プロメテウスの屍

早水一乃

プロメテウスの屍






 僕は人造人間だ。名を学人がくとという。


 名付けたのは父で、学問のとして生涯学び続ける人間であるようにという意味が込められている。父はその言葉の通り、僕が物心つく前から熱心に勉強を教えた。僕は言葉を話し始めた頃には足し算引き算を理解していたし、世の子供達が幼稚園でお遊戯をしている間に掛け算割り算も習得していた。勿論、父が僕に教えたのは数学だけではない。科学、歴史、地理、果ては文学まで……父は柔軟な考えを持っていた。僕が偏りのある人間にならないように、あらゆる事を教えてくれた。父が研究で忙しい時でも、僕は自分で大量の本を読んで学習を続けた。僕が頼めば、父は好きなだけ本を買い与えてくれたのだ。

 僕は4か月前に12回目の誕生日を迎えたが、小学校には行っていない。考えるまでもなく、僕にはレベルが低すぎる。かと言って飛び級して大学に行く訳にもいかなかった――僕の存在は、絶対の秘密トップ・シークレットなのだ。科学、特に生物工学の発展には常に倫理的批判が付いて回る。ES細胞を受精卵から作り出す事にすら批難が浴びせられるのだ。人造人間などタブー中のタブー。重ねて言えば、残念ながら、この時世でも宗教の力は強い。神を気取って人間を創造するなど、天に弓引く行為以外の何物でもない――という訳だ。だから、父は僕を造り出した時、世間に一切公表しなかった。批判によってただでさえ少ない研究費を削られたり、マスコミに追い回されるよりは、僕という成功例をより突き詰めて発展させる方を父は選んだのだ。賢明な判断だったと思う。


「実際、お前ができたのは、小さな偶然が重なった結果と言うのが正しいのだ。1000回試して1回成功するようなものを成功とは言わない」とは父のげんだ。


 そんな訳で、僕は世間から隔絶されて生きている。不満はない。世界には、読んでも読んでもまだ足りない程の書物に溢れている。書物は情報の宝庫だ。

 だが父は、この環境で僕のコミュニケーション能力が低下する事も心配していた。父は、誕生日プレゼントに家庭教師を用意してくれた――一人で学ぶだけではなく、誰かと意見を交わし合うのも学習には重要だ。しかし家庭教師は2か月で逃げ出してしまった。文字通りの逃亡だ、給料さえ受け取らなかったのだから。彼女にお前は早すぎたのかもしれんな、と父は言った。人は自身の想像の埒外らちがいにあるものを忌避するものだ。残念ながら、それが人間というものである。


 僕がどれだけ学習を積み、知識を増やしても、しかし父は僕を造り出した方法を教えてはくれなかった。完成していないものを教える訳にはいかない、とは言われたが――その点に関して、父は非常に頑なだった。僕が父に対して抱える唯一の不満がそれだ。だがどれだけ理路整然と反論を並べ立てようと、父の考えが変わる事はなかった。


 唯一父が教えてくれたのは、僕を造った動機だ。それは僕の6歳の誕生日プレゼントだった――父がくれた一冊の本。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン:或いは現代のプロメテウス』。かの有名な、ヴィクター・フランケンシュタインが造り出した人造人間の物語。現代ではSFサイエンス・フィクション小説の走りとも評される。父はまだ十代だった頃に、何気なく手に取ったその物語に魅了された――と言ってもいい。何せ、それが理由で父は僕を造り出すに至ったのだから。

 勿論それは創作フィクション、しかも今から数えれば200年以上も前に考え出された創作だ。科学考証も何もあったものではない。だが、その物語はとにかく父に鮮烈なアイディアをもたらした。父はヴィクター青年と同じ野望を抱き、怪物の辿り着いた結末に不満を覚えた。ここまで知性を持った生物を生み出したにも関わらず、結果的にただの殺人鬼に貶めてしまったヴィクターに反感を持った。


 


 そして――その結果がこの僕である。天才という以外にどう呼ぼうか?

