きっと、理解はしあえない

 病室のベッドの横で、専務は黙って私の話を聞いていた。仕切りのカーテンの隙間から声が漏れぬよう、私の口元に精一杯耳を近付けて。そして、一言だけを口にした。

「申し訳ない」

 それは何を詫びる言葉なのか――誰に、何を。おそらく、考え得るすべてにそれは当てはまっているのだろう。

「俺には、何ができる?」

「もう、していただいてます」

 そう答えながら、奥底に隠した気持ちを飲み込んだ。


 病室の階数で分けられてはいたが、同じ病院の中だ。幸福そうな夫婦をいくつも見た。嬉しそうな年配の見舞い客、あれは孫ができたのだろうか。同じ病室の中には、夕方から消灯まで部屋に旦那様の滞在するベッドもある。

 誰からも祝福されない私の恋は、私の腹の中でだけ育っている。後悔しているのではなく、ただ羨ましい。私も、あちら側に行きたい。そう主張することは、できないけれど。



 入院期間は一ヶ月に及び、私の身の回りを整えたのは、やはり母だった。専務に下着の洗濯を頼む気にはなれず、有償のサービスは経済的に苦しい。

「真弓が家を出てまでしたかったことって、子供を産むことだったの?」

「そう」

「あなたみたいな頼りない娘が」

「でも、どうしてもそうしないとならないのよ、ママ」

 ぽつりぽつりと続く会話に、父の話題は出ない。

「お相手の方は、知ってるの?」

「知ってるわ。賛成してくれてる」

「でも結婚しないって相手が決めたの? そんな不誠実な。子供も片親だっていじめられるわ」

 結婚しなければ不誠実だなどと、誰が決めたのだろう。母にそんな議論は持ち込めない。実に世間一般の考え方だ。


「退院しても、戻って来ないつもり?」

 母はそう言って私の顔を覗き込む。

「結婚もしてない私が、妊娠して家にいたらおかしいでしょう?」

 何年も生活しているマンションの住民同士は、つきあいこそ少ないものの、主婦同士のネットワークが発達している。


 母が病室を訪れるのは平日の昼間だし、専務は夜か日曜日にしか来なかったから、鉢合わせしてしまう心配はなかった。私の入院中に専務の裁判は行われ、欠席裁判により専務の主張は通った。ただし、もう一度裁判を経なければ正式な離婚にはならないらしい。

「なおを素直に引き渡してくれればいいんだけど」

 やはり子供の心配をしていることに、ひどく嫉妬したりもした。彼にとって大切なものが息子だけのよう思えて、私の腹の中にも子供が育っているのだと、何度も確認したい日もあった。



「入院費は、全額先払いでいただいております。清算後に戻し金がありますので、少々お待ちください」

 退院の日は母には伝えず、専務に迎えに来てもらった。清算カウンターで、思わず顔を見合わせる。私が経済的な不安を訴えたとき、専務はひどく落胆した顔をした。俺を親にしないつもりかとすら言った。子供を守るために何かを惜しむことなど、する筈がないではないかと言った。生を受ける前から、それははじまっているのだと。

「そこまで、世話になるわけにいかない。それでなくとも、俺は真弓の両親をないがしろにするようなことをしてるんだ」

 専務は手で口と顎を覆うような仕草をした。


 すぐに通常の生活に戻れるわけはなく、最低限の内職以外は極力ベッドに入ることにしていた。時折腹の中でぽこりと動く泡が、存在を主張する。ここに在るのだと、主張するそれが愛しい。よく耐えて、私の中に留まってくれたと感謝の念すら抱く。



 あのときは専務が一番苦しんでいたのだと、あとから考えればわかる。きっと居ても立ってもいられなかったのだろう。その話はまず母から電話があり、次にアパートに直接訪れた専務から告げられた。

