Ghost Of Airline
小原 友紀
第1話 ゴースト・オブ・エアライン
◆
パーティーは全滅した。私たちは一人残らず地に伏した。
私の聖騎士の鎧は、粉々に砕けた。周りでは、仲間たちが息も絶え絶えに喘いでいる。
中でも、暗黒の竜騎士は、ひときわ無念な表情を、血だらけの顔に貼り付けている。地上でさんざん人々を苦しめたこの男は、ここ月の世界では、私たちとともに闘った。
竜騎士の弱さにつけ込み、取り憑いて心身を操っていた、真の黒幕――暗闇の雲は、負の感情を増幅して膨れ上がり、倒れた私たちを見下ろして嘲笑う。
「全てを消滅させるまで、我が憎しみに終わりはない」
呪いの言葉を浴びせられながら、果てようとする私たち――
次の瞬間、黒雲を割って、一筋の光が差し込んできた。光は耳元で何かを囁いている。
かつて共に旅をした、仲間たちの声――魔道士は優しさを、修道僧は力を、吟遊詩人は勇気を、賢者は知性を、旅先で出会った村や街の人々は祈りを捧げている。
地上に立つ彼らが、月を見上げて、希望の光を送ってくる。
選ばれし戦士たちは、死の淵から、一人、また一人と立ち上がる。
聖剣を高く掲げて、私は言い放つ。
「さあ、みんな、今こそ世界に、光を取り戻――」
ブツっ――……
DSの画面は、反撃の光から一転、暗闇に落ちる……充電切れだ。
小原友紀は、ゴロゴロ乾いて痒い目を、無造作にこする。
土佐黒潮大学付属中学校一年寮の一室、暗い部屋に残された唯一の光は、デジタル時計の画面に浮かぶ、AM3:00の文字だった。
◆
「ふわああぁぁ……」
これで何発目か……いくら涙を拭っても、欠伸は次々に押し寄せてキリがない。目の周りがべしょべしょだ。
「手で隠し。中学生になったに、大口開けなちゃ」
夕べ眠れんかったが、と、寮の部屋に入るなり、駆け寄って来たのに。真新しい白の帽子の下で、ガイドブックに釘付けになっている、いつもより化粧の濃いお母さんを、ちろりと見やる。
私は十二歳にして、独り立ちしている。『魔女の宅急便』のキキよりも若い。でも、特別、珍しいわけじゃない。
高知の山村には、大学に行ける高校がない。だから、高学力の子供は、高知市内の中空一貫校を受験する。市内には、難関を突破した子供たちが、県中から集まってくる。日帰りで通えない遠い村の子は、下宿か寮に入って、親元を離れる。そんな生徒が、クラスに何人もいる。高知の「地域性」なのだとか。
私も、小学五年生の妹も、一学期の終了式を済ませ、今日から夏休みに入る。郵便局員のお父さんも、学童保育園パートのお母さんも、休みを合わせたのだろう。
去年は塾の中学入試夏季講習に出ていて、二年ぶりの家族旅行だ。
「興奮しちゅうがよ。そりゃあ、アメリカやき」
お父さんのほうこそ、目の縁を赤くしている。四〇歳にして初の海外旅行を前に、ジーンズもスニーカーも新調して、一番張り切っている。大阪駅のホームのど真ん中、土佐弁丸出しの大声で、皆に知らせているみたいだ。待っている列車は、国際空港行きだから、周りだって似たりよったりなのに。
「あればぁ反対しちょったに、行くの決めたら、仕切るがやき」
腰の重いお父さんに、お母さんが発破を懸ける。事が決まれば俄然、言い出した人より張り切る。見飽きるほど、いつだってそうだ。
初心者なのに、近・中距離のアジア・リゾートなんて半端はしない。一気に太平洋を越えて、家族揃ってアメリカ――時間も、距離も、お金も、さっぱり分からない。凄いことに違いないのは、中一の私も、幼稚園児でも分かる。
「カリフォルニアだけで、北海道から沖縄まで、すっぽり入るきね」
「国全体で、日本の二十五倍やぁ」
