ささやかにも穏やかな時間の終焉
退院のために迎えに来た専務と共に、父が用意してくれた寿司屋の一室に入った。はじめて孫と対面した父は、とまどったように真昼を抱いた。
「真弓もこんなに小さかったか」
「名前を、ありがとうございます」
和やかに進む食事の席で、私と専務―そう呼ぶのはそぐわず、私は彼を和則さんと呼んだ―は横に置いたクーファンの中で眠る真昼を、交互に眺めていた。
二週間ほど実家に世話になり、真昼を抱いて私の部屋に戻った。毎日のように通ってくる母に助けられ、夜は時間が許す限り専務が通ってきた。バブル景気の後始末でガタガタになった日本の経済は、不動産業に深刻な影を落とし、河埜不動産自体の基盤は揺らがすとも打撃を受けなかったわけじゃなかった。経営者側の彼の立場は、ただ不況が来たと嘆くだけでは済まなかったろう。痛む胃を抑えながら、夜半に真昼の顔を見るためにだけ訪れることもあった。
私はといえば、まだ昼夜の区別のつかない真昼に振り回され、子供と一緒になって泣いていた。そのころになってやっと連絡をとり始めた友人たちが、ひょっこりと出産祝いなど置いてゆき、それは子供の名前の入ったテディベアだったり高価な銀のスプーンだったりして、彼女たちと私の生活の価値観がずれてきたことに気がついた。飾っておくためだけのものは、いただいた時には確かに嬉しくとも、役には立たない。
真昼が安定して眠るようになりつつある秋の終わりごろ、二回目の欠席裁判で専務は正式に離婚した。親権も専務のものとなった筈だが、直喜は相変わらず村にいた。それを取り戻すために専務はまた弁護士を立てて、その集団との交渉に臨んでいる。
すぐに入籍をすることは可能でも、私たちはそれをしなかった。万が一専務の生活能力が失われた場合に入籍の済んだ私がいると、互いの顔も知らない親子関係が発生してしまう。カルトの洗礼を受けた子供がすぐに一般生活に慣れるとは思えず、そのリスクを避けたのだ。
後から考えれば真昼は手のかからない子供で、寝ぐずりの少ない丈夫な子だったが、出産前の内職を同じペースで再開しようとすれば、不慣れな私には睡眠時間を削るしかなくなった。入籍はせずとも父の姓を持つ真昼と住み、父が経営に加わっている会社の持つマンションに住む私たちは未届け婚の扱いで、母子手当の申請は受け付けられなかった。社長、つまり専務の父親から申し出のあった生活費の補助は断ってしまっていたし、専務自身にも私名義の通帳を渡されてはいたが、専務の身の回りの整えもできないくせに生活のすべてを依存したくはない。重なっていく睡眠不足に消耗し、真昼を保育園に入れることを目的に、外へ仕事を求めた。
乳飲み子を抱える女を好んで採用する会社などある筈もなく、内職を卸してくれている会社が派遣業を始めたことを幸いに、時間給のキーパンチャーに納まった。無理をして働くなと専務は苦い顔をしたが、もともとは覚悟をしていたことで、私の生活は私が決めるのだと押し通した。
真昼が保育園に通いだすと同時に、私は河埜を名乗り始めた。公的な書類は五十嵐のまま、真昼と同じ姓にすることで、混乱を避けたのだ。結婚せずに子供を産んだ女への風当たりはまだ暖かいとは言えず、話題になり始めている夫婦別姓の事実婚ですら、認めたがらない人のほうが多い。まだ何も知らない真昼を、差別したがる人がいないとも限らない。何より、私が専務の姓を名乗りたかったのだろう。
明けて元旦に、社長宅に真昼を抱いて挨拶に行った。ごくごく近しい親戚しか訪れないはずの日に、少しだけ挨拶をする予定だった。
「妾が本宅の応接間に入るなんてね」
不躾な言葉にびくりと震えると、訪問予定ではなかった元妻の両親だ。どんな理由なのかは知らないが、普段よりも一日早く年賀に訪れたらしい。
「聞こえるよ」
「聞こえたっていいよ。あの女のせいで、貴子は変な生活に入っちゃったんだから。あの女がいなきゃ、まだやり直せたかも知れないのに」
「別居よりも先に?」
「ああ、そうかも。和ちゃんは若い女に入れあげて、大方娘が面倒になったんだろ」
酔った振りをした、悪意に満ちた声。ドア越しに、私を傷つけるためにだけ交わされる会話。勝手を知った親戚の家で、娘の不首尾をどうにか正当化しようとしている。
「財産に気をつけろって、社長に言わないとなあ」