『河埜さんって人が、入院費を持ってきたわ』

 母は電話でそう言った。

『会社の専務だそうね。やっぱり結婚してる人だったのね』

「もうじき、離婚は成立する」

『持ってきたものは、パパが全部持って帰らせたわ。なんでそんな相手……』

「専務は何を言ったの?」

『自分が全部悪いって言ってた、当然よ。あなたみたいな世間知らずの若い子を手懐けるなんて、簡単だったでしょう』

「違うわ。もしも悪かったとしたら、私のほうだわ」

 父はなんと言って専務を追い返したのか。きっと居丈高に専務を責めたに違いない。

『そんな寒いアパートで、寂しい思いをさせられて。どこに出しても恥ずかしくない娘を』

 母の電話は愚痴とも説教ともつかずに三十分ほど続いた。


 スーツのまま訪れた専務は、しばらく黙って座っていた。そして思いついたように、持っていた菓子折りを私に差し出した。

「受け取っていただけなかったものだ。食ってくれ」

「私の家?」

「ああ、早速連絡は来てるのか。入院費だけでもお返ししなくちゃと思って」

 専務は深く溜息を吐いた。


「パパに、ひどいこと言われた?」

「いいや。冷静な人だよ、君のお父さんは。静かにきっぱりと拒否なさった」

 そう言って、手の中に顔を埋めた。

「俺が間違ってたんだ……」

 一瞬、専務が泣いているのかと思った。

「君がどんなに俺を慕ってくれても、俺が止めなきゃいけなかったんだ。その結果が」

「そんなこと、まだ言うの?」

「言わせてくれ。誰に贖罪したらいいのか、もう見当がつかない。俺は、君が子供を産むと言ったとき、ますます大変なことになると知っていながら、嬉しかったんだ」

 嬉しいなんて言葉は、私を驚かせた。


「どこに出しても恥ずかしくない娘を、と言っておられたよ。申し分のない人生を味わうはずだった、それを見るのを楽しみに育ててきたのだと……ああ、怒っていたのじゃなくて、あれは泣いておられたんだな」

 専務は顔を伏せたままだった。

「言い訳なんて、できなかったよ」

 専務に寄り添った私にだけ、聞こえるような声で。



 腹の膨らみが大きくなるにつれて、専務が顔を出しにくる回数は増えた。ストーブの灯油はもう必要ではなくなる時期で、私はといえば良くも悪くも充実していた。もちろん胎動に喜びはあったし、専務が揃えるのに必要だと持ってきた新生児に必要なもののカタログリストを眺めるのは楽しい。けれどナーバスと言えば聞こえは良いのだろうが、私が読み漁っていたのは異常な分娩と出生児の障害の可能性や死産の苦しみについてで、そうだった場合ばかりを頭に思い描き、月を重ねることに恐怖する。

 早く無事に済みますように。出産後の生活の苦しさよりも、目先の心配に目を向けていたかったのかも知れない。


 母は時々こっそりアパートに顔を出して、私の好きな料理や菓子を置いていった。言うことは決まっていて、家に戻るように、それだけだ。

「パパも、そうしたほうがいいって言ってるのよ。子供ごと帰って来いって」

 実家に帰ったら、専務は訪れない。

「帰らない。何度言ったらわかるの?」

「そんなに意地になったって、どうやって生活するの?河埜さんのお妾みたいに、お金を出してもらうなんてこと……」

「自分で生活できる。和則さんにばっかり頼ったりしない」

 専務の名を口に出したのは、これが最初だった。母に向かって彼を役職で呼びたくなかった。

「無理よ。真弓に生活力なんて、ないじゃないの」

「ないって決め付けないで。パパみたいな所得はないかも知れないけど、自分でどうにかする」

 母は困った顔をしていた。

「勝手なことばかり言って、他人様に後ろ指を指されるような」

「私は恥ずかしいことなんてしてない! 恥ずかしいのは何も知らないで笑う人たちだわ!」

 恋をないがしろにして、証拠を隠滅するほうが、そのときの私には恥ずべき行為だった。母は大きく溜息を吐いた。

「翔んでる女ぶったって」

「ぶってるわけじゃないし、そんな古臭い言葉に振り回されるほどバカだと思わないで」


 実際のところ、母に切る啖呵ほど勇ましいものではなかった。家賃はかからず内職はひっきりなしに仕事が入るし、専務が生活用品を運んでくれるので生活はある程度安定していたけれど、不安は常にある。専務を信用していないわけではなく、気持ちは余計に専務に寄り添って行った。二度目の離婚裁判の準備にかかっている専務は疲れていて、本来なら立証に有利な動きをしてくれるはずの奥さんの実家が、私の存在のために臍を曲げて上手く意思疎通ができない。私にそれを愚痴ることはなくとも、一筋縄で行かないことを知る。

「真弓が支えてくれてるんだ」

 誇らしく嬉しい言葉だが、原因の一端にもなっている後ろめたさが、苦しい。

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