止まない風の中に
取り戻された息子と共に専務は育った家、つまり社長宅と自分のマンションを行き来し始めた。忙しい仕事を抱える男一人で子供を育てることは難しく、かと言って自分の両親とは言え経営者のトップである社長と生活はしたくなかったらしい。歩いて数分の距離だから、直喜には帰る家がふたつできただけだが、それが正しいことかどうかは誰にもわからないだろう。
はじめのうち、二年近く前まで自分の在った環境を物珍しげに見回していた息子は、表面の部分だけ徐々に落ち着いた、らしい。子供だからすぐに慣れると周り中が思い、私の部屋に訪れた専務も、近いうちに会わせようと言った。継母になることに多少のためらいはあったが、できうる限りの努力はするつもりだった。
落ち着いて見えるのは表面の部分だけだと一番最初に気がついたのは、新学期から通い始めた小学校からの連絡であったらしい。小さなトラブルがいくつも続き、専務は何度も小学校に通っていた。社長宅に直喜を預けて真昼を風呂に入れにくる専務は、自分のどっちつかずの生活に疲れていたと思う。その頃の私たちにセックスはなく、連れ立って外出することもなく、食事を共にすることすら稀だった。それでも彼は、私に当り散らしたり苛ついた顔を見せたりはしなかった。
「早く、真弓と真昼を安定した状態で迎えられるようにするんだ」
焦っても結果が悪くなるだけなのは、私も知っている。急がば廻れ、そんな言葉が出てくる。
学校の担任とタッグを組んだ直喜の教育は一応の成果を見せ、専務が安心し始めた頃に、真昼は歩くことを覚えた。一歳の誕生日の何日か前、得意げに足を踏み出した彼女に、私はカメラを向けた。専務に電話で報告をすると、直喜が眠った後に車を飛ばしてきた。
「今の救いは、君たちだ。真弓がいてくれて、どれだけ救いになっているか」
胸に抱かれるぬくもりが、誇らしい。私が彼の支えになっていると言うのだ。
直喜は「壊れて」いた。祖父母や父との生活が軌道に乗ると、彼は村にいた二年弱の記憶を失くした。誰と一緒にいたのか、どんな生活をしていたのか覚えておらず、それを不思議にも思わない様子だという。母についても一切覚えていず、孫に会いに来た元妻の両親は、それを専務の思惑だと思ったらしい。縁戚で取引先である人間たちに、強い否定の言葉は使えない。月に何度か会わせろという申し出も、断る理由がない。
私のほうの生活に、大きな問題は発生しなかった。幸い真昼は丈夫な子供で、病気らしい病気もせずに一歳の誕生日を迎えた。専務は早い時間から部屋に訪れ、言葉を理解しているのかどうか怪しい真昼に、絵本を読んで聞かせる。プレゼントが一粒の真珠なのは、いささかロマンチックすぎるかも知れない。
「大人になるまで真珠を増やし続けて、ネックレスにしてやるんだ」
「二十粒少々じゃ、ネックレスにはならないと思うわ。それに、真珠はくすむのよ」
「そうなのか?」
がっかりした顔がおかしくて、笑いあう。穏やかな幸福の夜は、真昼を間に挟んで過ごす。直喜は実家に泊まることになっていると、安堵の顔をしている。
「親父もお袋も、たまには気を抜いて来いって言ってくれたから」
同居していない両親でさえ、専務の気の張る育児を心配していた。
母を忘れてしまっているのなら、私が生活の中に入っていくのは容易だと思っていた。直喜の壊れた部分を一緒に修復して行ければ、そんな風に甘く考えていたのだ。そんなに簡単なことではないのだと、専務の疲れ方を見て気がつく。あれほどまでに取り戻したかった子供なのに、生活の張りよりも困惑のほうが大きいのだ。
直喜を伴った専務と、真昼を動物園に連れて行った。直喜は可愛らしく、歩き始めた真昼の手を引いてお兄ちゃん気取りだった。これならばすぐに慣れるだろう、そう思ったのは私だけではなかったようで、専務も心なしか安心したような顔をしていた。