早々に社長宅を辞し、専務に送られて部屋に帰った。会話を耳にしていない専務に、言いつけることはできない。元妻の家は取引先なのだ。悔しくても間違っていても、唇を噛むしかない。
財産分与の件は数年後にもう一度話題に上り、直喜が経営者候補として入社するまで、入籍しなかった要因になる。
「正月からずっと、何か考えてる」
専務に問われたのは、元旦から十日も経ったころだ。
「仕事も入ってるし、ちょっと疲れてるの」
真昼を入浴させ、機嫌良く座った専務を傷つけたくはなかった。忙しい仕事を抱え、さらに戦う相手を持つ人なのだ。
「違うだろう。俺の家に行ってからだ。大山の家が来てたな、何か言われたのか」
大山というのは離婚した妻の姓で、確かにその言葉で私は鬱屈していたのだ。妾と大声で言われ、離婚の原因だと言われたことに対して、私は抗議できない。外から見れば、私の立場はそんなものなのだ。私はただ、専務との恋を失くしたくなかっただけだ。あの人たちの迷惑になることなんて、何もしていない。娘がカルトに入ったのは私の責任じゃないし、過剰な資金援助もしてもらってはいない。ましてや河埜不動産の財産なんて、考えもしなかった。
何もないのだ、と改めて思う。あるのは真昼の認知という繋がりだけで、彼には私に対する義務なんてない。赤の他人、なんて言葉が出てきた。
「何故、何も言わない」
少々苛ついた口調なのは、私の本音を誘い出すためだったのか。
「何も、ないです。真昼の夜泣きもはじまったし、本当に疲れて……」
「たまには、真昼の夜泣きの面倒くらい見ようか。明日は仕事の予定もないし」
滅多に夜を過ごそうとしない専務が、一緒に眠ると言う。
「川の字で寝るか、真昼を挟んで。泊まるとなれば、ビール飲んでも構わないかな」
「お目当ては、それ?」
「真弓も飲もう。もう母乳じゃないんだろ?」
上手く誘導できる程度に専務は大人で、すやすやと眠る真昼の顔を代わる代わる見ながら、這いはじめたらつかまり立ちはすぐだとか、最近色の好みが出てきたとか、のどかな話をする。少々酔いはじめたころ、話が元に戻った。
「何を言われた?」
不意打ちに、顔が作れなかった。
「妾……」
言いかけた言葉に、専務の顔色が変わった。
「面と向かってそんなこと、言いやがったのか」
乱暴な言葉に、怒りが見えた。
「違う、ドア越しに聞こえただけよ。それに、事実だわ」
「事実じゃない、俺はもう独身だ。大山の家に非難される謂れはない」
では、すぐに私と結婚して、先妻の実家とも子供とも繋がりを切ってください。そうは言えない。彼に責任をすべて投げ出せと言っているようなものだ。
「誰に向かってそんな主張をするの?他人はそう見ない」
こみ上げそうなものをぐっと飲み込み、せりふを投げ出した。私の目いっぱいの矜持だった。
「ひとりで、我慢しないでくれ」
やわらかい手つきで私を抱きながら、専務は悲しい顔をした。リズムをあげて昇り詰めていく行為は、溶け合えない身体をせめてひとところで繋ごうと、祈るための動きだ。
「それ以上、泣かないでくれ。どんなに待たせても、真弓と一緒になるから」
一緒になる。それは生活が?専務と私と真昼。待つだけで得られるものなら。
待っていれば、欲しい生活は手に入るのだろうか? 真昼は気がつくと自分で座ることを覚え、私を母と認識して嬉しそうに手を差し伸べる。朝に保育園で別れたときと夕方に迎えに行ったときで、違う行動をするような目覚しい成長の仕方だ。
電算化の進んだビジネスの中で、キーパンチャーの仕事は退屈だが途切れることはなく、幼い子を持つ母親とすれば、きっちりと決まった時間で帰宅でき、前日までシフトの調整ができる臨時派遣の仕事は都合が良かった。本棚の隅の宅建の問題集を横目で見ながら、もう河埜不動産には戻れないのだから不要な資格なのだと思う。目先の生活と真昼の世話が、そのときのすべてだった。
空き時間を縫って訪れる専務が息子を「買い戻した」のは、もう三月になろうとする頃だ。二年間の生活費として集団から請求されたのは法外な額で、それに応じたのは一刻も早く息子を取り戻したかったからだろう。親父から金を借りたよ、と専務は自嘲的な笑いを浮かべた。
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