嘘が正しいことだとは、思っていない

 五月の連休に、はじめて専務と旅行した。私の負担にならないように、遊びまわるような旅行ではなく、古い街並みをのんびり観光する旅だった。宿帳で、専務の姓に自分の名前を連ねて書く。それを噛み締めるように喜びながら、これが嘘でなくなる日は来るのだろうかと思う。

「真弓には、苦しいことばかり強いているような気がする」

「そんなことばっかり。全部私が勝手にしてることなのに。せっかくの綺麗な場所なんだから、楽しみませんか」

 宿の人に、奥様の顔が穏やかだから女の子ですね、と言われる。

「僕もそう希望してるんです。妻に似れば、美人でしょう?」

「ま、お惚気。若くて可愛らしい奥様で、お幸せですね」

 食事を給仕してくれる仲居さんとのやりとりに、私も微笑んでみせる。旅行先での私たちは、仲の良い夫婦だ。


 隣合わせの布団に入り、すぐに眠りに落ちた専務の横顔を見る。いつかこれが日常になるのならば、それは泣きたくなるような幸福かも知れない。離婚が希望通り進んだとしても、多分その後も一筋縄じゃない。


「こんな場所でのんびりしてると、日常に戻りたくなくなるな。いっそのこと、ふたりで逃げるか」

 お寺の境内でベンチに腰掛け、専務がそんなことを言う。とても魅力的な言葉だけれど、彼はそんなことをしない。

「地方都市でさ、俺は朝の早い仕事して、夕方には家に帰るの。そしたら生まれたばっかりの赤ん坊を風呂に入れて、真弓は東京よりここがいいねって」

 叶うはずのない夢物語。今までを全部捨てるなんて、できっこないのに。

「なおくんの帰る場所が、なくなるね」

 そう返すと、深い溜息が漏れた。

「そうだな。小学校にはきちんと通えてるのか、辛い思いをしてるんじゃないのか……」

 なおきという響きが、直喜と表記されると知ったのは、最近だ。直喜が戻ってきて、私たちがどうなるのかなんて、戻ってきた状態を見ないとわからない。



 専務が時間を縫って私の実家に顔を出していたことを、私は知らなかった。父は会おうとしなかったそうだが、まるで知らぬ顔をされるよりも、感じるものはずっと大きいだろう。ある日私の部屋に母が持ってきたお菓子は、河埜不動産の近所の和菓子店のものだった。

「河埜さんにね、ふたりでは食べきれないから、量を考えて欲しいって言っておいて」

 母はお茶を淹れながら、そんなことを言った。

「和則さんが持っていったの?」

「パパは受け取るなって言うんだけどね。でも、食べてたわよ」

 そうして私の前に腰を降ろす。

「離婚の目処はつきそうなの?早くしないと、私生児になっちゃうわ」

 母に専務の事情を説明することは、できない。


 ある夜のニュース番組を、専務と一緒に見ていた。いつもならばオープニングの音楽で帰ってしまう専務の視線は、画面に釘付けられた。

「ほほえみ生活会」から脱却した人が裁判を起こしたが、提出した個人資産を取り戻すことができないらしい。モザイクで覆われた被害者が、会の中での寮生活について語っている。農作業をした上での分配金や、貧しい内容の食事、何人誘ったかによって決まる自分の立場。そして、子供たちの教育と罰則などだ。


 会の中には相当なエリートもいて、その人たちは村には来ないらしい。外の世界で生活をし、こっそりと広報をして会員を募ってゆく。広報によって感化された会員たちは、理想郷と信じた場所に全財産を寄与し、生活そのものを明け渡す。

―確かにね、農業を主体にした共同生活ですよ。共産的って言うんですかね、全員の財産を分け合ってって言えば聞こえはいいんですけど、全員が全財産を差し出してるはずなのに、それが生活に還元されているとは思えなくってねえ。一度目録と決算報告を請求したんですよ。

 インタビュアーの相槌に、モザイクの中の人が答える。

―そうしたら、供出金の少ない人が肩身が狭いからとかなんとか。私も家屋敷売って村に入ったわけだし、納得はできませんよね。

―他の人は、そんな不満は?

