冬の表層
高野悠
雪が少ない冬の話
とても寒い日だった。耳がキーンと痛くて、持ってきたペットボトルの中がシャーベットになってるんじゃないかな、なんて考えた。感覚の鈍くなった手でペットボトルに力を入れる限り、中身はシャーベットを通り越して完全に凍っていた。僕はそれから左手を離し、首から下げていた黒いカメラを両手で持つ。指に触れているはずのボタンが遠くにあるような気がした。僕は無理やりその指を動かして、シャッターを切った。
1
その街へ向かうバスは十分毎、一の位に五がつく時間に来るものだと思っていた。実際にバス停で確認してみると、五分と三五分、0分とあった。バス停はペンキが剥がれかけ、サビが付いている。このバスはいつも時間通りに来ず、今日は7分遅れの十時十二分に到着した。
くすんだ青いバスは僕の前に止まって、車体をこちらに傾けながらドアを開けた。プシューという気の抜けた音は僕が街に向かう音で、これを聞くたびに僕は街に向かっているんだと強く思う。
バスの中には運転手さんと四人の乗客がいた。おしゃれな帽子をかぶったおばあさん、どこかの学校の制服を着た子ども、杖を持ったおじいさん、赤い口紅がよく似合う女性。僕を合わせた全員、黙って紺色の座席に座っている。バス停の名前を見ようとしたけれど、後ろから二列目の席では見えなかった。
「発車します」
ドアが閉まるとバスの車体はちゃんと平行になって、揺れながらその街に向かって走り出した。
いくつかのバス停があって、乗客の数は三人になっていた。ギターケースを背負った一人が手垢のついた橙色の手すりを掴んで立っていた。
降車ボタンは光らなかったけど次のバス停に誰かいるらしく、バスは低速して止まる。車体は気の抜けた音で斜めになり、人を乗せる。乗ってきた人は大きな茶色のカバンを斜めがけにしていた。
「久しぶり」
乗ってきたその人は僕の前に座り、振り向いて話しかけてきた。バスの揺れはその人の髪を揺らす。
「今日はどこまで?」
記憶にない人だ。顔も声も知らないのに、この人とはいつもバスの中で話しているような気がする。
「街まで。君は?」
合言葉のようなやり取りを、以前にもこの人としたことがある。多分。
「終点の、一つ前まで」
ここで会話が終わり、その人は前を向くと思っていたから、話が続いて驚いた。
「今日は面白い写真があるの」
予想外のことに返事に詰まって、何も答えないでその人がカバンを漁る音を聞いていた。数秒も経たないうちにその音はピタリと止まり、その人はまたこちらを見る。
「気になってたんだけど……えっと、聞いていいのかな。とても失礼だけど、誰?」
「え」
君も?と口にする前に、言い訳のようにその人は早口で喋り出す。
「久しぶりだってちゃんと覚えているから話しかけたのよ? おかしな話で申し訳ないけど、久しぶりに合ったはずなのにあなたが誰なのかわからなくて。うまく言えないんだけど」
焦っているのか、その人の視線はうろうろ動く。
「大丈夫。よかった。僕もそうなんだ」
僕が安心したように、その人も安心したようだ。
「なんだ、よかった。それでさ、写真は昨日見つけてね」
彼女はまた前を向いてカバンを漁る。名前を聞くタイミングを逃してしまった。
紙の刷れる音と、硬い音がする。大きなカバンにたくさんの荷物だ。探し当てるのは大変だろう。
「不思議な写真だったから入れてきたんだ。特にどうするつもりもなかったけど」
大きなカバンの中からようやく見つけたその写真は、しおりのように本の最初のページに挟まれていた。
「ほら、これ」
冬の写真だ。
インスタントカメラで撮られたそれには凍りついた大きな滝と、二人の後姿が写っている。二人とも髪が短くて、厚着だ。柵にもたれて滝を眺めている。
滝は、不思議な凍り方をしていた。真っ白に凍っているのではなく、クリスタルの集合体のように、たくさんの平らな面があり、そのほとんどが青空を反射させていた。
白と青の写真だ。後姿の二人よりも高い位置から撮られた冬の写真。青空を反射する滝の様子は見事で美しい。
「何の写真?」
僕はこの写真に写っている場所も、人物も知らない。
「わからないけど……。わかるのは、こっちにいる大きなカバンを持ったの、私」
右側の人物は、確かに大きなカバンを提げている。二人の隙間はその大きなカバン分だけ開いている。
古い写真ではなかったが、少しの汚れと折れが合った。
僕は写真をじっくり眺めてから口を開いた。
「名前、聞いていい?」
その人は、「ああ」と小さく呟いてから名前を言った。
「十希」
その人の髪は肩より少し高い位置で切られたストレートだ。
僕の名前を聞くように、彼女はこちらを見る。
「僕は、蒼」
「珍しいね」
[ソウ]なんてよくある名前なのに、その人は変なことを言う。
「そっちだって」
僕にとって珍しいのは[トキ]という名前の方だ。僕の街では聞いたことはない。
「本当? 私と同じ名前の子もいるのに」
僕の頭の中には何人かの[ソウ]くんが思い浮かんだ。
「それを言うなら僕もだよ」
どうやらその人の住む街の人の名前は、僕の街とずいぶん違うらしい。
その人は手持ち無沙汰になったのか、写真をぴらぴらさせる。
「その写真、さあ」
上下に揺られてはっきり見えない後姿。それでも僕は気付いた。
「何か気付いたの?」
写真を受け取って、大きなカバンを持っていないほうの人物を指差す。
「これ、僕だよね?」
「この人? 見せて」
その人は何度か写真と僕の髪なんかを見比べて、やがて納得したようだ。
「気付かなかった」
どうやら僕の勘違いではないようだ。覚えてはいないが、どうやら僕らはここに行ったことがあるらしい。
「じゃあ、私たちが知り合いなのは、勘違いじゃなかったんだ」
運転手さんが次のバス停の名前を言った。
「でも、どういうことなんだろうね」
誰かが降車ボタンを押した。
ボタンの音が車内に響き、僕らの会話が丸聞こえだったことが、急に恥ずかしくなった。
「一番簡単なのは、記憶が飛んでいる可能性だね」
その人は、そんなことなど気にしない様子で写真を本に挟み、カバンにしまった。
「どうしてだろう?」
僕はさっきよりも声を潜める。
「うーん、そうだ」
「何?」
次のバス停で降りるらしいおしゃれな帽子のおばあさんが、荷物をまとめつつちらりとこちらを見た。
「一緒に探しにいくのはどう?」
「記憶……の探し方はわからないし、写真の場所をってこと?」
その人は頷く。
「そういうこと」
バスが低速する。
「でも、どうやって探そう」