「真弓お姉ちゃん、まーちゃんは鳥が好きみたい」
そんな風に小さい身体で真昼を精一杯抱き上げ、檻が見えるように気を遣って見せたりもする。もともと優しい聡明な子であるのだろう。私と専務の関係をどう捉えているのか、私には彼が壊れているとは思えないほどだった。片言でしか喋れない真昼も、嬉しそうに彼の後を追う。傍から見れば少々若い母親かも知れなかったが、私たちはきちんと家族に見えていたろう。
休憩所で昼食を摂るとき、私は真昼用に紙パックのジュースを出した。直喜に幼児用のそれは小さすぎたし、彼は彼で自分用の飲み物をオーダーしていたのだ。
「まーちゃん、それ見せて」
専務が席を外しているときだった。真昼の小さな手から毟り取った紙パックのジュースを、直喜は一息に飲み干した。驚いた真昼が泣き出し、私は水分補給用に持っていたストックを慌てて出した。
「なおくんも飲みたかったの?赤ちゃん用じゃ、おいしくないんじゃない?」
「飲んじゃえば、返さなくていいんだ」
素直に欲しいと言えば、なんでもない話だ。
「はじめから、頂戴って言えばいいのよ」
「僕にくれないのは、まーちゃんとのサベツだから」
差別? 小学校三年生の語彙には、少々異様だ。
「サクシュする人間とサクシュされる人間ばっかりなんだ、外の世界は」
「外の世界って、どこのこと?」
彼のいたカルト団体で得た語彙なのかも知れないが、記憶を失くしたと聞いている。
「わかんない。全部外」
叩き込まれた言葉と思想は、まだ彼の中で生きていた。
ベビーカーで眠ってしまった真昼を専務に預け、手洗いに立ったほんの数分のことだ。戻ると真昼は火がついたように泣いており、専務が抱いて一生懸命にあやしていた。直喜は隣で清涼飲料水の缶を傾けている。
「どうしたの?」
「いや、コーラ買って戻ってきたら泣いてて。オムツは汚れてないし、虫に刺されたわけでもなさそうだし」
「まーちゃん、急に泣いたんだよ」
泣いている真昼を専務から受け取り、泣き止ませるのに時間がかかった。
私の部屋に直喜を寄らせる気にはならなかった。手を振って車を見送り、着替えさせようと真昼を裸にして、火がついたように泣き出したわけを知った。脇腹から背中にかけての、いくつもの内出血。力いっぱい抓った跡だ。大人の目のないところで、服に隠れて見えない場所を攻撃する。
朝からの微笑ましいお兄ちゃんぶりが演技だったのか、それとも昼食の腹いせか。そうではなくて、ただ状況説明できない幼い者への攻撃だとすれば――。
それを矯正しながら真昼を守るなんて、私には難しすぎる
専務を通さず直接社長宅に呼ばれ、早く入籍して直喜の面倒を見てくれと言われたのは、専務が疲れきっているからだとわかってはいた。同席した専務が、慌てて社長夫婦に抗議する。
「真弓は家政婦じゃない。なおだって、まだ他人に馴れるほど回復してない」
「真弓さんはまだ若い。なおも子供なんだから、すぐ元に戻る……」
社長の言葉を、専務は遮った。
「一朝一夕で戻るわけじゃない。それに、大山の家はどうする。黙っているわけがない」
「言わせておけばいい」
「俺だけなら、言わせておける。真弓を矢面に立たせる真似じゃないか」
「離婚前に子供ができたのは、事実だからな」
間違いようのない事実だ。膝の上の真昼を、思わず抱えなおした。
「真弓さん、どうかしら。なおの母親になる気はない?」
社長婦人の物腰は丁寧だ。けれど彼女の言わんとしていることは、恐怖だ。私は真昼を攻撃した直喜を知っていた。専務の疲れも私の恐怖も同じところに根は繋がっている。
「なおは今日、大山の家か」
「そうだよ。月に一度は寄越すように言われてる」
「向こうでは、何もないのか」
「学校でも、もう大した問題は起こしてない。なおが問題なのは、家の中だけだ」