―言わないっていうか、疑問すら抱いてないんじゃないですかね。脳をね、洗われちゃってるんですよ。あそこが世界のすべてだと思ってる。

 男のインタビューは、男が自分の洗脳に気がついた経緯に至り、そのあとにいきなり村の近所に画面が移った。


 丈の高い草の後ろに、幾重もの鉄条網が見える。

―ここから出るのは、学校に通う子供たちと販売の当番になった人間だけだとのことです。内部は秘密にされ、会員たちの生活は見えません。

 また画面が切り替わり、今度は小さい小学校の前だ。

―ああ、ほほえみの子供たちね。うちの子供のクラスにも、何人かいるよ。会の子供たちだけで集まって、他の子とは喋っちゃいけないんだって。着るものなんて、何十年前のデザインなんだか、ヨレヨレだよ。なんか薄汚いの。給食はガツガツ食べるってから、朝ごはん食べてないんじゃないの?みーんな細っこいし。親は学校に顔をださないしね。え?子供だけ別に住んでるの?でも、ちゃんと面倒見てくれる人はいるんでしょ?

―ほほえみの子?うん、脱走したのを匿ったことがある。なんかね、朝から農作業して、食事も抜きで学校に出されるって。そんで、テレビとか一切ダメなんでしょ?ちょっと大きい子だったから……五年生くらいだったかなあ。おばあちゃんの家に連絡させてくれって言われて、電話帳で電話番号調べて。やせっぽちだったねえ。

―ほほえみ?うちの畑が通学路に面してるから、よく見るよ。トマトとかキュウリとか、子供に持っていかれちゃうの。腹減ってんだろうね、小さい子が一生懸命もぎってくんだよ。いいよ、それくらい。親がバカだと、本当に不幸だね。


 食い入るように画面を見つめていた専務は、頭を抱えて子供の名を呻いた。私の二度ほど見た子供は、利発そうで父親に懐いていた。会の内部事情はメディアで報じられる範囲しか知りえないが、それだけでも充分に怖い。脳を洗われた人たちが施す教育は、想像もつかない。

 私にはまだリアルでない親としての愛情は、自分の両親を思い出せばすぐに理解できる。

「真弓……」

 私は専務の頭を胸に抱き、髪を撫でることくらいしか、できない。私の部屋から帰ってゆく専務の背は、やけに小さかった。



 季節は夏に向かい、産み月になろうとした時、私と専務はひとつの決断を下した。専務は社長である両親に、私の存在を明かしてはいたが、その後の身の振り方などの詳しい話をしたわけではなかったらしい。私はあくまでも「離婚する前に他所に作った女」であり、遠縁である妻方の親戚からの攻撃を避けるため、表向き伏せられた存在だ。妻方の親戚と仕事の繋がりを持つことや、地域限定企業であることが、私を全面的に受け入れることを難しくしている。

 外で産ませる子供とはいえ、河埜の血を引く者であり、現在行方の掴めない孫に代わるかもしれないと、社長は考えたのかも知れない。私にはもう少々住み心地の良い部屋を与えられたが、生活費の補助は断った。私の母の言うところの「お妾のような生活」はしたくなかった。


 決断は、専務の案を私が拡張させた形になった。腹の子供は認知さえされていれば、父親の姓を名乗ることができる。子供に自分の姓を名乗らせることを専務が希望し、離婚確定後まで待ちたくないと言ったからだ。私自身は両親が、専務の離婚後すぐに私と入籍すると信じて疑わず、また子供が私生児になると恐れていることを、一番気にしていた。だから子供の姓が河埜になることは、願ったことでもあった。そこでひとつのアイディアが浮かんだ。

 嘘を、吐こう。両親に対して、墓場まで持っていく嘘を吐こう。

 これが不実かどうかなんて、考えれば考えるだけ迷路の奥に入り込むようなものだ。専務は決断するまでにひどく悩んだようだったが、親をこれ以上心痛させたくないという私の言葉を、最終的に受け入れた。


 親の戸籍から自分の戸籍を独立させれば、私が結婚しようがしまいが、親には確認する術はない。入籍だけしたのだと言えば、それを信じるしかなくなる。心苦しさを自分の中にしまいこんでしまえば、両親は多少の安堵を得るだろう。分籍自体は私だけの手続きだから、専務には何の関係もない。

 まさか自分が、こんな大胆なことを考えるようになるなんて。もう、何も知らないから何もできない、とは言えない。知らなければ調べて考えれば良いのだと、学習はしたのだ。

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