こんな愛情が

 二月に入ると、服の上からでは目立たない程度にだが、私の体型は緩やかに変化してきた。会社の引継ぎが同時進行で進み、たとえばこれから引き返そうとしても、少なくとも河埜不動産にはもどれないのだと、自分の行く末を思う。内職のワープロが生活していく上での頼りで、入れられるだけの仕事を引き受け、夜中までデータエントリーする。専務はやはり泊まっては行かなかったが、夕食を食べに訪れたり、商談の隙間に顔を出したりしていた。

 この人さえいなければ、私はきっと親の希望通りの縁談の末に、こんな安アパートの生活など想像することもなく、豊かな生活を享受していたに違いない。何故私がこんな思いをしなくてはならぬのだと、恨み言めいた気分になることは、幾度となくある。私が苦しもうが苦しむまいが、専務の生活はまるで変わらないではないかと、泣きながら眠る夜を何度も迎えた。けれどそれは、専務の顔を見ればどうでも良くなってしまう。私の部屋を訪れることへの感謝と私だけに向けられる言葉で、中和されてしまう。


 実際に目の前で妊婦を見ていたことのある専務のフォローは、私の机上の知識よりも上だった。いかに身体を冷やすべきでないか、足のむくみやつわりによる食欲不振をいかにコントロールするか。それはとりもなおさず、今は訴訟相手である妻の妊娠に、どれだけ真剣に献身的にかかわりあったのかを想像させた。幸福な若い夫婦だった筈のふたりは破綻してしまっているのに、苦しい嫉妬が訪れる。何も問題なく祝福されて笑みを浮かべる夫婦を憎悪して、専務に当り散らした夜もあった。

「もういや! 家に帰る!」

「そうだな。真弓がそう思うんなら、俺には止められない。そっちの方が、きっと幸せだから」

「なんでそんなこと、言うの? 本当は迷惑だから、そっちの方がいいと思ってるんでしょう」

 子供みたいな駄々をこねて、怒らせてみたりもした。それでも専務は私を見捨てようとはしなかったし、その時の立場で、できうる限りのことはしてくれたと思う。



「言わなくて悪かったけど、河埜不動産を辞めたのよ。もう会社に電話しても、いないわ」

 母への電話でそう告げたのは、やっと二月も半ばになった頃だ。

「あなた、一体何してるの? お仕事も辞めて家も出て。何か後ろ暗いことをしてるの?」

 私の不在に慣れつつあるらしい母は、職場という居場所で私をいつでも捕まえることができると、安心していたらしい。

「他の仕事してるから、大丈夫。来月には一回顔を出すって言ったでしょう?」

 努めて明るい声を出して、不安を振り切るように受話器を置いた。電話番号は、それまで教えたりしない。


 告げることは、できるだろうか。両親を失望させて、私自身の行き先も自分には見えない。世間一般には歓迎されない事柄を、どう告げるのだろう。

 頭の中でロールプレイングを繰り返しても、何の役にも立ちはしないのだ。




 一度帰宅すると母に連絡した晩、私は下腹に妙な圧迫感を感じていた。おそらく緊張しているからだろうと眠れずに過ごし、朝を迎えた。何度頭の中で繰り返しても、両親の反応が怖い。けれどもう、何を言われてもどうしようもないのだ。乗り切ったという満足感は、確かにある。本当に乗り切るのは、この先だとしても。

 化粧して着替え始め、自分の怯えに向き合うのだと覚悟を決めたとき、何か身体の中に不穏な予感が走った。この感覚は何だろうと思う間もなく、足の間に覚えのある感触があった。

 ……経血?そんな筈、あるはずないじゃないの。慌てて下着を確認すると、赤い汚れがある。


 昨日の検診では、順調だと言われた。慌てちゃいけない。内診の後に出血することはあるって、本に書いてあった。分泌物で下着を汚さないように買ってあった薄いパッドをあて、深呼吸する。少し休めば大丈夫、今日を逃せばまた、両親に告げる勇気が失せてしまう。昨晩あれだけ頭の中で、何度もロールプレイングしたんだから。叱られて失望させても、許されないことをするのだと詫びて、今度はちゃんと家を出て来ようと決めたのだから。