規則正しくバス停の前で、バスはプシューと音を立てて斜めになる。ザラザラと小銭が機械に落ちる音がして、帽子のおばあさんはゆっくりバスを降りていった。
「そうね……とりあえず、終点の一つ前で降りようか。それからどこかで座って話そう」
「僕が降りるバス停じゃないんだね」
道がでこぼこになっているのか、数秒だけよく揺れた。
その人は、罰の悪そうな顔をする。
「あ、ごめん。あなたの降りるバス停知らなかったから。町にバス停はいくつもあるし、もしかしたら同じかと思って」
確かに、「街」としか言ってない。僕は最初に街に止まるバス停に降りるつもりだった。その人が降りるところより、四つ手前になる。
「いや、構わないんだ。こっちこそ余計なこと聞いてごめん」
僕がその人に付いて行くのになんの心配もなかった。毎年特に理由もなく街に行っているだけだから、誰かに会いに行くとか、何かをしにいくとか、そういったことはない。
でも、その人もそうだとは限らない。
「君は、用事ないの? 僕は何も無いから一緒に行けるけど、君は?」
昨日の晩御飯を思い出しているような顔だった。
「何も。ただ、毎年来ているから、今年もこうして」
バスが大きく跳ねて、その人のカバンからはいろいろな音が聞こえる。低い音から高い音まで。
「そんなところまで一緒なんだ」
その人は、カバンの中身が出て行かないよう手で押さえて答えた。バスはまだがたがた揺れている。
「不思議ね」
その人は前を向く。これで会話は終わりのようだった。
僕はその人の後姿に話しかけず、髪がバスに揺られて一本一本がばらばらに動くのを見ていた。
2
乗り物酔いはしないが眠るのは苦手で、目を閉じているだけというのはよくあった。ブレーキを落とすときにかかる圧力、足を動かした時のちょっとした音、誰かが降りる音がよく聞こえる。ちらりと目を開けると、僕らの他はギターケースを背負った人だけになっていた。次が、終点のひとつ前だ。
バスが平行になって発車するのを機に、僕はまた目を開けた。少し眩しいと感じる中、その人の髪はさっきと同じように揺れていた。
今の内に運賃を出しておかないと。僕は黒い財布を取り出して、冷えた小銭を握る。
急にその人が窓枠に付いた降車ボタンに手を伸ばしたものだから、僕は少し驚いてしまった。なんせ直前まで微動だにしていなかったから。次のバス停の名前が呼ばれる前に、その人はボタンを押した。
その音は、バスの出す音どの音よりもずっと響いて、体のあちこちに突き刺さりそうだった。
「次は、小寒です」
被せるように、しかしポツリと運転手さんは言った。始めてくる場所だ。僕はショルダーバックがきちんと体に付いているかを確かめた。左肩にショルダーテープが来て、右腰にカバンがある。その人は全く逆で、左腰にカバンがあった。
低速するバスの中、その人が立ち上がったので僕もつられて立ち上がる。その人はそのまま前に向かって歩き出したが、僕は停車するまで立ったまま動かなかった。
握り締めた左手を動かす。体温に温まった小銭同士が擦れる。
その人は運転手さんの隣、料金箱の前で僕を待っていた。僕が前まで来ると、彼女はお金を入れる。機械音がして小銭が数えられていく。機械に表示され合計は、僕が手に持っている金額と同じだった。僕も彼女を真似して、箱にお金を入れる。タラップを降りていこうとしたとき、帽子をかぶった運転手さんはマイクを外して話しかけてきた。
「その服装で冬の街に行かれるのは寒すぎるかと」
運転手さんは、そのままマイクを付け、返事は求めていないようだった。僕らは無言でタラップを降りた。心地よい温度のバスを降りたとたん、冷たい風が肌を刺す。後ろのバスはプシューと音がして、扉が閉まると同時に平行になっただろう。
バスが向かう終点は青空だった。
「冬の街だって」
春の服を着た僕は呟く。白い息が風下へ流れ消えていく。聞いたことはあるが、見るのは初めてだ。
「凍りそうね」
バス停に書かれた「小寒」の文字にその人は顔をしかめた。彼女は秋の服だった。
「そうだね」
どちらも冬に適していない。雪がなくて、キンと冷たくて、優しくなかった。
「風邪ひきそうだから、先に服買いにいっていい?」
僕は呟くように言った。
これじゃあ凍ってしまう。
「いいけど、私、ここが冬の街って知らなかったからどこに服屋があるのか……」
ここで降ろしといてなんだけど。と、その人は言う。
「僕も同じだ。でも、そういうことはひとまず置いて」
どうやら忘れているのは互いのことだけではないらしい。
小寒は寂れているように見える。まっすぐな道にバスは見えなくなり、他に車は一、二台しか見えない。
「こっちに店があるかも」
その人はバスが走り去っていった道を右として、左を指差す。こっちよりも車が多く走っているのが建物の隙間から見えていた。バスが走る道とちょうど並行に作られた道だ。
僕らはバス停を後にして、その通りに向かって歩く。僕は背を丸めて腕を組み、寒さから身を守ろうとしていたし、その人も大きなカバンを抱えるようにして、やはり背を丸めて歩いていた。
「右、左。どっちに行こう」
大通りについた僕らはそこで立ち止まる。左はシャッターが下りていて、右は時計屋があった。
「そうだね……右」
その人の勘は凄かった。時計屋の三つ隣に服屋があった。
「すごい」
「私も驚いている」
ここに売っている服は暖かそうなものばかりだ。目に付いた上着を一つ手に持つ。
少し多めにお金を入れてきたのが救いだった。もし、そうじゃなければ今頃震えながら帰りのバスを待っていたことだろう。写真の場所を見つける前に、凍え死んでしまう。
「着ていかれますよね?」
お会計途中の言葉は疑問でなく確認だった。
「はい」
店員さんはレジスターの横にあったハサミでタグを切る。ボールペンが落ちそうなところに置いてあった。
「どうぞ。まだ暖かい方だといっても十分寒いですから気をつけて」
服を受け取る。
「ありがとうございます」
コートに腕を通して、やっと冬の街を歩けると思った。
後ろのその人の会計も終わるまで待って、僕らは店を出た。
「これなら死なないね」
その人はダウンコートに目をやりながら言う。
僕は通りを見回した。真上は、いつ雪が降ってもおかしくないような分厚い雲があって、終点の方は相変わらず晴れていた。
「それじゃあ……どうしようか。カフェか、レストランか、どこでもいいけど座って話せるところに行こう。……あんまり高くないところで」
少し多めに持ってきたとはいえ、贅沢していると帰れなくなる。とはいえ立ち話できるほど暖かくはない。今、震えるほどではなくても、僕は寒さに馴れていない。