 その才能が世間に認知されないのは歯痒いところではあるが、父ならばきっと、僕を造り出した方法を確立してくれる筈だと確信している。


 さて、小春日和の今日、僕は定期健診の為の採血を終えようとしていた。我が家の一部屋は処置室としてしつらえられており、様々な医療器具を備えている。全て、僕のメンテナンスの為だ。健康な色彩の血液が注射器に必要量吸い込まれると、父はその針を僕の右腕から抜いて、代わりに小さなアルコール綿を当てた。僕は人並みに痛覚を備えているが、生まれてから何遍なんべんも同じ事をしてきたのだ、今更痛がるものでもない。


「よし、いいぞ――いい」


 父はそう言うと、ぶつぶつと独り言を呟きながら血液検査の準備を始めた。僕はアルコール綿を腕に押し当てながら、腰かけていた手術台から飛び下りる。検査は手伝わなくていいと言われているから、僕は処置室を出て書斎に向かった。父と僕兼用の書斎で、四方の壁が天井まである本棚で埋め尽くされている部屋だ――お察しの通り、地震の時は酷い有様になる。本棚は壁に固定してあるが、まさか本までそうする訳にもいくまい。

 僕は本棚ではなく、部屋にぽつんと置かれている小さな文机に近付いた。その上に、読みかけの本を置いてあったのだ。他愛ないミステリ小説である。僕は父以外の人間とコミュニケーションを取る機会が滅多にないので、こういった小説やドラマ、映画なんかに登場する人々のやりとりを見てコミュニケーションの機微というものを学んでいた。また、創作というものはそれだけで多少なりとも興味深くもある。何故人はXを行うのか? 何故人はYと思うのか? という、無数の質問に対する無数の答えがあるからだ。

 机の足下に置いてある、ソファー代わりの大きなビーズクッションに僕は腰を落ち着けた。しおり代わりにしていたカバーの袖部分を開き、物語の続きを読み始める。……しかし、莫大な資金を回転する建物などにつぎ込んで密室トリックを作るより、ナイフでさっさと相手を刺して凶器もろとも海に投げ込んでした方が効率的ではないだろうか?


「学人」


 僕が首を捻っていると、父がドアを開けて顔を覗かせた。父の目線と僕の目線は、あまりきちんと合った試しがない。父はいかなる瞬間も何処か遠い所を見つめて思索に耽っている。考える事が膨大すぎるのか、それはしばしば独り言となって父の口から零れ落ちる。僕の返事を待つこの数秒の間にすら、父は何事か譫言うわごとのように呟き続けていた。本人に言った事はないが、僕はそれを聞くのが結構好きだった。


 再び。同じように。雷。電気。生命。


 父の呟きは詩のようだ。


「学人?」

「ごめん。はい、父さん」

「今日はお客さんが来る。うちの研究室に、半年前に入ってきた新入りだ」

「えっ――」


 客。この生活においてあまりに貴重なその響きに、僕は思わず浮足立った声を返してしまった。父の研究室の人ならば、ひょっとしたら会わせてもらえやしないだろうか?


「私はお前にきちんとした教育を与える。電気信号を与えれば。怪物のように覗き見させたりはしない。手ずから学習させる。そして再び。次に。孤独は精神を摩耗させる」

「父さん?」

「あ、ああ――だから、お前はしばらくこの部屋にいなさい。私達は処置室で相談事があるから」

「処置室で? 相談って、ひょっとして――次の実験の?」

「実験? いや、本番だ。施行だ。ああ、いや、その通り、実験だよ」

「ねえ、何の実験か教えてもらえない?」

「思考。施行。神の領域――ん、いや、そろそろお前に妹でも造ってやりたいと思っていてな」

「妹!」


 今度こそ僕は飛び上がった。では、僕のような人造人間を再び造り出す目途めどが立ったのだ! しかも、妹という事は、今度はメス型の!