お父さんは部下に、お母さんはパートの主婦に、どれだけ羨ましがられたか、挑むものがいかに大きいか、都会の暑苦しさより熱っぽい口調で、競うように言い立てている。
「声、大きいちゃ。静かにしぃや」
反抗期に片足を突っ込んでいる妹の真紀は、簡単には面白がらないとでも言いたげに、張り切る両親を横目で流している。今時の大人びた小学生らしく、胸元レースの花柄キャミソール、デニムのミニスカート、厚底のサンダルを引っ掛けて、トランクに長い脚を組んで座っている。真紀だって、学校の教室では、こんな自慢の種、話さずにはいられないだろうに。
お父さんは会社の人、お母さんは近所の奥さん方、真紀は同級生の友達に、それぞれ熱い眼差しを受けて、堂々の出発だ。
私は――今、私が海を越える、その事実を知っているのは誰もいない。「夕べ眠れなくて体が辛い」のだから、むっつり押し黙っている。目の下の隈は、ニキビだらけの頬に負けずに目立っている。
「なに、あんた、その格好? 小学生でもないで、そのダッサいTシャツと半パン。一昨年も着ちょったやん」
追い討ちを懸ける真紀の一言で、この三〇分間、一切口を利いていない。むわっとして不快な大阪の空をぼんやり見つめて、真夜中にプレイしたRPGゲームの戦闘シーン攻略法を考えていた。
学校、勉強、友達の話題も、アメリカを前に霞んでいる。一学期の悲惨な成績、親のショックも怒りも、一週間前の教育相談で綺麗に流して済ませている。
空の玄関へ行く列車が来た――。
列車の中、お父さんとお母さんは通路に立って、私と真紀の間に大学生らしいお兄さんが半寝入りで座っている。
ぎゅうぎゅう詰めでよかった。いや、うるさいし狭いし、暑苦しい。でも、車で何時間も家族一緒は――正直、息が詰まる。
家にいた小学生の頃、毎日毎日、ずっと顔を合わせて、何を話していたのだろう。
◆
前に空港に来たのは、小学二年生。埼玉の叔父さんの所まで、高知空港と羽田空港を使った。
その時とは比べものにならない広いフロアを、ぎっしりと埋め尽くす人、人、人の大波――海浜花火大会やら、地区民の運動会やら、今までの何もかもが目じゃない。
「お父さん、ようけ人おるで。人酔いするやん」
「夏休みの週末やきね。出国ラッシュいうがやろ。大丈夫、母さん」
建物の中なのに、運動場よりだだっ広い。
「行列に引っかかるろうと思いよった。ほら、見てみぃ」
強ばった表情でカウンターに並ぶ、傍目にも初心者丸分かりの家族。真紀も興味なさげにチラ見している。
人間も入れられそうなでっかいトランク、派手なロゴを掲げた店、コーヒーショップで時間待ちしている外国人。
「えらい並ぶねぇ」
「早めに来ちょいて、よかったろう。何でも、早めが肝心やき」
夏休みの宿題を言っている。いつもながら、お父さんの釘刺しだ。
疲れた顔の受付係が、手早くチケットを渡してきた。
「はい、航空券。失くしなよ。お父さん、次は?」
「手荷物預かり所で、トランク預けるきね」
一つの行動で、『わがまま歩きアメリカ西海岸』を取り出し、「出国の手続き」の章を目で行ったり来たり。場所や方法が合っているか、気になって落ち着かないらしい。大人は全部が分かっていないといけないのだろう。いろんな確認を何度もして、手間だろう。
先に並んでいた前の人の荷物が、係員の手からベルトコンベヤーに載せられる。見る見るうちに、どことも知れない向こう側に呑み込まれてしまった。
「お客様、手荷物の中に、液体類はございませんでしょうか。機内には持ち込めませんので、予めお預けの荷物に入れていただくことになっておりますが」
「えぇ、そうなが? 化粧水もクリームも、いかんが?」