 お願い。勇気をください。

 専務には、今日帰宅すると言っていない。帰宅するのなら一緒に詫びると言い張っていたから、わざわざ竣工式のある日を選んだ。離婚係争中の既婚者よりも、架空の相手にしておきたかった。既婚者の子供を産むとは、言えないと思った。


 お腹が硬い。少し横になろうと身体を傾けると、もう一度足の間に不穏な感触が走った。こんな感触が本当に、少々の出血なのだろうか。もう一度下着を確認しようとすると、太腿につうっと赤い線が流れた。

 普通じゃない。こんな出血、絶対普通じゃない。切迫早産の知識は、おぼろげながら持っていた。


 婦人科に連絡することも、タクシーを呼ぶことも、思いつかなかった。一瞬でパニックに陥った私の頭の中には、今の状況を理解して助けてくれる者として、ひとりの人を思い浮かべただけだ。それは、専務じゃない。産む性であり、私の周りの中の唯一絶対の経験者。受話器を上げたとき、私は既に泣き声を上げていた。

 赤ちゃんが死んでしまう。私の中の、専務とのあの日がなくなってしまう。

『真弓、真弓? どうしたの? 何があったの?』

「――ママ、助けて。赤ちゃんが死んじゃう!」

 大声で泣きながら、助けを求めた相手は母だった。



 途切れ途切れに答えた住所に両親が辿り着いたとき、私は腹を抱えて丸くなっていた。父はゴルフシャツ、母はエプロンのままだった。不安な一時間足らず、大量ではなくとも出血は続き、腹からくる圧迫感は弱くなるどころか、呼吸を乱すほど苦しい瞬間がある。

 どんどんと激しいノックがあり、母の声が聞こえる。

「真弓、開けてちょうだい。着いたわよ」

「声が大きい」

父のたしなめる声も、低く聞こえた。

「真弓が苦しんでるのよ! 真弓、大丈夫なの?」

 母が父に食ってかかったことなど、今まであったろうか。身体を引きずるようにドアを開けると、見慣れたエプロンの胸が見えた。

「――ママ、どうしよう。どうしたらいいの?」

 また溢れだした涙を、母のエプロンで拭いた。


 私の状況を聞き出した母が、有無を言わさず父にロードマップを指差す。後ろの座席で毛布に包まったまま、戸惑う父の声と母の強い口調を聞いた。それはひどく珍しいものだったが、私の頭の中は徹頭徹尾自分の腹の中のことだけだ。恋も成長も決意も、すべての結論がここにあるのだ。失ってしまうのだろうかと怯え、また泣いた。

 これは、きっと罰だ。罰を与えられるようなことをしたのだ。何の罰なんだろう?両親を裏切ったことへの、或いは他人様から後ろ指を指されるような関係を持ったことへの。そんなこと、どうでもいい。

 お願いだから、このまま失くさせないでください。誰でもいいから、助けて。専務はどう思うだろう。もしかすると、私の人生にこれ以上かかわらなくても良いと、安堵するだろうか。安堵? いや。何もいらないから、ここいいて。私の中にいて。

 支離滅裂の祈りと願いだ。


 病院に到着しても、父は付き添ったりはしなかった。看護師に車椅子に乗せられて処置室に入る私を、待合室で待っていたのは母だ。エプロンは外していたが外出用の奥様然とした表情はなく、苦しげだった。