 僕は小説を放り出し、扉から半分顔を出したままの父に詰め寄る勢いでまくし立てた。


「ねえ父さん、僕ももう沢山知識を身に着けてきたけれど、残念ながら実践の経験が伴っていないんだ。将来父さんの役に立つには、そろそろ本格的に父さんの手伝いをしていくべきだと思うんだ。まだ未熟だというのなら、せめて実験の手順を後ろから観察して自分で考える位は許してくれないかな」


 父は僕の勢いに圧され、しばらくぽかんと口を半開きにしていた。しかし次に父の口から出たのは容赦のない言葉だった。


「駄目だ。駄目だ」

「そんな!」


 僕は諦めきれず、日ごろから考えていた推論を口にした。


「父さんが僕に人造人間の研究に関わらせようとしないのは、その方法が非倫理的だからなの? でもそんなの僕の予想の範疇だし、僕は科学の発展と倫理ならば間違いなく前者がより重要視されるべきだと考えている。父さんを批判したりなんかしやしない。それに、父さんを批判するという事は即ち僕という存在を否定する事と同義じゃないか!」

「非倫理的……」


 父はその言葉を繰り返した。そうだ。今の技術で、完全に人工的な物質のみから人間を造り出せるとは僕も思っちゃいない。必ず、実際の――それがどの段階の、どれだけ小さな部位であれ――人間から何らかのリソースを得ている筈なのだ。人間以外の哺乳類も、勿論使用されているだろう。けれどもそれだけでは人間は生み出せない。人間は、必ず人間から造り出される。

 しかし、発展の前には倫理など霞む。今は批判する世の人々も、どうせその技術が実用化に至り生活を豊かにする段階になれば、倫理など忘れてその恩恵に浸るのだ。僕は父さんがどのような過程を踏んで僕を造っていても、決して否定するつもりはない。


「道徳。非道。いや――まさか――そんな事はない。発展こそ、成功こそ全てだ」

「その通りだよ父さん。だから――」

「だが、今は駄目だ」


 にべもない返事に、僕は言葉を失った。ここまで来たら、もう父を説得するのは無理だ。父は独り言を呟きながら僕を一顧いっこだにせずドアを閉めた。僕は一人書斎に取り残される。


 それからしばらくの間、僕はやや不貞腐れながら小説を読み進めていた。探偵役による謎解きの講釈が終わり――現実にもはや存在しない『謎解きをする探偵』という職業が、この時代までフィクションの世界には当然のように氾濫しているという事実は実に奇妙だ――後はやっつけ仕事のような風呂敷畳みを残すのみとなったところで、僕は部屋の外に物音を聞いた。足音だ。それも二人分。――客人が来たのだ!

 僕は小説本を脇に置き、息を殺して書斎のドアに近付き耳を押し当てた。くぐもった会話の声が聞こえたが、内容までは分からない。二人は廊下で長々と立ち話をしていた。


「――じゅ、ですが――はり――」

「いや――にしか――、わた――」

「――した――……」


 途切れ途切れの言葉。断片を繋ぎ合わせるにしてもヒントが足りない。しかし諦めきれずに聞き耳を立てていると、ふと足音とドアの閉まる音が聞こえた。

 これはもしや、処置室に入ったのでは?

 僕はそうっと書斎のドアを開けた。誰もいない。首を伸ばして廊下の向こうを見ると、普段は半開きにしている処置室のドアが閉まっているのが確認できた。これはまず間違いない。可能な限りの忍び足で僕は処置室の前まで行き、またそのドアに耳を当てる。

 研究室の新人のもの思しき高い声と、父の低い声の応酬。それから沈黙。実験の準備をしているのだろうか。僕はそれを直接見られないのを歯痒く思いながら、意識をドアの向こうに集中させた。


 ――がしゃん!


 急に何かが割れるような音がして、僕は思わずはっと身を引いた。たまたま何かを落としてしまったのかと思ったが、処置室の中からは尚も物のぶつかり合う音が聞こえてくる。耳を澄ます必要のない程に盛大な音だ。何か事故でも起きたのか? 僕の身体は進むべきか退くべきか逡巡しゅんじゅんしていた。


「――やめてっ!!」


 その声を聞いた瞬間、僕は硬直した。緊迫した女性の声だ。明らかに演技や冗談ではない。僕はドアノブに手を伸ばし、父に叱られる可能性を考えて一瞬躊躇した――しかし先程の声に満ちた恐怖の響きは、どう考えてもただ事ではない。後でどんな叱責も受ける覚悟で、僕は勢いよく処置室に踏み込んだ。


 ――果たして処置室では、父と見知らぬ女性が揉み合っていた。女性の細腕を父が両手で捕らえ、手術台に押さえ込もうとしているように見えた。僕はその状況を見て、再度躊躇してしまった。と言うよりは、戸惑ったという表現が正しい――父を止めるべきか? それとも、ひょっとすると加担すべきなのか?

