来る姿のない声。女の声だけど、遠慮のえの字もない、ずけずけした関西弁だ。

(な、何なんや! 何でおるんや、あんた!)

 自分にしか聞こえてない、この声――物質としての音ではない。耳ではないところに響く、他者の意思を持って。

(ぶっちゃけ、邪・魔!)

 音のない脳内でも、緩急をつけて、鬱陶しさを醸し出してやる。

(ほんま、何なんや、自分! お化け?)

〈厳密には違うけど、シンプルに納得できるんやったら、それで〉

(何でや! お盆やからか! 里帰りの幽霊なん?)

〈Yeah!〉

(――やないわ! 一人にしてや! 忙しいんや!)

 軽々しい物言いに、こめかみが痛む。

 隈のできた目を剥いて、荒れた肌に怒りの形相を浮かべて、本屋の店員にすっと目を逸らされた。外国への過剰な期待が充満する真夏の飛行場で、私だけだろう、こんな表情は。

〈ええやん。どうせ着くまで、することもないんやろ。とりあえず、気のせいやないのは分かってくれてるんやね〉

 強引な訪問販売を思わせる、押しの強さだ。

(しゃあないやろ! 荷物検査の時から、頭の中に変な音が点きっぱなし。壁を抜けるわ、連絡ケーブルに乗っかるわ、他の人には、見えも聞こえもせぇへん!)

〈ほな、適当に世間話でも。これも旅の出会いやって〉

あまりのマイペースさに、手にしているパスポートと航空券を、力んで何度も握り潰しそうになった。

(空気、読んでや! 今、連絡のバスに遅れそうなんやって!)

 空港への遅刻、予想以上の人出、テロ未遂という、不測の事態の連続――重なった悪条件は、土壇場で出国を危うくしている。

(非常時やのに、何で私が憑かれなきゃならへんの! 理由、言うてや、納得いくやつ!)

〈努力するわ。そっちも気張りや。あ、ちなみに、残り五分やで〉

(何で関空に、お化けがおるんや!)

〈んー、前の同行者がそこで降りたから、とか?〉

他人事のような、とぼけた返答に、誠意の欠片も見出せない。

(取り憑く対象が、旅人限定なわけ?)

〈そんなところ。新幹線に汽車、フェリーに高速バスもあるで〉

(一番肝心な点やけど――な、ん、で、憑くの私なんや)

〈人選のポイントか! あたしも知りたいとこなんや〉

(なっ……なんや、それ! 自分で分からへんの?)

〈せや。あ、ほら、止まったらあかんて〉

(……キッパリ言うなっ、ての!)

 最後の階段が見えてきた。あそこを降りれば、もうバス乗り場だ。

〈分からへんもんは、しゃーないやろ。選ぶってわけやない。引き寄せられるっていうか。誰にでもやないけど〉

(私、霊感ないって!)

〈その霊感の「霊」って、お化けやろ? あたし、死魂やないで〉

霊的存在と死魂の混同は日本人に多い。そのくらい分かっとる、と、毒づいてやる。

(もったいつけてへんで、さっさと言いや! どういう存在で、何で、私に憑いてんの)

〈無茶言うわ。そっちこそ、自分とは何か、答えられる?〉

 逆質問は、相当イラっとくる。こんな切羽詰った状況で、訳の分からない声が相手では、なおさらだ

(禅問答やなくって――目的! あんた自身の! 憑かれた身として、知る権利はあるんや!)

〈じゃ、簡単に――あたしは、交通機関におる。普通、人には見えへん。ある日突然、波長の合う人間に引き寄せられる。それで、一緒に旅をする〉

(無断人体ヒッチハイクやん。本人に断わりもなく、人の体と意識に、ずかずか土足で)

〈あ、それ上手いで。足はないけどな〉

人を喰ったような茶化しは、わざとやっているのか。

(図々しいにも程があるわ! 人の体でタダ旅しようやなんて、あんた、貧乏学生か!)

〈そりゃ、出て行けるもんならね。無理なんや、旅が終わるまで〉

断られてからが本当の交渉と言わんばかりに、全くめげない。

(高い金払ってんやで……ハイシーズンで、どんだけ掛かったと思っとんの! オフの二倍や、二倍!)

 だから、バスに、飛行機に、関空発ロス行きA701便に乗れないなんてこと、断じてあってはならない!

〈一人が好きな人を邪魔して悪いけど――吹く風には逆らえへん〉

(納得できるか!)

 トランクを持ち上げずに、一気に階段を駆け下りる。タイヤが段差を落ちる衝撃で、ガンガンやかましい音が響く。

〈経験からして、理不尽ってわけやないみたいやで〉

(そっちが言うなって!)

〈誰にどんな形であろうと、憑く・憑かれる、しかるべき理由が、確固としてあるんや、全てのケースに〉

 間に合った――連絡バスだ!

   ◇

 いざ機内に乗り込むと、あれほどしたいと思っていたことが、綺麗にすっ飛んでしまう。あぁ、十時間近くある、十時間だ、十時間!

