邂逅と誕生と

 ふたりの名前を記した婚姻届を携えて私の実家に行ったのは、産み月に入ってからだ。

「雁首揃えて嘘を吐くのか」

「提出が少し遅れるだけよ。そうでしょう?」

 私のほうが強気なのは、私の両親に対してだからだ。彼らは最終的には娘を見捨てたりしないと、信ずるに足るものを私は得ている。否、最近得たのだ。失望させ不安にさせても、両親は私の味方なのだと確信した。当然のように享受していたのに気がつかなかったそれは、失う恐怖を持って初めて実感したものだ。

「……待たせることになるな」

 苦い声だった。


 母には電話で連絡してあったが、父は出かけていた。

「抜けられない会議があるんだそうよ。もうじき帰ってくるから、入って待ってらっしゃい」

 母は専務と私の顔を見比べて、少々緊張した面持ちだった。私はといえば、数ヶ月ぶりの自分の家の中できょろきょろしていた。変わらない居間には、母の手編みのテーブルセンターのかけられたテーブルがある。私が家を飛び出したときにモスグリーンだったカーテンとクッションのカバーは、初夏の淡い空色に変えてあり、季節が変わるほど帰っていなかったのだと改めて思う。

「ふたりで揃って来たということは、良い報告だと思って間違いないかしら」

 ティーポットを傾けながら質問をする母に、専務はまず頭を下げた。


 ほどなく帰宅した父に、専務は深々と頭を下げて婚姻届を差し出した。

「甚だ身勝手で、五十嵐部長のご希望に背く形になり、誠に申し訳ございません。けれど認めていただかないわけにはいきません」

 私も一緒に頭を下げた。嘘を吐く心苦しさと両親の表情に、再び頭を下げる。

「……分別のある大人が」

「返す言葉もございません」

 父は言葉をそこで切って、立ち上がった。まさか中座してしまうつもりかと目で追うと、愛用の万年筆を持って戻った。

「私たちが認めなくても、もう生まれてしまうんだろう。それを無かったことにはできない」

 婚姻届に見事な文字でサインした父が、母に印鑑を持ってくるように言う。私と専務は言葉もなしに、それを見ていただけだ。

「しみじみと、君の会社に行かせなければ良かったと後悔したよ、河埜君」

「申し訳ありません」

 父の声に憤りは感じなかった。


「だから、これから先の話をしよう。もう、離婚は済んだんだな?真弓は君の家に入るのか」

 これについての打ち合わせは、専務と済ませていた。離婚が済んだということ以外は、嘘にしないということだ。

「実はまだ、そんなわけに行かない事情があります」

 聞く姿勢になった両親に、専務はかいつまんで事情を話す。

「連れ子にしては、厄介だな。向こうに置いておくわけには行かないのか」

「パパは、私がカルトに入れ込んでいても、放っておく?」

 そんなわけはないだろうと父は言い、そうして溜息を吐いた。

「おまえは、なんでそんな相手と」

 消え入りそうな声だった。


「お式は?」

「このお腹で、ドレスは着られないわ。和則さんも再婚だし、派手にできないもの」

「親戚に……」

「身内だけで挙げたって言えばいいじゃない。あとで写真だけ撮るわ」

 実際出産後に、写真だけは残すつもりだった。母はがっかりしたように、もう一度茶を淹れなおした。まだ見合いを繰り返していたころ、母と一緒にウエディングドレスのカタログを見るのが、楽しかった。こんなドレスが好きだとか、お色直しに赤いドレスは下品だとか言い合って、相手も決まっていない結婚式の話をした。あれは半分、母の夢だったのだ。