今朝ニュースで両親が大慌てしていたのも、空港全体がやけに慌ただしいのも、昨日どこかの国で起こった事件が原因らしい。国際なんとかが、どうのこうの。親から、周囲から、モニターから、騒がしく漏れてくる。
手荷物検査では、外し忘れたお父さんの時計、お母さんのネックレス、真紀のブレスレットにセンサーがやかましく反応する。スニーカーも脱がされ、紐を結び直すのが面倒だ。
「はぁー、港内でモノレールに乗れるがかぁ!」
いかにもベテランらしい老夫婦が振り返る。お母さんは俯きがちに、お父さんの脇腹をこづいている。
モノレールの箱の中には、ぎっしり人間が詰められて、少しの隙間もない。
高知から兵庫に来ただけで、すでに半日が経っている。太平洋の向こうの大陸に着くのは、いったいどのくらい先だろう。親は「明日の朝に辿り着く」と言ってたけど、怪しいものだ。休みが全部ふっ飛んでしまうのではないか。
サラリーマンとOLらしいカップルに、むぎゅっと押され、窓ガラスに体が張り付く。
モノレールの窓から、街の景色が見える。山と海の高知と違って、高いビルとごちゃごちゃの住宅ばっかりだ。くすんだ大気の上では、真夏らしい青空に、低くて大きい、モクモクの雲がぽっかり浮かんでいる。
もうすぐ、もう少しで、あの空へ飛び立つ――。
◆
午後の日差しが反射して、眩しくチカチカしている。もやもやした光が、モノレールの動きに合わせ……てない?
人形のような光は、古くなったシールみたいに、大地からペろんと剥がれた。
(……ゲームしすぎて、目ぇぼやけちゅう?)
宙空の光は、アメーバかスライムのように、グニュグニュうごめいて……人の姿を象っていく。
(え……へぇっ……ちょっと、あれ!)
テレビのCGじゃない。顔のない女――モノレールの周りを、ぐるぐる飛んでいる。
「お、お母さ――!」
ようけ人がおる所は静かにしぃ、と、目で返される。
見えてない? 乗り合わせた人たちも、誰一人として、浮遊物体に気づいていない。
女の姿を象る光が、ガラス越しに私と向き合う。表情のない透明の顔が、私をじっと見つめている。
磁石が引き合うみたいに、すうっと吸い込まれている。
「――――ひぃっ!」
声を上げそうになって、バッと手で口を押さえ込む。光の塊は、ガラスに当た――らず、すり抜けて、こっちに――。
モノレールを取り囲む奇妙にうごめく光が、目の前で弾けた――その瞬間、無理やり液体を流し込まれたみたいに、胸がつっかえて、胃の中身が押し上げられる感触がした。
「しんどいろう。もうちょっとで、飛行機に乗れるきね」
搭乗口のソファで押し黙っている私を、お父さんがコーヒー片手に覗き込む。親の声もアナウンスも、今はそれどころでなく、耳には聞こえても、頭には届かない。
雨に降られたのに、着がえもできず、濡れたまま授業を受けているような、気持ち悪い感じが離れない。雨水なら、まだいい。何物かはっきりして、よっぽどいい。
〈おーい、聞こえゆう? もしもし、もしもーし!〉
今、自分の内に、自分以外の異物が、はっきり在る。どんなに目を閉じて耳を塞いでも、打ち消すことができない。
〈居留守はやめちゃってやー〉
掌に爪を立てると、棘のように食い込んで、肌に赤い跡がついていく。鳥肌の立つ背中を流れる冷や汗は、港内をガンガンに冷やしているクーラーのせいじゃない。生々しいこの感覚は、夢じゃない!
「……くらやみの、くも」
〈はい? 何、それ?〉
ゲームの竜騎士は、暗闇の雲に、その身を乗っ取られた。主人公を裏切って暗黒騎士に身を落とした男が、私は憎らしかった。でも、騎士だって苦しかったに違いない。その苦しみを、今、この身をもって思い知らされる。
認めたくはない。でも、もう、これしか説明がつかない。
――幽霊だ!