 モニターに流れる海外ニュースは、どこか外国の駅で、徴兵から解放された青年を映している。まだ、あどけなさを残す男は、アーミー服のまま、狂ったような奇声を発し、縦横無尽にホームで飛び跳ね、暴れるように四肢を振り回している。トランクを引きずりながら、猛スピードで階段を駆け降り、大喜びで走り去って行く。

 毎週末土曜――終電から飛び降り、駅周辺の眠らない店に飛び込む。TSUTAYAで音楽とDVDを借りまくり、コンビニで強い酒と、体に悪そうな摘みばかり買いまくる。

 マンションの部屋に入ると、靴もシャツも脱ぎ散らかして、調達した夜食を盛大にフロアに広げ、アルコールとジャンクフードを、半分は眠っている胃へ押し流す。

 テレビを点けっ放し、深夜番組をラジオ代わりに、PCでYouTubeとニコニコ動画を観て、オークションで礼を入れる。

 深夜に流れていた取材番組は、キャリアの女がホストクラブでシャンパンタワーを注文して豪遊していたけど、私ではDVDレンタル、コンビニ衝動買い、オークション入札が分相応だ。女友達とのご飯、同僚とのカラオケより、部屋でのグダグダが最高の贅沢だ。

「すいませーん、白ワイン下さーい!」

 シートに固定されて座りっばなしになっている、身動きの取れない自由にうっとりしていた。

 テレビも映画も海外ドラマも、一切レンタル代なし。飲み放題のドリンクを運ぶ、一晩中ずっと起きて控えている給仕もいる。何よりも、湯水のごとく使い込める時間と体力を持て余している。

〈パカパカいっとるけど、それ、何杯目?〉

同じ注文を三度したからか、呆れたように声が間延びしている。

(エコノミー症候群になるとか? 禁酒法反対!)

 ヘッドホンから流れる、ガンガン掛けたジャズの音量に負けじと、脳内でシャウトする。

(ほらぁ、あんたも飲み足りへんやろ?)

 日々の節約や節制を一気に破壊する衝動に、だらんと身を任せる。

きっちり区画して整理したものを薙ぎ倒すように壊し、素朴な慎ましさを挑発するように、自らリズムを狂わせて不摂生を招き入れる。

〈お構いなく。文字通り、飲めへんし〉

(ノリ悪っ、もっとパッと行こうや! あんたの歓迎会なんやで! 歓迎したくもない、あんたのための!)

〈そりゃ、どうも。絡まれ役としての歓迎やろ〉

一丁前に鬱陶しそうな音で返してくる。

(なぁ、聞いてぇや。さっき、妄想してんか。旅の間、お化けに憑かれるみたいなんやけどぉ)

〈あたしは、アルコールの回った脳内の産物やないんやけど〉

(じゃ、ラジオや? ドラマCD?)

〈DJでも声優でもないで〉

(しらばっくれんなや。あんた、私に言うことあるやろ?)

〈――いや、変わらへんな、自分〉

こっちが忘れている昔の出来事で含み笑いする親戚のおばちゃんみたいに、くふっと息が混じっている。声だけなのに、やけに感情が滲み出ていて、人間臭い。

〈思い出してんやろ、あたしのこと?〉

 そう、そっちからカミングアウトするのを、待ってやったのだ。

(――あんた、私が中一でアメリカ行った時も、おったやろ)

〈酒飲んだら忘れっぽくなるけど、思い出すのは、新しいな〉

 嘘は言ってないけど、真実も言ってない、核心から遠ざけようとする、ちゃらけた返しだ

〈あの時は、さっさと上がり込めたのに、今回はえらい抵抗かまし

てくれたな。十五年ぶりやってのに、冷たいで〉

 いくぶん酔いが冷めかけ、もう一杯ワインの注文を出す。この際、とことん話を詰め切ってやる。

(何で、また邪魔するん?)

〈何でまたアメリカ行くん? リピーターって、一見さんより遙か

に強い動機があるやろ。リピートせずにはおれへん、明確な理由が

あるんやろ、あんたに〉

訳知り口調で言い寄ってくる。

(あんた、ほんま、誰や――)

〈決めてみぃ。小説家志望やろ。卵どころか、細胞やけど〉

 小説というキーワードがヒントのつもりなら、大きなお世話だ。

(あれから、こっちやって何度も、何年も考えたけどな……)

〈で、分かったん?〉

(――あんた、私やろ)

 鬱陶しいくらい喋っていた声が、はっきり沈黙する。

(意識に上がりこむ手口が、中学の時と同じやから、同一犯やろ。あんまり前のことで、忘れとったていうか、タイミングの問題やな。出国できるかの瀬戸際でパニックやったし、あんたの口出しでよけい混乱して、ぐちゃぐちゃやったし)

〈……それで? 中学の時のお客さんと、あたしが同一人物ってことやろ。あたしとあんたが同一、ってのは?〉

(その喋り方、喰ってかかってくる生徒に切り返す時の私やし)

 粘り強くはなったが、火に油を注ぐ逆効果だと、よく分かった。

(機内に入ってから、実は感づいてたんやけどな)

〈気づかない振りして、お互い狸芝居してたわけか〉

 解放感と旅情に酒が入って、目下のSFファンタジーみたいな超常現象を、意外なほどすんなり受け入れていた。

〈やっぱり、酔うと冴えてんな!〉

 もう少し引っ張りたかったのだろう。感嘆の振りして、小さな舌打ちが聞こえた。

〈何で分かったん? 上手く憑いたと思ったんやけどな〉

 見破った理由なんか、取るに足らない。過去の自分とコンタクトできる絡繰のほうが、よっぽど知りたい。

(何歳、年くってるか知らんけど、ど厚かましいおばはんが訳知り顔で、いたいけな若い自分に、ダメ出しばっかして)

〈あの時は、お化けやお化けやって……可笑しかったわ。十二歳はともかく、二十七歳って、言うほど若いか?〉

(マジ、ムカつく!)

 鼻で笑う声、深呼吸のような間合い――酔った意識に、風のような声が通り抜ける。

〈楽しませてもらうで。十五年って月日は、自分を変えたんかな。変わらへんものは、何やろな――〉

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