キャットスピード・ユー
オーロラソース
第1話 キャットスピード・ユー
星が
夕暮れに小雨を降らせた
「吉兆だ」
路地裏の暗がりから空を見上げ、ジョン・ドゥは呟く。
月さえ見えぬ暗天に、
見守ってくれるのか。
星から視線を外さぬまま、ジョン・ドゥは
「少し、急ぐか」
刻限は間近に迫っていた。約束の場所まではまだ距離がある。ジョン・ドゥはアスファルトを蹴り足を速めた。
「黒い……風?」
すれ違いざま、道端に座り込んでいた酔っ払いが間の抜けた声をあげた。
違う、俺は
内なる呟きを証明するようにジョン・ドゥはさらに速度を上げる。後ろ脚に力を込め加速、前足の爪を立てまた加速。景色も迷いも酔っ払いも、すべてを置き去りにして、風よりも速く、何よりも速く。
俺の姿は、あの星にだけ見えればいい。
「ジョン・ドゥが来たぞ!」
橋の
韋駄天、スピードスター、ニュートリノ。勝手に付けたあだ名を呼んで彼らはジョン・ドゥを讃える。
「お前にアジを十匹も賭けてんだ! 負けたら承知しねえぞ!」
そんなことを叫んでいるのは、魚屋の裏手に住むロクデナシのサバ猫か。
「
ジョン・ドゥがそう言えば「二、三匹と言わず、十匹全部くれてやるよ!」と威勢のいい声が返ってきた。
「騒がしい連中だ」
橋の両脇に居並ぶ同胞「
「あそこだな」
犬名木橋を抜けると、
「ケリをつけてやる……」
ジョン・ドゥは呟き空を見た。
いつの間にか星は、輝きを雲に隠されていた。
「逃げずにきたか」
逃げられぬように追い込んだ者が、そんな台詞を口にする。
虎が猫に生ませた子。そんな噂さえある
「血が
額から右目の下まで伸びる大傷は、縄張りを荒らした野良犬との死闘で負ったものだ。同盟の宿敵たる猛犬を打ち倒し、この赤猫は
「くだらん
ジョン・ドゥの声に宿るのは強い怒りとそれ以上の失望。
同胞を守るためなら命も惜しまぬ勇敢な王。
誰よりも強く、誰よりも気高い根須鳥の
だが彼は、その信頼を裏切った。
「そう焦るな。まずは互いがこのレースに賭けたもの、その確認からだ」
「賭けたもの……」
マキシマムの言葉に、ジョン・ドゥの顔が険しく歪む。
出走者同士の賭け、それ自体は別段珍しいものではない。互いに物品を出し合い勝った方がそれを得る。賞品の出ない野良レースなどは大半がこのスタイルだ。
だが、正規のレースでやることではなかった。
何よりジョン・ドゥは、自分が何を賭けさせられ、マキシマムが何を賭けたのか、その一切を知らぬのだ。
「ルール違反……と言っても無駄なのだろうな」
「ああ、俺が出した条件を、お前はすべて飲んだことになっている」
悪びれることなくマキシマムが答えた。
やはり俺は、企みのなかにいるのだな。
そこには周到に張り巡らされた陰謀の気配があった。気まぐれなどではない、王猫は何かしらの目的があってこのレースを開いたのだ。
「手の込んだまねをする。しかしマキシマム、お前の欲しがる物など俺は何も持ってはいないぞ。俺は何を賭ければいい、命でも賭ければいいのか」
ジョン・ドゥは、縄張りも持たない気ままな走り屋。ため込んだ財もなければ、特定の寝床すらない。奪われて困るものなど最初から持ち合わせていないのだ。
「お前には、命より重いものを賭けてもらう。俺が勝ったら白銀の君――スピカを貰うぞ」
唐突に放たれた言葉にジョン・ドゥの黒毛が針のように逆立った。
「ふざけるな! 同胞を物扱いするなど、ボスと言えども許されることではないぞ!」
怒りのままにジョン・ドゥは叫んだ。牙を剥き、姿勢を落とす、返答次第では、マキシマムと今、この場で
「落ち着け、本人の了承は得ている。『勝負に勝った者が自分を求めるなら、それを拒みはしない』それが彼女の言葉だ。そしてこれがその証、スピカの『肉球印』だ」
目の前に差し出された白い紙には、赤いインクで押された小さめの足跡、猫達が使う誓約の証――肉球印があった。
「あっ、肉球もカワイイ」
「…………」
「……いや、その、違う。そういう話ではなくて……仮にこれが本物だとしても、彼女は俺の妻という訳でもないし……彼女を賭けるというのは、やはり――」
「俺はボスの座を賭ける。つまりこれは、
「なっ……」
平然と告げられた一言にジョン・ドゥは言葉を失った。
「マキシマム……貴様、いったい何を考えている」
「真剣勝負だ。互いに譲れぬものを賭け、お前と速さを競いたい」
金色の瞳に狂気の輝きを宿し、堕ちた王猫はそう呟いた。
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