三途の川が渡れない
艮 亨
第1話
やっと死ねた。これで楽になれる。そう思ったのに、泥混じりの水が口と鼻に押し寄せてきて、俺は盛大に噎せた。
死ぬ、死んだのに死ぬ。目の前が徐々に白くなっていくのを感じた瞬間、シャツの後ろをぐいと引かれて首が絞まった。おのれ、この上俺から酸素を奪うか。俺が何をしたと言うんだ。
「おい、何やってんだ。渡し船に乗らずに三途の川を渡ろうなんざ、太平洋を泳いで渡ろうとするようなもんだぞ」
気の抜けた炭酸のような声が降ってきて、ようやく俺は、濁流から逃れられたことを知った。不揃いな石が散乱する川辺に横たわっているのだろう、背中が痛い。溺れたせいで、頭もくらくらする。
色の戻ってきた視界をふさぐように、ぬうっと顔が現れた。発酵しすぎたパン種みてえな顔のオヤジだ。俺がまだ咳き込んでいるのに、心配する素振りもなしで大仰にため息をつきやがる。右手には大きな釣り竿を持っている。まさかこれで釣り上げたのか、俺を?
「返事もなしか。ったく最近の若い奴ときたら、死んだって礼儀知らずが治らねえ」
「なんだよオッサン、ピラミッドの落書きみてえなこと言ってんじゃねえ。ってか、喋れねえことくらい、見りゃ分かんだろ」
「んな咳き込みながらじゃ何言ってんのかよくわかんねえよ」
オヤジはひらひらと手を振ると、タオルを俺の上に落とした。場違いのように白いふわふわしたタオルだ。
俺はなんとか身を起こすと、周りを見渡した。
川岸だ。すぐ傍で、ごうごうと音を立てて川が流れているのが分かる。頭上には星も月もなくて、真っ暗だ。それなのに不思議と自分と相手の姿だけがぼんやりと見える。
オヤジは釣り竿をぽいと投げ捨て、パンパンと手を叩いた。
「おい、オッサン」
「オッサンはやめろ」
「じゃあオヤジ」
「おめえみてえな息子を持った覚えはねえよ」
「うるせえ黙れ。ここはどこなんだよ」
「あ?」
コンビニに晩飯を買いに来るしょぼくれたオヤジたちは、俺がちょっと凄むと皆、面白いくらいに慌てて足を速めたというのに、腑抜けた顔のこのオヤジは、ずぶ濡れの犬でも見るような目で俺を見下ろした。
「お前、脳味噌だけ一足早くあの世に行っちまったのか」
「ふざけんな、ぶん殴るぞ」
「よせよせ。馬鹿なことしても彼岸が遠ざかるだけだぜ」
ふわふわの白いタオルは、俺が全身を拭くとあっという間にドロドロになった。オヤジは胸ポケットから黒い手帳を取り出すと片眉を上げて見せた。一々芝居がかった仕草のオヤジめ。
「長谷川新。十六歳、ねえ。高校に入ったばっかで交通事故であっけなく逝去。ご愁傷様だな」
「清々するぜ。生きててもなんも良いことなんかねえし」
「そうだな。可哀想に、小学校中学校といじめられ、ようやく高校で逃れられると思ったのに友だち作りに躓いて一ヶ月で不登校。三ヶ月家に引きこもった挙げ句、深夜、コンビニ帰りに居眠り運転のトラックに轢かれたんじゃぁ、死んだ方が良いって思うのも無理はねえかもしれねえなぁ」
ぎょっとした俺を見て、オヤジはきゅっと目を細めた。
「なんだ、怒んねえのか」
「なんだよ……なんで知ってんだよ」
俺はそこでようやく、オヤジのよれよれのスーツの胸元の名札に目が行った。
「あの世……三途の川課、青少年係?」
「おうとも」
急に視界が明るくなった。まぶしさに目を細める俺を余所に、世界は瞬く間に出来上がった。男は総合病院か役所みたいなカウンターの奥に立ち、いまいち締まらない顔で笑っている。
「ここはあの世の入り口だ。ま、お前みてえなあの世への不法入国者に待ったをかける役所だな」
「はぁ?」
「タダで死ねると思ったか? あの世に行くには三途の川の渡し賃が必要だ。お前、金持ってねえだろ? だからここを通すわけにはいかないのさ」
どういうことだよクソ野郎。
三途の川が渡れない 艮 亨 @ushitora
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