俯かずに歩く

 夜遅くに酔った専務が訪れた時、私は真昼と眠りかけていた。

「どうしたの?こんな時間に。なおくんは?」

「なお、なお、なおだ。あれがずっと取り戻したかった息子だ」

「社長のおうちにいるの?」

「ああ、今日は大山の家に泊まるそうだ。引き取って育ててやるとか抜かしやがる。あいつをおかしくしたのは、バカ娘じゃないか」

 専務らしくない、乱暴な口の利き方だった。

「大山の家はまだ、俺がママのことを忘れたと言えって言い聞かせてると思ってる。一番辛いのがなおだなんて、何にもわかってないんだ」

 どさりと音のしそうな座り方をして、上着を投げ出した。


「親父に叱られてきた」

 ぼそりと専務は言った。

「大山との取引を切ってくれと頼んだ。そうすれば、少なくとも問題はひとつ解決する。直喜の状態が改善すれば、真弓と真昼と……」

「ダメよ、そんなこと」

 専務は首をゆっくり横に振った。

「叱られたよ。地域限定企業にお家騒動の噂が流れたら、ただで済むかどうか考えろって。若い女を作った挙句に妻から子供を取り上げた、なんて噂を親戚伝いに流しかねない。そんな経営者のある会社と、新規取引したがる土地持ちがいるかって」

 今ですら、それに近いことは言われているのだ。取引を切ったりすれば、外に向かって言いそうな気はする。そうすれば、社長の危惧は高い確率で起こり得る。そんなことはさせられない。河埜不動産の経営に、私のためのリスクなんて負わせられるわけがない。


 直喜は自分が「普通じゃないこと」を知っていた。私たちの今後の生活について、彼の意向を考えずに話を進めるわけには行かない。急激にではなく少しずつ馴染ませていこうと話し合い、社長にもそう伝えた。直喜が思春期に入る前までには、生活と共に籍を同じくすると。それでも真昼はまだ小学校の入学前だろうし、私に信頼を置いて貰えれば、専務の生活能力が失われた場合でも私が保護者になることができる。どうやっても直喜を守らなくてはならないと考えている専務の、結論だった。カルト集団に戻されることも、前妻の実家に持って行かれることも、けしてさせないと。親戚づきあいと会社経営の前面に立つ社長を、前妻の実家と表立って揉めさせるわけには行かない。だから一番リスクの小さな方法を選んだ。


 前妻の実家もきっとジレンマだったのだと思い至ったのは、ずっと後だった。娘がカルトに入れ込んだことに一番傷つき、理由を求めて攻撃しなければ、遣り切れなかったのだと。けれどもそれは幼い直喜をますます混乱させ、数年後に河埜不動産との取引を失う原因になる。ともあれ、彼らが直喜に吹き込んだ「真弓お姉ちゃんのせいで、僕にはママがいない」は、ずいぶんと尾を引いた。




 二年の間に、私は派遣先の会社に誘われて正社員になった。景気は回復せずにいたので残業が少ないのは幸いとしか言いようがなく、小さな子供がいるからと言い訳しなくても定時に帰宅でき、安定した所得を得ることができるようになった。

「どんどん独立していっちゃうな、真弓は」

「運が向いてるだけです。ひとりにしないで」

 部屋を訪れる専務に、真昼は「パパ」と呼びかける。座っていれば膝を独占し、時々泊まる週末には同じ布団で眠りたがった。


 直喜は少年サッカーのチームに入り、表向きは一応安定した。けれど前妻の実家に吹き込まれたことと、記憶の喪失を自覚し始めたことによって苦しんでいた。まだ小学生の子供にそれを強いた前妻を、専務は憎んではいたが、だからといってどうすることもできない。

 直喜の記憶のサルベージ作業は、彼が「思い出すことに耐えられる」大学生になってから行われ、そこから一気にすべて邂逅に向かうのだが、今ここでそこまで語ることはできない。


 真昼は一人遊びの好きな、手のかからない子供だった。黙々とブロックを組み立て、出来上がったものが気に入らなければバラバラにして組み直すような遊び方をしていた。思えば私とふたりだけの生活で、退屈せずに過ごすための彼女なりの知恵だったのかも知れない。毎日目に見えて育っていく真昼は、私の希望であり専務の慰めだった。私には会おうとしなくなった直喜も、真昼にだけは会うような日が来るようになっていた。



 直喜が小学五年生になった夏、彼は自分から希望してサッカーチームの合宿に出かけた。真昼は四歳になるところで、私がはじめて直喜を目にしたのより、一つ下だ。小柄な真昼が気になって、食生活に気を使おうとして思い起こしたのが、直喜のためにと「ほほえみ幸福会」と接触した前妻のことだった。

