強くなれ

 手元のクッションを投げつけたのは、感情の持って行き場所が見当たらなかったからだ。自分だけが悩んでいたのだと、被害者意識に似たものが先に立つ。専務の状況は理解していて、私が主張したいと思っているものの方が常識離れしているのだと、自分で認識をしているのにも拘らず、突然自分の望みだけがすべてになる。自身の不安定さを上から眺めている自分があるのに、止められない。

 どうしても、なのだ。私に「あの日」は捨てられない。それがもたらした結果を捨てることなんて、できない。続けて投げつけようとした、ソファの背もたれに掛かっていた上着を奪い取られ、専務の胸に抱え込まれた。それは抱擁なんて甘い行為ではなくて、私の突然の激情を抑えるためのものだ。

「落ち着けっ」

 腕の中でじたばたと藻掻く。わかってなんかいないじゃないか。私が何をどう考えたのか、わかっていないじゃないか。


「落ち着け。俺はまだ、何も考えてない。今聞いたばかりで、混乱するなって言うな」

 私の身体を抱えたまま、専務が低い声で言う。動かない腕と肩が悔しくて、私は泣き声を上げた。

「泣くな。頼むから、落ち着いてくれ……」

 途方に暮れた声で専務は繰り返し、私の背をあやすように何度も優しく叩いた。


 しゃくりあげながら、専務に肩を抱かれて座る。化粧はもう、ぐしゃぐしゃだ。髪もきっと、朝のブローなんて跡形もなくなっている。

「一緒に考えさせてくれ。真弓がどうしたいんだか、俺がどうすればいいんだか、自分だけで決めないでくれ。ふたりの、問題だ」

 ふたりの問題。その言葉で、私は顔を上げた。


 妊娠したのは私で、それをベースに将来を考えなくちゃならないのは、私だ。結婚できないのは知っていて、専務の立場も知っていて、だからこそ「申し訳ありません」と謝ったのだ。専務が主張することに背く結果になるのだと思っていたから。徹頭徹尾、私だけの問題だと思っていた。

 ふたりの問題なのか。私だけではなく、専務も考えるべき問題だったのか。

「真弓だけを傷つけるようなことには、したくない。いいな?」

 声は出なくて、こくんと顎で頷いた。


 その日から一週間の半分の夜を専務の部屋で過ごし、お互いに消耗しながら感情をぶつけ合うような作業をした。声を荒らげることこそなかったけれど、専務は私が今の状態で家を出ることに、賛成するわけがない。堕胎して口を拭って親元にいろと、直截の言葉にされたわけではないが、つまりはそう主張していた。何も後ろ指を指される生き方などしなくとも、もっと安穏とした幸福があるではないかと言った。

「そんなもの、いらないんです」

 そう言い張る私に、困った顔をしてみせる。口に出してしまった今、困らせることはもう怖くない。

「ご両親に、どう説明するつもりだ」

「説明なんて、しない。知らせるつもりもない」

 父の性格は、専務も知っての通りだ。


「誰の助けも借りられないんだぞ。俺ですら、あてにはならない」

 何かがあっても相談する相手もいず、おそらく狭いであろう部屋の中で、途方に暮れた顔の自分が赤子を抱く。想像するだけで、寂しく怖い情景だ。けれど。

「どうしろっていうの?」

「今回は……」

「今回とか次回とか、そんなものじゃない!」

 たとえば次に妊娠したとしても、それは現在腹の中にあるものとは別のものなのだ。私が欲しいのは、それじゃない。

「ここに、専務がいるの!私にしかわからないかも知れないけど、ここに在るのよ!私は、これしかいらない」

 奥歯が痛むような顔で、専務は私を見ていた。

「苦労しないから幸福なんて、そんなの嘘だって知ってるんです。それを望むくらいなら、去年の縁談は反故しなかった。教えてくれた人が、それを否定しないで!」


 帰宅しない私に両親は苛立ち、殊に父は私の顔を見ることもしなくなっていた。それを幸いとするほど、私自身が緊張しきっていて、母だけがおろおろと私の表情を盗み見ている。もうじき、年が変わる。



「どうしても、今なのか」

「先に何があるっていうの?何年か待った後の結婚?それが幸せだって保証なんて、何もないのに」

「自分から苦労を背負う必要なんて……」

「必要はあるわ。一生後悔する覚悟はできなくとも、目の前の苦労なら覚悟はできてる」

 実際のところ、できているのは覚悟だけで、どんな苦労になるのかは想像もできない。両親が私に与えてくれたものを、私が用意することなんてできないのだ。それどころか、自分を養っていくことすら怪しい。それでも、理解できていることはある。