左手につけた腕時計は十一時十八分を示していて、昼食には早かったけど、寒いからいいか。
どちらかが言い出したわけでもなく、時計屋があった方向へ歩き出す。
「今の出費は痛かったね。油断すると帰れなくなりそう」
「そうなんだよ。でも、今帰るのはもやもやするしね」
手先から冷えて、手袋が欲しくなる。
「今日中に解決できたら一番いいんだけどな。実は、私の家からここ、そこそこ遠くて」
レンガで舗装された道を歩く。時計屋のところの横断歩道で大通りを外れ、右方向に進んでいく。
「街同士は、ちょっと離れてるもんね」
住宅街に差し掛かり引き返そうとしたところで、僕は「昔ながらの」という言葉がぴったり似合う喫茶店を見つけた。普段なら入りにくくて行かない店でも、ここ以外どこに喫茶店やレストランがあるかわからない。
「あの店見てみよう」
立て看板のメニューはサンドイッチにナポリタンなど。これと言って安くはないが、高くもない。なんとなく、こういうところにはナポリタンがあるという、勝手な予想が当たって嬉しい。
「他と比べるのも大変だし、ここでいいか」
どう?と聞く前に、その人は言った
冷え切ったコの字型のドアノブを押して、開かなかったのが恥ずかしいまま手前に引いた。ドアノブの下に「引」って書いてあるのに。ああもう、どうしてこういうのって押してから目に入るんだ。
「笑わないでよ」
「よくあるよくある」
店に入ってすぐ、店員さんが近付いて来た。
「いらっしゃいませ。お二人ですか?」
僕のおばあちゃんくらいだろうか。カウンターの奥のキッチンに立っているのはおそらくその旦那さんで、若い女性がメロンソーダを運んでいた。
「はい」
僕らの声が、微妙に重なった。
「では、こちらへ」
窓際の四人掛けソファー席だ。レースのテーブルクロスの上に、透明の、滑り止めみたいなテーブルクロスがかけてある。頭上にあるステンドグラス風の電燈を見て、僕らは向かい合って座る。
「メニュー決まったら呼んでくださいね」
水と、透明な袋に入ったおしぼりを持ってきたさっきの人は言った。
「先に決めてしまおうか」
僕はメニューを広げた。一冊しかないので二人で見る。その人は水を一口飲んだ。
何にしようか……。ナポリタンでもいいんだけど、なんだか負けた気がする。いや、負けたといっても自分で「ナポリタン絶対ある」って思っていただけで、何も勝負じゃないんだけど……。もう、ナポリタンでいいか。
「僕、決まったからどうぞ」
その人が見やすいように、メニューの向きを変える。
「速いね、ちょっと待って」
その人が悩んでいる間、僕は考えていた。
僕が忘れていたのはその人と、街のこと。けれど、その人の事はなんとなく知っている気がして、冬の街のことはさっぱり忘れていた。いや、忘れていたというより考えてもいなかった。ただ、「街」ということだけ。街は他にもあるのに、僕は、冬の街のことを街としか思っていなかった。
その、忘れたものより写真の場所に興味をそそられる。抜けた記憶に対する感情が全く
ないということと、写る景色が単にきれいだからだろう。
いろいろと考えていると、その人は店員さんを呼んだ。
「はい、お待たせしました」
さっきメロンソーダを運んでいた人だ。
「ドリア単品……と?」
若い店員さんが鉛筆でメニューをメモしていく。
「ナポリタンで」
その人はメニューをパタンと閉じた。
「ドリアとナポリタンですね。少々お待ちください」
店員さんがお辞儀をして去っていく。
「さて、本題ね」
ひじを突き、その手の甲にあごを乗せて、その人は身を乗り出した。
「そうだね。さっき考えてたんだけど、大きく二つ忘れているよね。お互いのことと、街のこと。君も同じ?」
「うん。あなたの事はうっすら知ってるような気がするし、街については考えてもいなかった」
予想通り、僕らは同じ状態なんだ。
「何を忘れているか、そこを細かくしていくのもいいけど……。お互い、はっきりしてないからどうしようもないか」
その人は唸った。
「仕方ないね。記憶って戻るのかな。普通の記憶喪失じゃなさそうだし」
普通の記憶喪失なら――といっても僕は記憶喪失のことなんて知らないけど――全く同じ記憶を失くすなんてないはずだ。
「今あるヒントと言えば、写真くらいか。いや、ヒントになっているのかわからないけど」
そう言ってその人はカバンを漁る。中身は予想を裏切らずいろいろ入ってる。
人のカバンを覗くのはどうかと思い、視線を移す。しかし、席一人分も陣取る大きなカバンだ。
「はい。この写真の場所は、やっぱりわからないよね」
机の上に置かれたのは、もちろんバスの中で見せてもらった写真。凍った滝が印象的だ。
「そうだね。普通忘れそうにないところだけど」
「私もそう思うから、やっぱりこれは無くした記憶の中のものね」
「なんだか、記憶より景色の方が気になるような写真だね」
僕らは笑った。
「ここまできれいな景色を忘れたのはもったいないなあ、私たち。とにかく、この場所があるのは冬の街で確かなはず」
僕はうなずく。
「少なくとも、僕の街にはないよ。滝が凍るような気温じゃない」
僕が住む街は一年中暖かい。寒暖差があるとはいえ、外の水が凍るなんてことは絶対ない。
「私のところも。涼しいけど、ここほど寒くない。あなたは多分、春の街からでしょ?」
また僕はうなずく。
「私は秋の街。夏の街は、滝があると聞いたことはあるけど、凍るなんてありえない」
そうだね。やっぱりこれは冬の街だ。僕がそう言おうとしたところで料理が来た。
「――で、やっぱり冬の街にあるのは確定だと思うんだ」
店員さんが去った後、ナポリタンをフォークでくるくるしながら話を再開させる。
「それ以上のことは今の私たちじゃわからないか」
「店員さんに聞けばいいんじゃないかな。絶対僕らよりも詳しいよ」
「あ、本当だ。さっき聞いとけばよかった」
二人して店員さんの方を見たからか、今彼呼ぶつもりはなかったのにお姉さんが向かってくるのを見て、僕らは慌てて食べ物を飲み込んだ。
「お呼びですか?」
お姉さんは、腰のポケットに入っていた伝票代わりのメモを取り出す。
「あ、いや、注文じゃないんです」
僕がそういうと、お姉さんは不思議そうな顔で「どうかしましたか?」とメモをしまいながら言った。
その人が写真をお姉さんに見せるため、向きを変える。
「ここ、どこか知ってますか? この街にあると思うんですけど……」
店員さんはそれを見て、首を傾げる。
「いや……見たことありませんね……。ちょっとお借りしても?」
僕らは視線だけを動かして、互いを見た。この街で撮られた写真ではない?