「お、お父さ……」
電車の改札によく似た搭乗口の機械に、航空券を入れようとして、指先が震えて床に落としてしまった。
「ほら、すぐ拾うて。券を機械に入れるで。前の人に従いて行きや」
乗客たちは機械から吐き出された航空券の切れ端を手に、乗降口を抜けて、次々に機内へと入っていく。
〈はーい、飛行機やで。高い高いー!〉
家族にも他の乗客にも聞こえていない――耳じゃなくて、直接がんがん頭に言葉が響く。甲高い、大人の女の声だ。
「何、あんた、もしかして高い所、怖いが?」
二の足を踏んでいる私を尻目に、真紀は悠々と機内へ入っていく。
「……う、うう……」
このまま飛行機に乗ってしまったら、空の密室に閉じ込められたら、どこにも逃げ場がない!
だからと言って――どこに逃げればいい? 今、ここで、何と言えば、みんなに分かってもらえる?
呻き声を漏らして立ち止まる私に、後ろの乗客が苛立ったように咳払いをする。
「お客様? 前の方に続いて、機内へお進み下さいね」
若いスチュワーデスも、怪訝そうに手振りで前へ促してくる。
「何しゆうが! 早う入らんと、後ろの人らに迷惑やろ」
傍目には行動の遅い子供を、当然と言えば当然、お母さんが、強い語気で前へと促す。
今の私には、誰も味方がいない!
〈大丈夫、大丈夫! 今時の飛行機は快適やき、ほとんど揺れん〉
(だ、誰のせいやと思いゆうが!)
〈恐うないで。映画でも観よったら、じきに着くき〉
(違うわ、あんたや、あんた! どっか行ってや、お化け!)
「友紀!」
無理やりお母さんに手を引かれ、強引に機内に連れ込まれた。
「ほら、友紀は窓際の席やで。上から見る街や海は、凄いき」
今、自分の身に起こっている現象のほうが、よっぽど凄い。
◆
(……はぁ)
ようやく飛行機に乗り込めた。高知を出て、もう何時間経っているだろうか。
予定時間を過ぎても、飛行機は一向に飛び立つ気配もない。前に二人並んで座った両親も、そろそろテンションが切れかかっている。
隣のシートの真紀は、航空雑誌をめくり、買えるはずもないブランドのページを、じっくり読み込んでいる。
〈はぁ、て、あんた愛想ないがやない?〉
光のようなアメーバは、もう見えない。でも、頭の中に、誰かの声が確かに響いている、とっても慣れ慣れしく。
〈な、そろそろ、腰据えて話そうや〉
そうだ! これは夢だ。幻だ。気のせいだ。夕べの疲れだ。
〈自分に都合いいように、考えゆうやろ?〉
(見えない、聞こえない、何もない、無視、無視、無視……)
〈無いもんは袖を振っても無いけど、在るのはどうやっても在るで〉
(何で私が……お客さん、周りに何十人もおる。空港やって何千人もおったやんか!)
〈ああ、宝くじ当選並みの確率やね。あんた、運えいやんか〉
(不運や! 何でこうなるが? 私、呪われちゅうが?)
〈ああ、事故現場とか、元住人が悲惨な最期を遂げて……って類か〉
(……空港は心霊スポットなが?)
〈楽しい旅行だけが、渡航の目的やないきねぇ……〉
楽しくない飛行機の旅って何だろう。逃亡、誘拐、辛い別れ……
〈行きはよいよい、帰りは怖い、って場合も、ザラにあるで。空には魔物がおるき〉
病気、事故、ハイジャック……グレムリン?
〈……ま、そんなこんなで、いろいろあって、あたしは空港に住むようになったがよ〉
物語を聴かされているみたいだ。こんなこと、本当にあるのか!