 診察の結果安静を求められた私は、返答に窮する。

「手洗いと食事以外は、立ち歩かないでください。お家で難しいようであれば、入院したほうが良いでしょう」

「それ以外で動くと、どうなりますか」

「今以上に危険な状態になります」

 何日かかるかわからない入院費なんて、用意できない。けれど家に帰っても、誰も世話なんてしてくれない。黙って俯いて、医師の言葉を待った。

「一度帰って、旦那様と相談なさいますか?」

 相談する旦那様なんて、いない。自分で決めなくてはならないのに、それでも頷くことしかできなかった。



「何がどうなっているんだ」

 厳しい声の父を、母がたしなめる。

「今はそんな場合じゃないわ。真弓、お家に帰りましょう、ね?」

 家に帰る。帰りたい。けれど。

「帰れ、ない」

 どんな風に、何を説明したら良いのだろう。帰ってはいけないのだと、私を引き止めるものがある。

「安静と言われたでしょう? もしかしたら、入院を勧められたんじゃないの?」

 母の問いには沈黙で答えた。入院する費用が心許ないなどと言えば、ではそのまま流してしまえと言われるような気がした。

「答えなさい、真弓」

 強い母の声に、慄く。こんなに強い声の出る人だったのか。

「今はあれこれと、意地を張ってる時じゃないわ。どの程度の安静が必要なのか、ちゃんと答えて」

「食事とトイレ以外は、立ち歩かないようにって……」

 しぶしぶと答えると、父の苛立った溜息が聞こえた。


「誰かと一緒に暮らしてるの?」

「ひとり、です」

 食事とトイレ以外は立ち歩かないなんて、できるわけがない。できなければ、これ以上危険になるというのに。通院に使うタクシー代すら、今の私には苦しい出費なのだ。出産のための費用、出産後にペースが落ちるであろう内職は、目いっぱい抱え込んでいる。専務は助けてくれるだろうけれど、彼にも生活はあるのだ。子供を取り戻すための裁判も、会社の経営者としての責任も、自分自身だけの都合では動けない。彼の背負っているものは、彼だけでは決められない事情ばかりだ。


「誰の子供なんだ」

「言いません」

 父の厳しい声に、顔を上げた。自分の声はずいぶんと頑なだった。

「言えないような相手なのか」

「言いません」

 車は、自宅への道を走っている。私のアパートじゃない。

「ウチじゃない! アパートに帰して!」

 ああ、自宅の部屋で眠りたい。けれどもう、それを捨てる選択はしてしまったのだ。


「アパートに行って」

 母の声がした。

「あんなアパートに行って、どうする」

 父の苛立った声が聞こえる。

「支度をするの。真弓を入院させるわ」

 私の事情よりも先に、母は決めていた。多分この時、一番冷静だったのは母だ。

「腹の子供なんか、俺は認めない」

「そんな問題じゃありません。あなたは真弓を殺すつもりなの?」

「流産くらいで大袈裟な」

 切って捨てようとした父に、私の聞いたこともない母の声が被った。

「大袈裟じゃないのよ、軽く見ないで。娘が死の危険と隣あわせなのに、放って置けるはずないでしょう」

 母が車の助手席から振り向く。

「認めたわけじゃないのよ。あなたを危険な目に合わせたくないだけ」


 母の言葉に、頬を打たれたようだった。こんな事態で、母は私を守ろうとしている。庇護を踏みにじった代償として、勝手にしろと打ち捨てることもできるのに。

 私が今一番に望み、大切なことは何なのか。意地を張ることよりも必要なのは、頭を下げることなのだ。申し訳ありませんが自分では力が足りませんと、助けを請わなくてはならない。助けを請うて尚受け入れられない時にこそ、絶望すれば良いのだ。

 アパートまで運んでくれた両親の前に、私は膝をついて頭を下げた。

「申し訳ありません。赤ちゃんができました」

 父の顔は憤りを越し、悲しみを帯びていた。

「何があっても産みたいんです。お願いだから、力を貸して」

「父親も教えられないような子供をか」

「今は、言えません。ただ、遊び半分じゃない」

 その間にも、私の呼吸はまた苦しくなる。


 病院へ連絡し、入院の支度を整えた私を乗せた車を走らせながら、父は何度も大きく溜息を吐いた。母は落ち着いたように振舞っていたが、内心は苦しかったろうと思う。そんな時に母が夜中のキッチンでこっそり泣くことを、私はもう知っていた。私が小さいときに祖父が亡くなったときも、私が片桐さんの話を破談にして欲しいと言い、父と争ったときも。

 これほどまでに愛されてきた娘は手酷く裏切り、なおかつ他人に言えないような行動をしているのに、守ろうとする姿勢は変化しない。こんな愛情が存在するのか。


 入院した晩、夜の公衆電話から専務に連絡をした。

「電話しても出ないから、何かあったのかと心配していた」

「両親に送られて、入院しました。詳しいことは、会ってから話します」

 長い時間ベッドを離れることは止められていたから、それだけの会話だった。病院の薄暗いロビーの非常灯が、やけに寂しく見えた。

 会いたい。会って、抱きしめて欲しい。たくさんの人を傷つけても貫きたい、何よりも大切なものを確認させて。

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