 しかし、立ち竦んでしまった僕に向けて、こちらを視界に入れていた女性は「助けて!」と叫んだ。手術台の方を向いていた父がその言葉に振り返り、僕を見て息を呑む。その隙を突き、女性は父に威勢のいい蹴りをぶち込んだ。父は同年代の平均値と比べて筋肉は少ないし、どちらかと言えば痩せこけている。結果的に父は大きくよろめき――女性はそれをさらに突き飛ばし、薬品棚にぶつかった父は低く呻いて床に尻をついた。そのかん僕は、ただ茫然と成り行きを見守っていた。

 女性は床に転がっていた注射器をさっと拾い上げ、僕を押し出しながら自らも処置室を出て、父が起き上がる前に勢いよくドアを閉めた。


「あ、あの――」

「……君、ひょっとして、教授の息子さん?」

「ぼ、僕は――」

「学人おッ!」


 処置室の中から大声が上がり、同時にドアががたんと揺れた。女性は慌ててドアノブを掴み、開かないように力を込める。


「何かここを塞げるものを持ってきて! 早く!」


 今度は考える前に身体が動いた。僕はリビングから一人用の革張りのソファーを運んでくると、ドアノブの下に設置した。女性の手から解放され、ドアノブががちゃがちゃと暴れるが、ソファーの背凭れに阻まれて扉を開くまでには至らない。僕はついでにそのソファーに腰を下ろして息をついた。同じく廊下に座り込み、女性は僕を見上げてくる。黒髪をボブカットに整えた、利発そうな顔立ちの女性だ。まだ20代後半くらいだろうか。久々に父以外の人間と向き合ったので、僕は緊張に喉がからからになる。


「……それで君は、教授の息子さんなの?」


 女性は同じ問いを繰り返した。僕は答えあぐねる。比喩的には、僕は父の――女性にとっては「教授」の――息子という事になる。僕自身も、「父」と呼び続けているのだし。

 だが、正確な答え――即ち僕が彼の手によって造られた人造人間だというのは、誰にも言ってはならない秘密だ。


「そいつはッ、私が造り出したのだ!」


 僕が上手い言い訳を考え出そうとしていたのに、後ろからドア越しに響いた父の怒鳴り声がそれを台無しにした。――それともこの女性は研究仲間だから、僕の存在は機密ではないのか? そういえば、「妹」を造ると言っていた。この人は共同研究者なのだろうか?

 しかし女性は、苦々しい表情をその顔に浮かべた。そして、僕に新たな問いを投げかける。


「君は、生まれてからずっとここにいる?」

「は――はい」

「君は――?」

「……はい」


 僕は結局、肯定を返した。僕が女性の反応として想定していたのは、驚愕や好奇心、或いは恐怖だった。しかし女性はそのどれでもない感情を見せた――怒りだ。

 女性は頬を紅潮させ、眉間に深い皺を寄せてドアの向こうにいる筈の父を睨んだ。


「教授、貴方は何てことを――」

「私は何も間違っていない、私は正しい事をしているのだ。科学への貢献は人類の責務だ」

「違う! 貴方は科学に貢献なんてしていない。貴方がしているのは、ただ無垢な子供を騙して、取り返しのつかない多感な時期をドブに捨てる行為よ!」

「だ――騙す?」


 女性の言葉が引っかかり、僕は思わずそれを鸚鵡おうむ返しにしていた。胸焼けでもしているような気持ちの悪さだ。女性は感情的になり潤んだ瞳を僕に向け、幼児に言い聞かせるような口調で言った。背後で父が何やら喚いていたが、一言も耳に入ってはこなかった。


「いい、君はね、教授の実の息子さんなのよ。教授の離婚した奥さんが、お腹を痛めて生んだ子供。それをあの人は、生まれた時からずっと君を洗脳して騙していた。君が人造人間なんだとね。自分が挫折した代わりに、息子共々そう思い込もうとしたんだわ。あの人は完璧に精神を狂わせている。しかるべき措置をとるべきだわ。勿論君も、普通の子供のように暮らさなくては」