 ここで主張を諦めてしまえば、私は私を許すことができない。何よりも捨てたくない、捨ててはいけないと判断したものを捨ててしまえば、私の存在なんて価値はないと思う。


「子供なんて、いつでもできる」

 専務の言葉は、ひどい暴言だと思う。

「いつかできる子供は、この子じゃない」

「なんで、そこまでこだわるんだ」

 子供を持つ専務ですら、形になっていない子供に対しては、この感覚でしかないのか。産む性である女の感覚とは、まるで違うのだ。

「こだわらない方が嘘だわ。だって、私の中にいるんだもの。これが私の中で、唯一の揺るぎないものなんだもの」

 まだ外見には何も現れていない腹を、腕で抱える。

「ここにいるのは、専務なの!私が持っていても許される専務は、これだけなの!」

 絶叫する自分の声が、自分の中でこだました。


「俺か」

 しばらく無言でいた専務が、口を開く。

「真弓にしてやれることなんてないのに、そんな風に俺を抱えようとしてくれてるのか」

「……お願い。何もしてくれなくていいから、否定しないで」

 祈るように縋るように、専務の膝に向けて頭を下げた。

「何も望みません。お願いですから、私の行動を否定しないでください。お願いします。お願い……」

 もう、理解されようとすることすら諦めた懇願だった。


「本当に、何もできないんだ。真弓が幸福になるようなことなんて、何も」

「幸福か不幸かは、自分が決めます」

 他人の決めた幸福の空疎さは、もう実感した。欲しいものを得ようと思わないことを、不幸と呼びたい。

「何不自由なく育てられた人間を、俺が……」

「専務じゃありません。自分で選んだんです」

 苦しそうに口を噤んだ専務は、口元を押さえて俯いていた。


「いろいろなものを、失くすぞ」

「理解してます」

 専務は私を胸に抱えた。

「俺が、真弓の中にいるのか」

「います。ここにいるんです」

 専務の深い溜息が、私の行く道を照らすのを感じた。



 腹を括った専務の行動は、早かった。河埜不動産の所有物の中で、住民が全て退去すれば取り壊し予定になっているアパートの一室に、家具と家電が運び込まれる。家賃が無償であることには、心許ない生活の中では歓迎すべきことだ。

「悪いな、こんな場所で。借り手の契約はないから、社員も気がつかない」

 当時ですらもう珍しくなっていた砂壁と木の窓枠は、いかにも古臭かった。それまでの生活の中で「あって当然」だと思っていたもの、たとえば湯船はあってもシャワーはないし、エアコンの配管をする場所もなく、そんな部屋に住まう人がいるのかと、ただただ驚く。自宅で私にあてがわれていた部屋に、小さなキッチンと風呂場と手洗いがついているだけの広さで、自分の持ち物ですら収めきれるとは思えない。

 けれど、それは必要なものだったろうか?いくつも持っているバッグも靴も、ワンシーズンで何度も袖を通さない服も、生活に必要なんだろうか。

 自分をより豊かに見せるための虚飾が自分の存在価値だった頃、確かに必要なものだったそれらは、現在は必要じゃない。私はもっと大切なものを抱えているのだ。


 両親の顔を見るのは、辛かった。専務が与えてくれたあの狭い部屋を見たら、自分がいかに何も知らずにいたのか、深く理解した。無償で与えられていたものは、愛情だけじゃない。生活の根源からの全てを依存して、更に我儘放題にしていた。

 甘えた娘は自分の判断能力なんて信頼されなくて、当然であったのだ。失敗しても泣きながら帰って許される場所があったからこそ、反抗できた。それにすら気づかずに、贅沢を享受した。私が突然消えてしまったら、この人たちはどれほど失望し、怒り、かつまた心配するのだろうか。

 クリスマスに母が焼いたケーキは、もう二度と味わえないだろう。華やかなイベントの当日に在宅する私を、母が珍しがる。

「たまには、ママとクリスマスしてもいいと思って」

 両親のためにプレゼントを選ぶことも、初めてだったかも知れない。気難しい父ですら、受け取った顔は嬉しそうだった。

 ごめんなさい。欲しいものは、他にあるのです。



 悪阻はそれほどひどくなく、日常生活の中の匂いに敏感になった程度なのは幸いだった。けれど、母は何かに不審を抱き始めていた。

「真弓、先月生理あった?」

「あったよ、なんで?」

「トイレの汚物入れの始末が、少なかった気がするから」

 母の返事に、びくんとする。家事なんて代わり映えのしないルーティーンな仕事だと、こんなところでも舐めていた。自分を日常的に観察している人には、もう誤魔化しきれない。


 年末にスキーに行くふりをして、アパートの部屋の中を整える。小さくて寒い部屋で、灯油のストーブで湯を沸かした。専務は訪れて一緒に片付けてはくれたが、泊まってはいかなかった。

 初めて過ごす一人の夜は心細く、薄いガラス窓に吹き付ける風の音にさえ、怯えた。自宅マンションの、守られた自室じゃない。友達と旅行に行くホテルみたいに、セキュリティはない。呼んでも誰も答える人のいない所に身を置くことは、初体験だった。

 寂しさと孤独の怖ろしさに、布団の中で涙をこぼした。その自分の不甲斐なさ、頼りなさ。専務のあれほどの困惑を押し切り、両親に告げられぬことをして私が得ようとしているものは、それほど価値のあるものなのか。この孤独に耐え抜かねばならないほど、私に必要なものなのか。

 まだ、間に合う。まだ、無かったことにできる。自分の中で、感情がせめぎ合い相反する。出してしまった結論を揺るがした晩を過ごし、窓を開けて明け方の空を見た。

 寒い、と肩を抱え、慌ててストーブに火を入れて、灯油を購入に行く手段すら持っていないことに気がつく。絶望的に何も持たない自分を呪いながら、もたもたと着替えて朝食を買い整えるために外に出た。調理器具や食器は、まだ何もない。


 アパートのドアを開けて外に出れば、冷たい風が頬を打った。自分の生活にしか興味のなかった娘に、まるで平手でも当てるように。これからもっと深くなる冬は、どれほど自分を強い風で翻弄するのか。

 けれど風に煽られても、私自身は吹き飛んでなんかいないじゃないか。足をとられることすら、ないじゃないか。昨晩孤独に耐えることができたのなら、今晩だって耐えることはできる。風がどんなに強くても、私は吹き飛ばない。

――ならば。


 俯くな。俯けば、遣り過ごす風の強さを見ることができない。冷たい風を顔で受けても、俯かないほどに強くなれ。

 コートの胸元をしっかりと閉じ合わせ、私は顔を上げた。私は私の行きたい方向へ、歩を進めるのだ。

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