「はい。どうぞ」
その人が写真を手渡すと、お姉さんはありがとうございますと軽く頭を下げた。そして、もう一人のおばあちゃんの方へ行き、写真を見せる。声は途切れ途切れにしか聞こえないが、そのしぐさを見る限り、おばあちゃんも知らないようだった。写真はおばあちゃんによりキッチンへと運ばれた。旦那さんに見せに行くのだろう。
再びお姉さんの元に写真が返ってきた。
「ごめんなさい。誰も見たことないって」
急ぎ足で戻ってきたお姉さんは申し訳なさそうに言った。なんだか僕まで申し訳なくなってくる。
彼女はその人に写真を返しながら言った。
「ですが、滝の話なら聞いたことがあります。ええと、行ったことないので場所はわかりませんが、この街には一つ滝があって、多分それ写真に写っているものですね。初めて見ましたから、嘘付いていたらごめんなさい。で、その滝は、変な話のせいで、誰も行かないんです」
お姉さんは一息に言った。
「話、ですか」
その人は言う。
「ええ。といっても単に噂ですよ。誰もが死んでしまうところに滝はある、って話と、記憶がなくなるという話、両方聞きますね。子どものころに皆、年上の子から聞いたものです」
「誰かが確かめたりとかは、しないんですか?」
「そういえば、聞きませんね。私がオカルト話、詳しくないだけかもしれませんけど。誰も、というのは言い過ぎですが、少なくとも私たちがよく知らない程度にしか調べてないのでしょう」
「そうですか」
「でも、物知りな人を知っています。あの人ならわたしより絶対詳しいです。場所、教えますね」
僕らはうなずいた。
お姉さんはメモを一枚ちぎり、線を引いていく。すぐにそれが地図になるとわかった。
「ここが、今いるところです」
紙の左下にある四角に店員さんはぐるぐると印を付ける。そしてまた線を広げる。
「そして……ここが、物知りさんがいる古本屋です。だいたいは店にいるので、会えると思いますよ」
右上に、星マークが描かれる。それから印を繋げるように、線に斜線をつけていく。
「こう行くのが一番わかりやすいですかね。ここから右に進むと大通りに出ますから、左に曲がって、たばこ屋でまた左です」
「ありがとうございます」
僕らがそういうと、お姉さんは地図を畳んで僕に手渡す。
「いえ、これくらいしかできなくてすみません」
またお姉さんは頭を下げた。
「いえいえ。十分助かりましたから。ありがとうございます」
お客さんが彼女を呼んだので、一礼して去っていった。
「噂、不気味だねえ」
その人は言った。
「でも、子供の噂ってことは、あれかもね。危険なところにあるから行くなーみたいな」
僕は言った。
「場所がわからないなら噂の必要あるかな」
「それもそうか。うーん、噂だけが残っちゃったとか?」
僕らは食事を再開させる。話題もひと段落して料理も冷め始めていたから、無言で食べ進める。
食事も終わりが近付いたころ、その人は唐突に言った。
「もう一人いる」
「ん?」
「写真だから、撮った人がいる」
その人は写真を僕の目の前にかざす。手荒に置かれた彼女のスプーンは、音を立てて皿の上に収まった。
「ああ、本当だ!」
驚く僕の前で、その人はあごに手を添え考える。
「私たちがタイマーを設定して撮った可能性もある……でも、それならこんな風に立たないよ。設定した時間に間に合わなかったにしても、どっちかがこっちを向いているのが自然だし」
この写真は本当に記憶のヒントなのかもしれない。わくわくしてきた。
「それに、これ、多分ちょっと上から撮られているから……」
写真では二人のつむじが見える。なかなか見ることのできない自分の角度だ。
「隠し撮り……か、それに近いものだと思う。二階から地上をズームして撮ったくらい、かな」
隠し撮りならわくわくではなくぞっとするが、今手がかりはこれしかなさそうだ。
「これを撮った人、何か知ってるんじゃないかな」
僕の言葉にその人はうなずいた。
「ただ、場所はともかく人は動くから……。怪しい人には会いたくないからいいけど」
「でも、君が写真を持っているってことは知り合いかもしれないね。それ、どんどん色がでてくるやつだから、一枚しか現像できない」
インスタントカメラで撮られた写真をぎゅっと押すと、色が混ざってしまう気がするのは僕だけだろうか。
「そうそう。撮った直後は真っ黒なあれ」
その人は、最後の一口を飲み込んでから続けた。
「この写真を撮ったのが、知り合いならいいけど怪しい人なら二人で逃げればいいか。――まあ、状況は全くわからないけどそろそろ行こうか」
3
「宝探しみたいだ」
店から出たところで僕は言った。
「こんな寒いところで宝探しとはね。見つかんなくても生きていけるのも一緒だね」
「本当? でも、知らずにいくらかは生きてたもんね。写真撮った人は僕らのこと忘れてるのかな」
吐く息が白かった。
「うーん、どうだろう。でも、覚えてくれていないと、こちらからは探しようがないし、困る」
相変わらずの曇り空の下、遠くで車の通る音がする。
「物知りさんが都合よく知ってくれてたら一番いいんだけど」
時計屋の角を曲がり、服屋を通りすぎて、たばこ屋を目指す頃には、喫茶店で温まっていた体温はまた、端の方から冷えてきた。
「そんな都合のいいことあるかなあ」
たばこ屋はまだ見えない。道のずっと向こうに青空があるのが見えた。終点の方角だ。
「あ、たばこ屋」
その人は指差した。開いているのか閉まっているのか、よくわからない店だ。奥からテレビの音がしているから、人はいるらしい。念のため、ポケットから地図を取り出し、確認して進む。
「冷えるね。――あ、あれじゃない? 道に本がはみ出ちゃってる」
なんとか見える距離、雑多に積まれた本がある。
足はじりじりと冷えてきて、きっとそのうち痛くなってくるのだ。
「古本屋……。そういや行ったことないや」