 実家を辞すとき、父は専務に向かって口を開いた。

「河埜君、これだけは頼んでおく。真弓に、辛い思いをさせないでやってくれ」

 あの父が、家の中で誰よりも尊大な父が、頭を下げる。思わず声が漏れそうになり、自分の口を塞いだ。

「真弓、辛かったら我慢せずに帰って来い。ここは、おまえの家だ」

 父の目の中にある寂しさに、やっと気がついた。なけなしの気力を振り絞り、返事をする。

「大丈夫、パパ。幸せになって、楽しい家庭を作るから」

 母はもう、泣いていた。


 マンションから出て車に乗り込んだら抑えが効かなくなり、声を上げて泣いた。専務も宥めようとはしなかった。泣くことで甘えに乗っていた自分が浄化されるわけではなく、嘘が許されるわけでもない。

 ごめんなさい。パパが書いてくれたサインを無駄にはしません。必ずこれを携えて、ふたりで提出に行きます。だからもう少しだけ、時間をください。


 実際のところ、その婚姻届は使われなかった。私たちの正式な入籍には十八年という長い年月を要し、ただ両親が生存しているうちに嘘でなくなったことだけが救いだ。その間大切にしまっておいた届出用紙は、折に触れて私を励ますものになった。父の美しい文字は、娘の幸福を願っていた。




 昼過ぎに出産の兆候があり、予定日を過ぎてから一日に何度か電話してくる専務に、それを告げた。腹の張りが少しずつ強くなったところで、仕事を早々に片付けた専務が迎えに来た。準備は整っており、母に連絡して産院へ向かう。自分が思ったより冷静であることが嬉しかった。

「頼む」

 産室に向かう私に、専務は短く言った。

「行ってきます」

 駆けつけた母と専務に微笑みを返したかったが、陣痛の波がそれを邪魔した。


 だんだん激しくなる痛みに耐える孤独。助けてくれる者のない苦痛に、ベッドの手すりを握り締める。勝手にいきんでしまう身体を、助産師がまだだと諌める。早く済んでしまえと願い、どうか無事にと祈る。これは独りで耐えなくてはならない苦痛なのか。

「そろそろ、力を入れてみましょうか」

 いきんで良いのだと告げられても、今度はどこに力を入れるのかわからなくなってしまう。

「お母さんが赤ちゃんに合わせてあげないと、お互いに苦しいのよ」

 痛い痛い痛い。今、ここには専務も母もいない。なんて孤独なんだろう。ママ、あなたもこんな時間を経て、私を産んだの?


 夜明け前に小さな小さな「五十嵐ベビー」が誕生し、私の胸にこみ上げてきたのは、喜びではなく喪失感だった。抱かせてもらった小さな人に「はじめまして」と挨拶しながら、もう私とは同一のものではないのだと、寂しさが先に立った。

 産室でしばらく休んだ後に移された個室で、専務と母は私を労ってくれ、それは大層嬉しい言葉ではあったけれども、ひどく疲れていた。うとうとと眠り、昼食だと起こされると自分の腹を見た。ああ、もう私の中にはいないのか。

 授乳時間だからと胸を消毒し、子供を抱く。ねえ、あなたを手放したくなくて、私はここまで来たの。それなのに、私の中から出て行ってしまうなんて。

 目を閉じたまままだ張ってもいない胸の乳首に、赤子が吸い付く。出ていないだろう母乳を、一生懸命に吸おうとする。これが、私の恋の結果だ。


 恋の結果は、今私を求めて育ち始めるところだ。胸に感じる確かな感触は、恋が成就したあの日なのだ。

「ありがとう」

 私が腹の中で育てていたものを、今度は胸に抱くのだ。手に触れ、目で見ることのできる存在として。だから私は、彼女が無事に生まれてきたことに、感謝しよう。



 退院する前の日、母が持ってきたのは一枚の半紙だ。専務はまだ来ていなかった。父の文字で書かれたそれを、両手で受け取った。

「命名 真昼」

 父が何を思ってつけた名前かは、よくわからない。けれど、その名前は素敵だ。明るい眩しい時間を想像させる。

「和則さんが、パパに是非って。夜中まで考えてたわよ」

 父は病院には顔を出さなかったけれども、彼女はもう「五十嵐ベビー」ではなく「真昼」なのだ。

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