 その内容をいくら咀嚼しようとしても、頭の中は真っ白になったままだった。がドアに体当たりでもしたのか、僕は座っているソファー共々衝撃に傾いだ。


「じゃあ、妹を造るっていうのは」


 女性は微かに顔を青ざめさせ、無意識になのか自身の肩を抱くようにした。


「教授はさっき、私に麻酔を打って押し倒そうとしたわ」


 嘔吐感が込み上げてきて、僕は思わず立ち上がっていた。女性に背を向けてフローリングの床に膝をつく。酸っぱいものが胃からせり上がってきたかと思うと、僕は床の上に消化しかけの朝食をぶちまけていた。


 背後で轟音が響き、ソファーが僕の背中に倒れてきた。自分の吐瀉物に顔をうずめそうになり、咄嗟に首を曲げる。代わりに犠牲を被った肩に、濡れた嫌な感触が染みた。

 僕は若干朦朧としながら、背に乗ったソファーを押しのけて後ろを向いた。女性の上に父がのしかかっていた。手に握られたメスが銀色に光を反射する。女性は殴られたのか鼻血を出し、叫び声を上げて抵抗している。しかし、脚の上に父が体重をかけているために上手く動けないようだ。

 僕は父のシャツの襟首を後ろから力任せに引っ掴んだ。油断していたのか、父は呆気なくバランスを崩して倒れこんでくる。そのまま父の頭を壁にぶつけると、「うっ」とくぐもった声を零して全身の力が抜けた。自分にこんな力があった事に僕は驚く。それとも父が脆弱すぎるのだろうか。僕は咄嗟にメスを奪い取り、父の体温で気持ちが悪い程ぬるくなったそれを振りかぶった。


 父と目があった。

 僕は初めてまともに父の目を見た。


「お前も私の死を望むのか?」


 ――この人はどうして、いつから、こんなに狂ってしまっていたのだろう。何故僕は、何も気付く事が出来なかったのか?


 僕は恐らく生まれて初めて泣いていた。泣きながらメスを振り下ろした。

頸動脈。父の首筋から生温かい鮮血が噴出し、僕はそれをまともに被った。父さん。貴方はとんでもなく愚かだ。血と涙でぐしゃぐしゃに汚れ、今まさに羊水にまみれてこの世にひり出たばかりの新生児のように、僕はただ泣いていた。一つ分かった事がある。僕は、無知なだけのただの12歳児だったのだ。


 父は大量の血を流しながらぴくぴくと痙攣していた。遠からず失血死するのは明らかだった。


「……警察を呼びましょう」


 女性が強張った声で言い、僕はぼんやりとそちらを見た。顎を伝う鼻血を拭いながら、女性は震える唇を開く。


「正当防衛よ。私がきちんと証言してあげる。貴方が今まで強いられてきた生活の事も。貴方は施設に入る事になってしまうだろうけれど、それでもこれからまともに送れる人生の方が、今までの暮らしより遥かに長いわ」


 虚ろな視線を空中に投げかけている、父の肉体を見る。僕の哀れなヴィクター・フランケンシュタインのなりそこない。創造主が死んだら、彼の造った怪物は何をしなくてはならないんだっけ?

 僕は萎えた脚に力を入れて立ち上がった。靴下に父の血が染み込み、嫌な感触がする。それを踏みしめて、僕は女性に目をやった。


「僕は父さんを殺してしまった」


 思ったよりも穏やかな声が出て、僕は内心で少し笑った。ひょっとすると、僕も父から狂気を受け継いでしまったのかもしれない。遺伝学的に何の根拠もないが、僕にはその仮説が自然に受け入れられた。


「待って」


 女性はそう言ったが、僕は背を向けた。父の血潮に染まってしまった服を着替えなくては。髪と顔も洗った方がいい。一仕事終えた殺人鬼のような恰好をしているから、と笑えないジョークを思いつく。巻き込んでしまったこの女性には酷い事をしてしまった。けれども、しばらくすれば元の日常に戻れる筈だ。


 そして僕は、誰の目にも触れない、どこか遠い所へ行こう。

 冷たい海のある場所がいい。

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