その人は言った。
僕らは古本屋の手前で止まって、中を覗き込んだ。低い棚が道路ギリギリまで出ていて、扉の向こうにはぎっしりと本が詰まってある。
「物知りおじいさん、いるかな」
その人は冷えた手をどうにか温めようとしていた。
店の奥を見るために首を伸ばすと、奥に服の裾が見える。
「えっと、すみません」
一面の本とにおいに圧倒された僕らが声をかけると、おじいさんはピントを合わせるように、何度か瞬きした。
「なにか?」
そういって手に持っていた本を下ろし、ポケットに入っていた眼鏡をかける。
「聞きたいことがありまして」
しかし、本とは全く別の質問であるため、僕がどう切り出そうか悩んでいると、その人が割って入ってきた。
「その前に、ここの方ですよね?」
他に人はいないようだが、間違ってお客さんに話しかけていたら恥ずかしい。
「はい、何か探しものが?」
笑って答える物知りさんに僕らは驚いた。まさか、用件を当てられるとは。
「なんでわかったんですか?」
「何でって、古本屋だからね、ここは。売りにきたか、ひやかしか、買いにきたかしかないじゃないか。その中でも本を持たずに声をかけてくる人は、大抵目当ての本を探しまわってたりするからね。……いや、私の勘が鈍っただけかも知れない」
物知りさんは、その人の大きなカバンを見る。
「いや、合ってるんですけど、本じゃないんです。場所を探しているんです」
僕がそういうと、その人は写真を探す。
「場所?」
写真を出して、その人は言う。
「ここなんですけど知ってます?」
「ああ、これは……。先にこの本片付けてからでいいかい?」
物知りさんは写真を受け取らず、先ほど置いた本をぽんぽんと叩いた。
「もちろんそれは」
積み重なった数冊の本がそれぞれ棚にしまわれた後、物知りさんはカウンターの向こうの椅子に座り、僕らはそれを隔てて向かい合うように立っていた。
「珍しいね、その滝は。ずっと昔に写真で見たきりだよ。ここを探しているのか」
物知りさんは写真を見ていった。
「そうなんです」
「ほとんど誰も行ったことないだろうね、ここはちょっと厄介な場所だから」
「誰もが死んでしまうところにある、と、記憶がなくなるという噂があるのは聞いたんですが、それ以上は」
そういって僕は物知りさんの眼鏡がよくずり落ちることに気付いた。先ほどから彼は何度も眼鏡を上げる。
「仕方ないかも知れないね。私だってこの滝を思い出すのは数年ぶりだ。近くにあるものほど意識が向かないんだろうね。そんなわけで、私も詳しいわけじゃない。君たちが聞いたこと以上の話は――そう、これだ。写真の話は聞いていないかい?」
僕らは首を横に振る。
「写真について私たちはなにも。やっぱりなにかあるんですか」
「もちろん。あの滝の場所では、写真が何より大事なものになる。ええと、ちょっと待ってくれ思い出すから」
物知りさんはそのままぴたっと動かなくなる。僕らまで動かないのもおかしい気がするのと物珍しさに店内を眺める。
「ほとんどが、人から聞いたりどこかで読んだことだから、間違っている可能性もあると思って聞いてくれ。噂、二種類あっただろう」
僕の知っている本を探している最中、急に彼は話し始めたので慌てて向き直る。
「あれの、死んでしまう、といった方は単純に寒いというだけだ」
「ここよりまだ寒いんですか」
想像して、ちょっとぞっとする。
「そりゃ、そうさ。今日はまだ暖かい方だよ。去年はずっと暖かかったな」
そういや、服屋でも同じことを聞いたような。
「なんせ、ここは冬の街だからね。でも、滝のある場所は私達でも耐え切れないくらい寒いんだろうね。それを誰かが死んでしまうくらいと言って、広まったって話しさ」
「写真が関係あるのはもう一つの方ですか?」
その人は言った。
「あの滝には、不思議な力でもあるんだろう。困ったね、わかっていないことばかりだ。凍り方も、普通の氷とは違うように見えるし、記憶がすべて消えてしまう」
「すべて、ですか」
すべて、とは大変だ。なにもかもが最初から自分にはなかったような、そんな感覚がするのだろうか。それとも、それでも僕らのように、特に何も困らないのだろうか。
「ああ、そう言われているよ」
「私たち――言ってもいい? 私たちも実は、記憶をなくしていて、理由があるなら滝のせいだとは話しを聞いて、なんとなく理解したんです」
物知りさんはその話を聞いて、驚いた顔をした。
その人はそのまま少し、付け加える。
「でも、忘れていることはここに関することだけで、それ以外は覚えているんです」
「それは――初めて聞いた話だ。いや、それでも大変なことだね。写真があるから大丈夫だと思ったんだが」
「写真って、何の意味があるんでしょう」
その人は、写真の折れた箇所をなぞる。この薄っぺらい写真に凄い力があったらどうしよう。とてもそんな風には見えないけれど。
「記憶を失くさないためのものだ。の、はずだ。滝の前で一枚でも写真を撮ると、消えるはずの記憶を失くさず持って帰れる」
「どうしてですか?」
僕は聞く。この話しが本当なら、実は、なかなか凄いものらしい。
「さあ、専門家はどこにもいないからね。でも、いつごろからか写真を撮るように言われているよ」
物知りさんは、困ったような笑みを浮かべて眼鏡を押し上げる。
「その滝、どこにあるんですか?」
「ああ、探しているんだったね」
そういって彼は、僕の後ろを指差した。
「その棚に地図が置いてあるだろう? どれでもいいから冬の街の地図を一つ、取ってくれないか」
「これでいいですか」
目の高さにある棚の、一番右端にあった地図を指す。
「ありがとう」
物知りさんはそれを受け取って、広げる。
「探すから、ちょっと待ってくれ」
これはここだから、とか、どこだったか、とか、そんな声はだんだんと小さくなり聞こえなくなる。