聡明な子供は、集団の中に溶け込む術はすぐに身につけたらしい。外で良い子であればあるだけ、本性を隠したストレスが身内に向かう。私にだけなら耐えることはできるけれども、真昼がそこにいる。そして娘がカルトに入れ込んだ理由を、外に向けなくては遣り切れない前妻の両親の感情は、私が生活に入ることで一層歪んだものになるだろう。
「真弓さん、和則を助けてやってくれないか」
ずっと、そうしたいと思っていた。一緒に生活して、彼の身の回りを整えながら帰宅を待って、おかえりなさいを言いたいと思っていたのに。
「……考えさせてください」
今手が届きそうになっているものの、なんと重いことか。私と直喜との、自分の生活と前妻の実家との、二重の板ばさみになるのは専務だ。生活そのものの表向きの労力は軽減されても、更なる問題が積み重ねられる。
離婚前に余所へ作った女、取引先である縁戚との問題を作った女へ、社長に頭を下げさせたのは申し訳なく、けれど快諾することなんてできようもなく、私は真昼を抱えたまま俯いていた。
そこで直喜が真昼に取った行動を、口にすることはできなかった。口にすることで専務を傷つけるのではないかと、それが怖かった。
バブル経済崩壊を乗り切った河埜の家は、豪華ではなくとも裕福な暮らしぶりだ。そこに入ってしまえば、私はもう時間を切り売ったような働き方はしなくて済むし、スーパーマーケットで真昼の服を買うようなことはしなくて済む。元の友達とランチに出かけたり、欲しかったフランス製の鍋を買ったりできる。向こうから助けてくれと言ってきているのだ、大きな条件を突きつけてしまうことだってできる。
二年前の自分なら、一も二もなく飛びつく好条件だ。直喜の状態に思い巡らすことも、それによって引き起こされるさまざまなトラブルを想像することもせずに、ただ認められたと喜んだろう。
私はもう、考えるべきことも守るべきものも持ち合わせていた。ひとつを手に入れるために、手放すものがあることも知っていた。潤沢なお小遣いを得るために河埜不動産に入社した時から、その学習は始まっていたのだ。給与は労働の対価として与えられるものだったし、人間関係は想像力が必要なものだった。
私の力で得る幸福は、どんな形をしているのだろう。
「なおは、吐くまで食べ続ける。欲しいと思ったものは口に出さずにひったくる。叱られても、叱られた内容が記憶できない」
専務の言葉に、社長夫妻は驚いた顔をした。
「こっちの家では、そこまでひどくないわ」
「こっちの家は、全部なお優先だから。叱ることもないだろう?」
「だって、辛い思いをさせられてた子だから」
社長婦人が言い訳のように呟く。
「なおの鉛筆は、噛み跡だらけだ。上から下まで、びっしり。箸もそうだ。そこに真昼を置けば、危険だと思えるくらいのストレスだ」
社長夫妻は顔を見合わせ、それから私の顔を見た。
「真昼を、このままにしては置けないだろう。真弓さんの両親にだって、いつまで嘘を通すつもりだ」
これについて、私は社長に頭を下げねばならなかった。親戚になるのだからと言う両親と挨拶するのに、嘘の片棒を担がせてしまったのだ。
「勝手なことを申し上げて、大変ご迷惑をおかけ致します」
「なおは一時的に混乱してるだけだ。和則は悲観的過ぎると思わないか」
社長の言葉に、頷くことはできなかった。
今後の生活について、専務とそれほどに話したことはあったろうか。二週間近く、専務の時間のある日は顔を見て、会えない日は電話で相談し続けた。共に暮らしたいという希望は共通でも、リスクは大き過ぎた。前妻の実家との取引は河埜不動産の売り上げの数パーセントを担うものなので、私事で切ってしまうわけには行かない。直喜については週に一度程度のカウンセリングを受けてはいるが、カウンセラー自体がはじめてのケースなので、はかばかしい効果は感じられぬままだ。
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