本やテレビで見たら、ありふれた幽霊話だと思っただろう。
ゲームの暗黒騎士の正体が、実は暗闇の雲に取り憑かれた竜騎士、つまり、主人公の親友だったと分かった時、よくある展開なので、さっさとAボタンを押して進んだ。このシリーズの前作も、似たような話だった。
それが突然、自分の身に起こる……とても信じられない。しかも、本当なのだから、ショックは大きい。
〈毎日毎日、旅人を眺めて過ごすがやけどね……一昨日はアフリカ、昨日はヨーロッパ、今日はアメリカの路線やった〉
謎の声は、お化けらしいことは一つも言わない。六月に来た教育実習の若い女の先生みたいに、ひっきりなしに話し掛けてくる。
明るい真っ昼間、バカンスに浮かれるお客さんのムード。姿はないけど声はする、何列か後ろにいる乗客みたいなものかもしれない。
〈ある時な、何年かに一回あるかないかやけど……急に、ピピピっと感じる人間がおる。何千、何万に一人の割合で〉
それが私だというのか――
テレビで聞いた覚えがある。霊に遭ったとき、怖い時と平気な時がある、と。怖いのは悪意をもった他者の霊だけど、不思議に怖くなかったり懐かしかったりするのは、先祖や守護霊なのだ、と。
(あの……幽霊さん、な、名前は?)
〈生きちょった時の? 全然、思い出せんがよ……〉
声に陰りがある。音なのに、薄墨の色を思わせる調子だ。
(どうして死んだかも覚えてないが?)
〈そうや……でもな、波長の合う人間は、あたしと縁の深い人間のはずや。きっと何か手がかりがあると思うがよ〉
(言われてみれば、土佐弁やもんね――じゃ、何て呼んだらえい?)
〈好きに呼びや。荷札見たけど、あんたの名前は、友紀、やな?〉
(うん。じゃ、そっちは……レイで)
とっさに口から飛び出た。
〈えいよ〉
もう少し考えるべきだったか。あっさり承認されて、今一歩遅かった。犬はポチ、猫はタマ、霊はレイ……他の霊と被っているかもしれない。
〈命名も終わったし、出会いを祝して、食事会や! 現地調達やで〉
(要するに、機内食やん)
ウェルカムをつけて呼ぶドリンクと、お父さんのビールのツマミみたいなピーナッツの小袋を手渡された。空腹を逆撫でされて、もぞもぞしていると、例の機内食をでんと積み上げたワゴンが、狭い通路をのそのそ這って来る。
フライト・アテンダント(ステュワーデスと言ったら、言い直させられた)のお姉さんが、一列ごとに一人ずつ、笑顔で話し掛けながら、優雅に手渡している。
「肉か魚か決めちょきや」
お母さんの声がしてすぐに、化粧ばっちりの濃い顔が、脇からにゅっとのぞき込んできた。
「お肉になさいますか、お魚でしょうか」
蜜柑みたいなきつい匂いが、ツンと鼻をつく。パリッとした制服のお姉さんは、大学を卒業したての先生くらいだ。子供にも丁寧な言葉で、微笑みかけている。
「……お、お肉」
もごもご呟くと、笑って頷いてくれた。真紀は注文も忘れて、お姉さんの髪型とメイクを食い入るように見つめて、お洒落の研究をしている。
機内食は、プラスチックのトレーに、プレートがいくつか載っていた。メインディッシュらしい大皿に被せられたホイルを破ると、野菜と一緒にグリルされたビーフが出てきた。
キャラメルかと思ったら四角いバターで、ロールパンはそのままかじった。おまけのようなカップ入りのサラダと、デザートのカットフルーツは一口で食べてしまった。
飲み物も自由に選ばせてくれたけど、コーラにしたら、料理と合わなかった。
〈お味は?〉
(けっこう、おいしい。けんど、幽霊に味言うても、分からんろう)
〈コミュニケーションや。食べ物は万人共通の話題やき〉
(外で食べるが、大体おいしいで。うち、外食が少ないき)
機内食はまずいと、誰かがテレビで言っていたけど、普通においしかった。違う場所、違う味付け、違う食事がとにかく珍しい。