「ああ、あった。何もないところだろう。そうか、終点にあったのか」
「終点って、バスの終点ですか? 電車?」
その人は言う。
「バスの方さ」
なるほど。僕らは少し降りるのが早かったようだ。でも、近くでよかった。
「これも聞いた話だけど、一応人は住んでいるようだ」
「町があるんですか?」
「バスの運転手の帽子がなかったから気になって聞いたんだ。そしたら、雪の子にあげたんですってさ」
雪の子? 頭に雪だるまがイメージされる。見たことないけど、多分ふわふわして冷たいんだろう。
「バス停の終点近くに住んでいるんだって。雪の子は……まさか、本名なわけないだろうけど」
その人が、こちらを見て鞄を軽く叩く。
「カメラなら、私持ってるよ」
「それなら、安心だね」
「行くのかい?」
「はい。せっかくの日帰り旅行ですし」
「正直、心配なんだが……。君達、写真を持っているのに記憶の一部がないんだろう?」
「そうなんですけど、それなら余計に気になって。大丈夫ですよ。今のところ、何も困っていませんし」
「そうか……まあ、初めからどうしても行くつもりでいたんだろうね」
僕らは苦笑いをする。どうしても、というほどでもないからだ。ここまで来たんだからというのと好奇心で目指している。下手すれば、なんとなくでここまで来たのかもしれない。でも、そんなこと言ったって仕方がないから黙っていた。
「今後、なにか困ったらまた来なさい。私まで君達の状況を忘れることはないだろうから」
「はい。ありがとうございます」
僕らは頭を下げる。
4
次のバスは十五分後らしい。物知りさんが最後に教えてくれた。
「さあ、バス停に行こうか」
その人はそういって、来た道を戻る。
「そういうや、このルートのバスって十分ごとに来なかったっけ……ううん、僕の勘違いだ」
今日の朝見た時刻表を思い出す。五分と三五分と、後もうひとつなんだっけ。バス停が違うから、全く意味はないけれど。
「待つのは寒いから、次のに乗ってしまいたいな」
大通りまで出れば、空が遠くまで見える。
ぼくらがバス停に着いたとき、バスは遠くに見えた。
「いいタイミングだ」
バスはプシューと音を立て傾いて、ドアが開く。
誰も降りてこなかったし、僕ら以外誰もいなかった。
滝と、記憶について、何か彼女と話そうと、一人仮説を組み立てようとした。写真が大事なのは明らかだ。でも、それ以上のことは思いつかなかった。第一、場所が原因で記憶が消えるってどういうことなのだろうか。結局、ほとんど黙ってバスに揺られていた。
終点までは少し距離があった。その間に建物は少なくなり、やがてなくなった。
「あ、そうだ。キャラメル食べない?」
その人が持つポーチの中にはキャラメルの子袋がつまっていた。
「いいの?」
その人は指先で、何個か摘みあげた。
「久しぶりに食べたくなって買ったはいいけど食べ切れそうになくて。嫌いじゃなければ、どうぞ」
その人が掴んだ何個かを、そのまま受け取る。
「あ、ありがと」
貰っても一つだけのつもりだったから、しばらく手の上に乗せたまま固まっていたが、一つを残して全てカバンにしまう。包装を破り、口の中に放り込む。久しぶりの甘い味だ。
キャラメルがなくなって数分が経ったところだった。
「お客さん、終点に行かれるんですね」
マイクを通しているからか、ぼそぼそした声だった。運転手さんに話しかけられることなんて今までなかったから、僕らは驚いて前を見る。
「そうですが」
というか、もう終点以外どこにも着かない。
「おそらく雪の子に会うでしょうからお使いを頼みます。俺は仕事ですので」
車内を確認する鏡で逆に運転手さんを確認したらしいその人が小声で言った。
「あ、帽子かぶってないよあの人」
太陽が差してきた。
「終点です。よろしくお願いします」
僕たちは降りる準備をして、運転手さんは紙袋を取り出した。
渡されたのでそのまま受け取ってしまう。中身はクッキーだ。お土産によくあるような、缶に入ったクッキー。
「あ、はい。渡しておきます」
これはその雪の子に会わざるを得ないなと思う。
「俺は仕事がありますからね。仕事終わりより早いほうがいいでしょう」
傾いたバスから降りる。言われた通り、小寒よりもずっと寒い。バスは反対側のバス停に止まった。
「何? それ」
「クッキーみたいだね。なんだろう。お土産とかかな」
物知りさんの言ったとおり、冷たく澄んだ空が高くあった。
小寒と同じように、左側には道が見えた。小寒で歩いた大通りの終わりは、舗装されていない砂利道になっていた。そこから脇にそれる道が一つあり、他に道といえばそれくらいしか見当たらなかった。
「この先……くらいしかないね」
その人は靴裏で砂利を転がしていた。
「そうだなあ」
迷ったら厄介だ。口に出すまでもなかったから話題にはしていないが、多分その人もそう思っていた。
しかし、バスはもう行ってしまったし、少なくとも今は一本道だから、迷うことはない。進めるだけ進もうと、止まっていた僕らは歩き始める。
日が照っているからこそ、きりりとした寒さが目立つ。
寒さに負けそうになるその前に視界が開け、目に光が反射する。
「あった」
どちらかが呟いた。
「ここだ」
反射する空は写真よりはるかに澄んでいた。
「こんなにあっさりと……」
ぱたぱたとその人は滝に向かって駆けていく。ちょうど、僕らが写っていた辺りに。
僕もその人の方へ向かう。そのついでに左側、写真を撮った人がいたであろう場所を確認する。この開けた場所は、滝を見るために山を少し削ったのだろう。左右両方は今立っている地面より数メートル高い。右はもちろん凍った滝があり、左は枯木を避けるように、白い家が建っていて、ちょうど丘のようになっていた。新しいものではないが、屋根が崩れていたり、そういうことはなかった。物知りさんが言っていた、住んでいる人がいるならここだろう。
