誰にも、自分にも、邪魔させない
たった二泊三日のひとり暮らしで、生活の中に話し相手のいない恐ろしさは充分身に沁みた。こんな生活がどれほど続くのかと、怖気る気持ちは大きい。けれどもう、進むことに逡巡したりはしない。
私が選んだ結論だ。私は結婚もせずに子供を産もうとするだらしない女であり、将来の生活を見据えない愚か者になる。育った価値観の中でそれが蔑むべき人間だったとしても、他人から見れば馬鹿馬鹿しい感情だとしても、選ばない後悔よりも選ぶ後悔を取る。
私の中に、専務がいる。恋が成就した日が、ここにある。
正月の三日間を自宅で過ごし、父の仏頂面を見ながら一緒に初詣に出る。
「今年は真弓に、良い出会いがあるといいわ。真弓もパパも納得する人と」
「ママは、本当にそれが幸せだと思う?」
「ママはね、真弓が幸せだと思えればもう、相手はどんな人でも構わないのよ」
母と並んで歩きながら交わした会話は、本音なのかどうかは知らない。世間様に後ろ指を指されるような生活を選ぼうとしている娘を、この人は許すことがあるだろうか。そして数歩前を歩く父が、母を責めることなどしないようにとだけ、願おう。
愛されるだけの娘は、なんと傲慢であったことだろう。これから与える傷や心配を心の中で詫びながら、普段の自分の身勝手な振る舞いを演じてみせる。
ごめんなさい。いつか、許される日は来るのだろうか。
四日目に、父は役員会議のために出勤していった。母は奥様サークルの新年会だとかで、午後から留守になる。もちろんその予定は知っていたし、そのためにクローゼットと押入れを片付けていたのだ。車で迎えに来たのは、専務だ。私の家出の片棒を担ぐのに、最後まで苦しい顔をさせた。
せめて行き先だけでも親に伝えるようにと、何度も言われた。堕胎のできない時期になれば、必ず居所を伝えるからと説き伏せ、意地を張った。
「伝えるときは、俺も殴られに行く」
「相手なんか、伝える気は無い」
父のプライドを考えれば、そんな理由で河埜不動産を追い詰めるような真似はしないだろうが、専務まで非常識だと誹られることはわかりきっている。
「俺も、人の子の親なんだ。知らないってのは、苦しいもんだよ」
専務の子供は多分現在、親と引き離されて貧しい寮の中にいるはずだという。
身の回りの品を少しだけ残し、なんでもないような顔をして、両親と夕食を囲んだ。
「今日はよく笑うわね」
「そう? 最近ストレス溜まってたからかな」
わざとらしくないように、お行儀悪く肘をつく。
「食事中に、肘をつくな。お里が知れるぞ」
「お里はここだもの。上流階級にいるわけじゃなし」
「ああ言えばこう言う。嫁に行った先で恥を掻くのは、自分だろう」
父の煩い小言も、もう聞けないかも知れないと思うと、惜しいものになる。
一晩かけて考えた手紙の文面は、短かった。河埜不動産では連絡がとれること、しばらくすれば居所を明かすこと、それだけだ。トラブルに巻き込まれたわけじゃありません、心配しないでくださいと、それだけは書いた。ひとりになって考えたいことがあるのだと。
実際、引継ぎをしなければ退職することはできず、体形が変わる頃には連絡するつもりなのだから、まったくの嘘じゃない。重要事項をひとつ飛ばしただけだ。
冬休みの最後の日に、出掛けてきますと家を出て、私はアパートに辿り着いた。リースしたパソコンをセットしなくてはならないのに、荷物を降ろすと動けなくなった。
ひどい倦怠感と脱量感に押しつぶされて、硬いベッドに身体を投げ出すと、急速に睡眠が落ちてきた。化粧も落とさず髪もそのままで、私はそのまま朝まで眠り続けた。
「五十嵐さん、退職するんだって?」
「はい、急に結婚が決まりまして。ちょっと早いんですが、両親とも相談して」
「子供ができるまで、勤めればいいじゃない」
上司が、机の前に回りこんで言う。専務から話をまわしてもらったので、頭越しの退職届になってしまった。それについては、もともと縁故入社だから親からの要望という形で伝えてもらっている筈だ。
「そういうわけにいかない相手なんですー。家庭に入るって条件つけられちゃってー」
「今時、余裕のある相手だなあ」
「えー? 親が買ってくれたマンションに住んでるような、普通の人ですよ?」
「親がマンションを買ってくれるっていうのは、そもそも普通じゃないよ。やっぱりお嬢さんだな、五十嵐さんは」
見栄っ張りで、世間知らずの馬鹿娘。他人の羨ましがる生活を「普通」と言い切る無神経さを、ここでは故意に演じる。