〈お母さん、えい主婦ながやね〉
しょっちゅう話しかけられるのは苦手だ。本当言うと、今もそわそわして落ち着かない。でも、親を褒められたら、返さないわけにはいかない。
〈外でも働きゆうが?〉
(パート……学童保育っていう。学校帰りの小んまい子預かって、宿題見ちょいて、おやつ食べて、遊んじゃるが)
五年生の夏、保育園に従いていって、子供たちと一緒に過ごした経験がある。四つ五つ年下の小さな子供たちが、古くて狭い部屋に所狭しと大勢いた。
憎らしいやんちゃ坊主に不意打ちを食らったけど、大体は可愛らしいものだった。その子たちに話し掛けるお母さんは、家のお母さんとはどこか違って見えた。
一人一人いろんな子供がいる。その中の一人として見ると、お母さんの目に、私はどう映っているのか――ふと、気になった。
〈ふうん、立派にやりゆうねぇ〉
レイの言葉は本当に自然で、言い足した感じがない。
お母さんは早くに父親を亡くし、小さな頃から家の仕事を任され、兄弟の世話をしていた。先生や友達の「えいお母さんやぁ」「おばちゃん、料理が上手いで」という言葉を、今も覚えている。
◆
「飲み物いくら頼んでもえいって、お姉ちゃん」
「ファミレスのドリンクバーみたいやん」
個別モニターの表示は、昨夜の寮の部屋と同じ、AM3:00だ。
最近は、夜が深くなるにつれ、ぼんやりした昼間の気怠さから覚め、目が冴えて意識がくるくる活発に動き出す。
出発時のよそよそしさが嘘みたいだ。夜特有の興奮は、年頃の姉妹を、昔と同じ無邪気な子供らしさで包み込む。
「斜め前のおじさん、さっきから何杯もお酒を持って来させゆうで」
お姉さんたちは子供の夜ふかしを注意するどころか、言葉一つで、すぐに何でも持って来てくれる。
「真紀、オレンジジュースにしよ。さっきのお菓子も貰えるで」
「ご飯の時の、パンとお菓子とフルーツ取っちょいたで」
こんな時間に食べ物、しかも、お菓子やジュースをジャンジャン入れる。お母さんや寮母さんが作ってくれる栄養満点の食事、規律正しい生活を崩す感じに、少しの罪悪感とかなりの興奮を覚える。
「映画やりゆう、ピクサーの『ニモ』」
さすが今時の小学生は、知らない機械にも、すぐ慣れて対応する。個別モニターの操作を教えてもらって、ちらほら眠り始めた乗客を横目に、ヘッドホンを着ける。
〈夜ふかし厳禁。子供は早寝早起きやで〉
「真紀、お母さんらは?」
「大丈夫、もう寝たで」
〈……無視? ねぇ、無視しなや!〉
「マンガ持ってきちゅうで、最新刊。音楽も録っちゅうし」
今時は若いほうが、何でも知っている。
「雑誌にブランド載っちゅう」
「下着もあるで。見てや、これ」
「うわ、なんかすごい変な形。面白いもん、いろいろあるなー」
機内の照明が落ち、互いの顔が見えなくなると、体を包む空気が狂ったように騒ぎ出す。
小学生の頃、夏休みの真夜中か早朝、お父さんたちが起きていない時間に、こっそり二人で、リビングに集まる。
弁当用の冷凍食品を軽く摘み、箱の蜜柑を好きなだけ食べた。取り決めの持ち時間の全て使い切っても、親の目を盗み留守を見計らって、こっそりゲームをやる。誰にも見張られず、好きな遊びを好きにやる状況そのものに、気持ちが高ぶっていた。二人とも絨毯に寝そべって、何時間でも遊んでいられる、何も気にせずにいたあの頃――今やって、そんなもんやろう、と、お父さんは言う。
何物にも管理されないあの空気、今は、はるか遠い宝物に思える。
アメリカでなくても、どこに行っても、行けなくてもよかった。こんな夜が、永遠に続いてくれるなら――
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