「何かわかった?」
「いや、特に。全く一緒だから、間違いないけど」
その人は写真をぴらぴらさせて言った。
「そうか……まあ、撮った場所はあの家しかないと思うんだ」
さすがにここからじゃ、人がいるかどうかはわからない。
「だろうね」
軽く見たところ、その家に向かう道は見えない。傾斜は登れそうだが、そこまですべきか迷う。
僕としては、場所を見つけたからもう帰っても良かった。謎は残るが忘れていることが冬の街と、その人のことだけだから、特に困らない。
「これ、黙って撮られたとしても、今ここにあるってことは少なくとも私たちは何か事情を聞いているはず。だってこれ、一枚しか現像できないし、少なくとも記憶を失くす前は何か知ってた」
「うーん、記憶を戻そうとは特に思わないけど、そこはちょっと引っかかるな。何か理由があるなら今帰るのは駄目だね。とりあえず、あの家に行く道を探そう」
「どうして、戻そうと思わないの?」
「実感がない、というか、めったに来ない冬の街の記憶がなくたって、何も困らないから、かな」
「無くした記憶について何か思うところがあれば、また違うんだろうけど……。私は記憶の詳細、気にならないこともないけどもう達成感はあるもんね。まあ、家は行こう」
大通りを少し戻れば見つかるかもしれない。窓は見えるがどうも家の入り口は向こう側にあるようだ。
最後にもう一度、ぐるりと辺りを見回す。凍った滝だけがやけに輝いていて、そこだけ別の部品を嵌めたようだった。
僕が先に諦めて、広場から小道に移動しようとしたとき、肩を掴まれる。
「わっ」
「ああ、ごめん」
笑うその人を見て、寒そうだと思った。一段と気温の低いこの場所では、気付けばもう、体の芯まで冷え切っていた。
「どうしたのさ」
「向こう、回りこめそうだよ」
家が建っている方、枯れ草で覆われた地面は一部平らになっていて、道に見えなくもない。歩けないことはないが、道だとするならば、捨てられたのか通る人が少ないかのどちらかだろう。
「入っていいの、ここ」
「さあ。わかんないけど、せっかくだから」
少しためらって、ここで待っているより動いたほうがいいだろうと、後を追う。
枯れ草が折れる軽い音がする。
「寒い!」
その人は立ち止まって僕を待っていた。
「引き返す?」
「うーん、バスがないからそれはダメね。やっぱり、年一回くらいがちょうどいいね、ここは」
「僕はしばらくいいかもしれないな……。あれ?」
僕はその人とは別の方を見ていて、ちょうど彼女が見ていないほうに違和感があった。家がある丘の下、自然な円錐になっているのに一部だけ削れているような。
「どうしたの」
「いや、こっち。変に削れてるなって……ほら」
削れているところまで行けば、ドアがあった。普通のものよりも少し小さい。背の高い人なら屈む必要がありそうだ。
「あ、凄い。丘の中に部屋があるのかな」
「みたいだね」
その人は僕の方を見た。
「入るの?」
白い息が二回分消えるまでの間、僕は黙って考えていた。
「君の言葉を借りるなら、せっかくだし」
ノックする覚悟を決める、なんていうと大げさだけど、僕は冷えた板の温度を考えていた。呼び鈴も何もないから、ここを訊ねてくる人はいないか、正式な玄関でないかのどっちかだ。
扉を叩いた後、誰かが出てきて欲しいような、欲しくないような気持ちで待っていた。
しばらくしてドアの向こうで何かの音がした。
「あ、誰かいるみたい」
「本当」
後ろに立っていたその人には聞こえていないみたいだ。
すぐにドアが開く。立っていたのは銀色の髪をした少年で、ジャージか学ランのような服の上にマフラーを巻いていた。頭にはバスの運転手さんと同じ帽子をかぶっていた。彼の服装はどう考えても薄着で、寒そうだった。ドアの低さはきっとこの子に合わされているのだろう。そう考えればぴったりな高さだ。
「わあ、久しぶりだ。入ってくださいよ」
久しぶりという言葉に僕らは顔を見合わせて、そのまま家に通される。
暖かい色の電球に照らされた部屋は、それに反して寒かった。風がなくなった分温かく感じるが、おそらく気温は外と同じ。
「さっき運転手さんから連絡があったんですけど、まさかあなたたちだとは」
「連絡?」
荷物も預かっているし、そのことだろうか。
「はい。見逃しちゃあ大変ですから」
よそよそしい僕らを見比べて、マフラーの向こうから声を出す。
「えっと、去年も来てくれてましたよね」
「本当に?」
詰め寄る僕らにその子は一歩後ろに下がった。
「そうですけど……」
その子ははっとした表情になった。
「覚えてないんですか?」
「どうも、この町のことだけは。あ、そうそう。聞いてると思うけど、お使いというか荷物運び頼まれて。はい」
滝の近くにいる以上、忘れないうちに渡しておかないと。よくわからないところだから、何が起こるかわからない。
「え、あ、ありがとうございます……」
「うん、よくわからないけどバスの運転手さんから預かってさ」
「そう。クッキーみたいよ」
「なるほど……。いや、それよりも」
雪の子は僕らに、座るようにすすめた。
「覚えていないなら、僕が悪いんです」
5
「僕は雪の子って呼ばれています」
いつまでも謝りそうな雰囲気だったので、それをどうにか止めて今になる。 丘の中にあるこの部屋は簡素な作りで、ここに元からあった椅子二つに僕らは座り、ついさっき雪の子が上の階から運んできた椅子に、彼が座った。端に簡単なキッチンがあるだけで、がらんとしていた。丘の中に作られているようだから、どこかに繋がる換気扇はあっても窓はなかった。外から見えていたのは上の階だろう。
「よかった、やっぱり君が雪の子なんだね。運転手さんがそう言っていたよ」
彼が雪の子だと確認する前にクッキーを渡していたが、間違ってなかったみたいだ。
