第2話 キャットスピード・ユー その二

 進行役の鳴き声が響き、準備が整ったことを二匹に告げる。


 スタート地点に向かう彼らに言葉はない。

 悠然ゆうぜん赤鳥居あかとりいをくぐるマキシマムの少し後ろをジョン・ドゥはうつむいたまま歩いた。


 ボスの座、スピカ、わけもわからぬままに賭けられたものが重くのしかかる。逃れようのないしがらみが鎖のように絡みついてくる。体が、心が、どうしようもなく重かった。


 このザマで、マキシマムに勝てるのか。


 弱気がふと、心の奥をかすめた。不安から逃れようと見上げた空には一つの輝きもなかった。


 暗い、あまりにも。


 暗幕あんまくのような空が自分の未来に重なった。ジョン・ドゥは初めて走ることを怖いと感じた。


「どうしたジョン・ドゥ、怖気おじけづいたか」

 赤鳥居の向こうからマキシマムの声がする。闇のなか、二つの光が浮かんで見えた。侮蔑を含んだ金色の瞳、そこには傲慢な王の視線があった。


 俺に、そんな眼を向けるのか。


 兄と慕った雄の眼に、もはやかつての親しみはなかった。積み重なった敬慕の情が激烈な怒りに転じた。昂る感情に呼応して黒毛がざわりと波打った。


「舐めるなよ、マキシマム」

 短く、刻むように言葉を放つ。ジョン・ドゥは赤鳥居をくぐり王猫の前に立った。小夜風さよかぜが赤毛を揺らし、猫並外れた王の巨体をさらに大きく見せていた。


「俺が今までお前と走らなかったのは……」

 怒りが怖れを塗り潰してゆく。

 それは、こんなことにならなければ決して口にするはずのなかった言葉だ。虚勢ではない、いつからか心のうちにくすぶりつづける思いがあった。力も猫望ニャンぼうも、マキシマムには及ばない。だが速さなら、速さだけなら……


 俺はお前をしのぐのだ。


「走れば俺が、勝つと思っていたからだ」

 頭二つ分は上にあるマキシマムの顔をジョン・ドゥは鋭く睨んだ。

 最強の王猫はレースにおいても不敗だった。そんな彼との対決をジョン・ドゥはこれまで避けつづけてきた。敗北を怖れたわけではない。偉大な王に勝つことこそを怖れたのだ。

 

自惚うぬぼれるなよジョン・ドゥ、根須鳥で一番強いのは俺だ。そして一番速いのも――」

 

「――俺の方が速い」

 威圧を断ち切り言葉を返す。覚悟を、誇りを、その一言に込めて。


「そうだ、それでいい……己こそが最速と信じる者が二匹いる。ならば駆け比べ、雌雄を決するべきなのだ。衝突を避けて馴れあうなど、猫として間違っている」


 マキシマムは笑っていた。

 強敵に挑むとき、胸踊る冒険に臨むとき、この赤猫はこんな風に笑うのだ。


「マキシマム……スピカは今、どこにいる」


「ゴールだ、彼女はゴールで待っている」


 風が、ざわめきを運んできた。 

 姿を見せない二匹に痺れを切らせたのだろう。観客たちが騒ぎはじめていた。


「そろそろ行くぞ、騒ぎに気づいて人間でも来たら面倒だ」

 

 人間ヒトが寝静まった夜の街で、猫たちの祭りが始まろうとしていた。





 意外なことに声援は割れていた。


 走り手としてのジョン・ドゥの人気は高いが、それでもマキシマムには及ばない。しかし声援は割れていた。

 

 連中のことだ、自分が賭けた方を応援しているのだろう。


 その予測はおそらく正しい。そしてそれは観客の予想が割れている、ということでもあった。

 

「皆、聞いてくれ」

 マキシマムの野太い声にジョン・ドゥの思考は中断される。すべての視線が一所ひとところに集まり犬名木橋に静寂が訪れる。


「今夜のレース、これは王位簒奪ユーサープレースだ。ジョン・ドゥが勝てばこいつが新たなボスとなる」

 淡々とした口調で宣言される王位簒奪ユーサープレースの開催。

 困惑は異様な静けさを呼び、一瞬のどよめきのあと歓声が爆発した。


「伯爵、見届けを頼むぞ」

 マキシマムの言葉を受けてハチワレの長毛種が頷いた。観客の視線は彼ら二匹に向けられている。ただ伯爵の隣りに控えた三毛猫だけはジョン・ドゥをじっと見つめていた。


「すごいことになったな」

 観客ギャラリーたちからそんな声が聞こえてくる。

 レースの結果次第ではマキシマムは引退し、新たなボスが誕生する。それは間違いなく同盟の未来を左右する一大事だ。しかし、同胞たちのなかから批判の声はあがらなかった。

 無論彼らとてマキシマムにボスをやめて欲しいわけではない。それでも彼らはレースを止めようとはしなかった。


 そこには何か、深い考えが……

 

 ないのだろうなあ、とジョン・ドゥはうんざりした目で同胞たちを見る。 

 彼らは皆、みっともないほど浮かれていた。そして祭りの空気に酔いしれていた。

 享楽的な猫たちは、先の不安などどうでもいいと、今この盛り上がりをただ楽しんでいるだけなのだ。


 この、オプチミストどもが……


 ジョン・ドゥははしゃぐ同胞たちを恨めしく睨んだ。


 これは避けられない勝負だ。

 マキシマムによってそういう風に仕向けられた。

 それはいい、奴との決着をつける、その覚悟はすでに定まっているのだから。


 だが……


「……勝ってもボスとかやりたくないにゃ」

 追い詰められた黒猫の口から思わず本音が零れる。


 それは、語尾に「にゃ」の付く子猫あかちゃん言葉だった。


 

 

 

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キャットスピード・ユー オーロラソース @aurora-sauce

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