「家くらい持ってなくちゃ、結婚なんてできないじゃないですか。年に一回くらい、海外にも行きたいしー」
やれやれと首を竦める上司に、心の中で詫びる。年度が変われば稼動するオンラインシステムを、私が担当するはずだった。
三日後の昼に、母から電話があった。
『パパは放っておけって怒ってるのよ。何があったの?心配してるのよ』
「何もないの。ひとり暮らししてみたかったけど、反対されると思っただけ」
『じゃあ、日曜日には帰ってきなさい。シチューにするわ。ね、好きでしょ?』
それだけで、涙が出そうになった。たった三日間の家出で、暖かい部屋と母の手料理ばかり浮かんでいた。
「好きだけど、しばらく帰らない」
答えた途端に、後ろから名前を呼ばれる。
「仕事中だから、またね。ごめんね」
まだ何か続けそうな母の言葉の途中で、受話器を置く。目頭を強く押して、仕事に戻った。
本当は帰りたいのよ、ママ。帰って泣いて詫びながら、自分の部屋でぬくぬくと眠っていたい。
けれどもう、それはできない。私の行動や感情を気にかけている人と一緒にいれば、一番否定されたくない事柄を、正論と共に否定されてしまう。立ち向かうための武器を、私は持っていない。世間に顔向けできなくとも、私はこれを得ることが正しいのだと叫ぶことが、できない。だからせめて、否定すること自体が無駄だと言える日まで。その時に、どんなに激しく叱られたとしても。
母から電話の来た日に、ひとりでいるのは辛かった。一度アパートに帰宅してから、職場のある駅に戻る。アパートの電話はもう繋がってはいたけれど、予告せずに専務の部屋を訪れた。
「どうした、こんな寒い日に。身体を冷やすだろう」
まだ帰宅したばかりらしい専務は、白いシャツに作業服を羽織ったままだった。
「ひとりで、いられなくて」
私は多分、とても情けない顔をしていた。
「昼に、母から電話が来たんです。そうしたら、私はなんて勝手なんだろうって。こんな風にしかできない自分が情けなくって」
三日目で吐き出す弱音が、せめて泣き声にならぬようにと願いながら、唇が震えた。ストーブに点火した専務が、ゆっくりと振り向く。
「こっちにおいで」
ソファに導かれて、胸に抱えられる。赤ん坊をあやすように、とんとんと背中が叩かれた。
「……ごめんな。そんな顔させるのも、悩ませるのも、ひとりにさせたのも俺だな。こうならないように自分をコントロールしなくちゃならなかったのは、俺だ。せめて離婚が成立するまで、自制できれば」
自制しなかったのは、私の方だ。私が部屋に押しかけたからこそ、始まった関係だった。
「俺の教えた通りに一生懸命成長しようとする真弓が、可愛くてしかたなかった。そこまでにしなかったのは、俺だ。責めるんなら、俺を責めてくれ」
私に翻意させようとしていた専務が、それを言う。私を悪くないと言う。何かが胸に溢れてきそうだ。
「真弓の中に、俺がいるんだな?」
確認するように専務はそう言った。そうなのだ。私が抱えるのは、恋の成就だ。
「そうです。ここに、いるの」
母からの電話で揺らいだ感情が、自分に戻ってくる。失くしてはならないのは苦しい決意だけなのだと、自分の中で声がする。自分が選んだ。誰にも、邪魔させない。自分にだって邪魔させてはならない。
専務は数日に一度私の部屋に訪れて、灯油や米、つまり歩いて調達し難いものを運び込んでくれたし、休みの前の日は遅くまでいたが、泊まってはいかなかった。
「泊まると、お互いに寂しくなっちゃうからな」
多分それは正しいのだが、悲しくもあった。おまえの生活にはこれ以上踏み込めないと、宣言されているようだ。私の生活にスタンスを多く置いてしまえば、専務の会社での立場とか離婚裁判とか、それ以外のいくつもの事柄が滞ってしまう。理解はしていても、感情はついていかない。
専務を玄関で見送った後、ひとりで泣いた。ワープロの内職の納期に追われ、泣きながらキーボードを叩いた。けれど、自分の家には帰れない。帰らないと決めたのだから。
会社にはやはり数日に一度ずつ、母から電話があった。店舗の中で一番先に電話をとるのは私だから、私用電話に気がつかれることが少ないのは、幸いだった。何故帰って来ないのかという問いに、いつも曖昧に返事をした。父も心配しているからという言葉に、胸が痛かった。
「三月になったら、一回顔を見せに行くわ」
三月になれば私自身が揺らいでも、もう取り返しはつかなくなる筈だ。
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