「その帽子、おそろい?」
隣に座るその人は聞いた。もしかしたらバス会社と何か関係あるのかも知れないと、僕も気になっていた。
「これですか? 寒いから、無いよりはましだろうって言って、貰いました。きっとお二人さんが会った人です。多分、ダメなんでしょうけどね、何も言われないからかぶったままです」
雪の子は帽子を外して見て、また頭に乗せた。
「囲われてるだけましだけど結構寒いよな、ここ」
ぐるりと辺りを見渡しても、暖房器具のような物は見当たらない。キッチンも、きれいに片付けられているのか物がないのか、がらんとしていた。
「僕は平気なんですけど、やっぱり寒いですか」
「私たち、寒いの馴れてないからね」
室内でも息は白くなって、これも、去年見ていたのだろうか。
「じゃあ、長居はダメですね。早くお話ししないと」
「話?」
「記憶のことですよ。ちゃんと、話しておかないと……。だから来たんでしょう?」
「どうだろう」
僕はクリーム色の壁から彼女に目をやった。僕の家にも、こんな色をした壁がある。
「微妙なところよね。滝は探していたけど、ね。大事なこと忘れているんなら何らかの感情が残っていたりするのかもしれないけど」
どこか現実感がないのはこの街を忘れている弊害なのだろうか。彼女はいつまで経ってもその人で、知り合いだろうという事実もやはりどこかふわふわしている。
「旅行先のことだけきれいさっぱり忘れても、困らないし、雨で流れたとかと同じだから」
「はあ……」
自分でも思うあっさりした反応に、雪の子はどこかあきれたような顔をしていた。
「あれ、きれいさっぱり忘れてないんですか? そう、さっきもこの町のことだけって言ってましたよね。本来なら、何も残らないんですが、どうしてですか?」
「どうしてって言われても、わからないんだよなあ僕ら。ある程度聞いてきたから全て忘れるのとかは知っているけど」
「そうなんですか。なんだろう、話が早いなって思ってました」
「写真を撮ったら大丈夫なのに、写真はあるのにどうしてだろうっていうのも考えたけど」
「やっぱり、何にもわかんないよね。わからないことばっかり」
「あ、写真持っていてくれたんですね。その写真渡したとき、とっても怪訝な顔していたので、捨てられたと思ってました」
知らない人から急に手紙を渡されたら、そんな顔もしてしまうかもしれない。
「本に挟まってたのをたまたま見つけてね。これ、知ってると思うけど、見る?」
もうここまでくると、鞄を漁る必要もなくなったようだ。
「写真、なんで見せてくれたの?」
「え? うーん……。不思議だったしね、知り合いぽかったから、話題にできる相手もいないしって感じかな……確か」
雪の子は写真をひっくり返したり、汚れているところを見ていた。
「ちょっと汚れてるのは僕が急いで渡した後ですね。撮った写真、二度見るのは初めてなので新鮮です。……でも、なんでだろ。撮ったらいいはずなのに」
「僕たちじゃお手上げだ」
「なんで、といえば、写真で記憶を無くさずにすむ原理ってあるの?」
魂を抜かれる、は聞いたことあるけど、これはその逆みたいだ。
「科学的に調査できるような場所ではないですから、もしかしたら全部見当違いな話かもしれませんよ?」
僕らは頷いた。
「記憶に、あなたの居場所はここですよって知らせるためだって聞きました。迷子にならないように。でないと、滝がきれいだから吸い込まれるみたいで」
意味がわからないと思いますが、と付け足した。
つまり、僕らの記憶の一部は迷子になって帰って来られなくなったのか。
「冷えてきたね。動いてないからか」
「去年は……とても寒い日でした。たまに来る人も、凍えるような日には来ないので油断してました。それでですね、バス終点で誰かが降りると、僕に連絡が来るようになっているんです。今日もそうでしたし、その日ももちろん。でも、凍えるような日はうまく動けなくて。なんと言うか、寝起きの時みたいに。いつもはちゃんと声をかけてから写真を撮るのですが、それもできず。何とか二階から撮ったのがそれでした」
「だから後姿なんだ」
「そうですそうです。汚れているのは、写真を手に持ったまま丘に手を付いちゃったからです」
「となると、徒歩とかで来たらダメなのね」
彼女はキャラメルの入ったポーチを取り出し、一つ雪の子に差し出した。
「車だとわかるんですけどね」
「聞こえるんだ。凄い」
僕が耳をすましても、秒針の音しかしない。物が少ない家なのか、家電の音は聞こえなかった。
「ここ、静かだから結構響くんです。たまにどうやってきたのか無音で来て帰っちゃう人はどうしようもなくて、たまに聞く記憶をなくしちゃう人は、そういう人です」
「怖いところね」
雪の子は苦笑いして言った。
「そうなんです。そのための電話で連絡があるんですが……。まあ、何も知らずに僕が知らないうちに帰っちゃう人なんて、ほとんどいないんですけどね」
「ここまで結構あったもんね」
バスで何分だったか覚えていないが、僕らなら行き倒れそうな距離だ。
「あ、もしかして」
雪の子は言った。
「何か? 誰か来たとか」
僕はドアの方を見た。
「後姿がダメなんじゃないかな、と思ったりしまして」
「後姿?」
彼女は言った。
「今までに例がないといったら、それくらいしか思い浮かばなくて。記憶をなくしてしまう原因は滝なんです。その滝の方を向いていたから、写真では敵わなかった……とか。どうでしょう」
「そう言われたらそんな気がするから、多分そうだよ」
僕が笑って言うと、雪の子もつられたように笑う。そして立ち上がった。
「写真を撮りましょう。正面からの記念撮影だけは確かですから」
冬の表層 高野悠 @takanoyu-
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