 何か間違ったのかも知れない、考えが浅かったのかも知れない。けれど彼女の根本は、やはり子供を気遣う母だったのだと改めて思う。夫との意見の違いに疲れて、息子への関心がより偏っただけだったのか。知りようのない彼女の感情は、まだ集団の暮らす村の中だ。

 ともあれ、私と専務と真昼は三人でのんびりと、小旅行をした。川遊びのできる場所で、小さな魚を見つけた。


「パパ、お兄ちゃんは?」

 真昼が無邪気な顔で専務に訊く。

「お兄ちゃんはサッカーだよ。まーちゃんは、パパだけじゃだめ?」

「お兄ちゃんにも、魚見せたかった」

 その時に全員とニュートラルに接することができるのは、真昼だけだった。直喜は私とはけして顔を合わせなかったし、社長夫妻は真昼を可愛がってくれてはいたが、非嫡子である孫は河埜の家の人間だと認めているわけではなかった。

「お兄ちゃんも、パパと一緒にお泊りに来ればいいのにね。まーちゃんに、ご本読んでくれればいいのに」

 余所の家では父親が一緒に生活しているものだと、彼女は知った後だ。

「そうだね。いつかお兄ちゃんもお泊りさせようね」

 専務は優しく真昼に答えたが、表情は寂しげだった。


 宿ではしゃぎ疲れた真昼が眠った後、ふたりで少しずつお酒を飲みながら、ぽつりぽつりととりとめもなく話をした。真昼が小学校に入るまでなんて期待はできないとか、直喜が変声期を迎えたようだからますます扱いにくくなるとか、主に現状維持になってしまうことの確認事項だ。

「真弓は、いくつになった」

「いやだ、今更。二十七です」

「娘盛りの一番綺麗な時期に、苦労ばっかりさせたな」

 専務はするりと私の肩を撫でた。


 強いられたわけじゃない。専務に会いたくて部屋に押しかけたのは私だった。反対されても真昼を産むと決めたのも私で、経済的な補助を断ったのも私だ。全部私の意のままにしたこと。意のままにならないのは、直喜が私を受け入れてくれないことによる困難だけだ。けれどそれは、誰かが解決してくれる問題じゃない。根源にあるものの種を蒔いたのは、やはり私なのだ。

「ずいぶん、待たせることになっちゃったな」

 必要のない後ろめたさを、専務に抱かせたくない。私は不幸じゃないのだから。

「待ってなんて、いないもの」

 専務の口調をひっくり返すように、返事する。これからがどう進むのかなんて、私にもわからない。けれど、遠くに一際輝いて見える未来がある。

「黙って待ってたり、してません。一緒に歩いてるつもりなのよ、これでも」

 こちらに向かってくる人に手を差し伸べているだけでは、どれほどの力も持てない。


 歩み寄りながら、同じ方向に向かって進みたい。速度が一定しなくたって、時々置いてきぼりにされたり、自分が先に進んでしまったりしたとしても、必ずいつか私たちが心も身体も共にある日が来ると、そう願って。冷たい風に怯えて佇んでいるだけでは、凍えてしまう。まだ北風は、吹き続けている。

「どんどん強くなるな」

「ええ、強くなる材料を得ましたから。手放せないものも、守るものも、守られたいものも」

「置いていかれそうだ」

「いいえ、同じ場所に到達したいんです」

 向かってくる風に怯えずにいるために、胸に背中に、たくさんの愛を抱えているのだ。専務への想いも、真昼の愛おしさも、両親の慈しみもすべて、私に勇気をくれる。


 大丈夫。冷たい風を受けても俯かないで、未来に向かって歩いていける。穏やかで優しい陽だまりを、作り上げるために。その時に自分のしたことを後悔しないために。


 私の恋は、成就したまま終わりを告げない。そのために北風を、顔で受けても。





 パジャマのまま新聞を広げる専務、いや和則さんの前に、紅茶椀を置く。

「ありがとう」

 これが私たちの、求めていた生活だ。


 二十年に及ぶ日々を、これ以上事細かには語らないでおこう。その間には直喜の思春期もあったし、社長が亡くなったことによる遺産問題もあった。前妻の家との軋轢は長引いたし、直喜の記憶をサルベージして彼を一時的に混乱させたこともある。

 けれど私たちは、お互いを必要とし続けた。求めたものは実にありきたりな、普段着の生活でしかない。大学生の真昼が笑う。

「私が生まれたときからパパとママなのに、新婚さんなんだよね」

 庭に、今年最初のバラが咲いた。



fin.

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北風を、顔で受けても 春野きいろ @tanpopo

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