消極的にでも、決意はある
帰宅することはできず、行く場所もない。後から考えれば、その時に「死」を思い浮かべなかったことは幸いだった。すべてを簡単に完結させる方法とすれば、短絡的にそれを考えても不思議じゃない。私が抱え始めたのは、産もうなんていう強い決意ではなくて、手放したくないという希望だった。
年末の近い華やかな街を歩くことはできず、適当に降りた駅から知らない道を辿る。葉の落ちた街路樹は、おそらく郊外のベッドタウンの中だ。風は強く、人通りは極端に少ない。
代償としては失うものの多すぎる希望が、一歩進むごとに腹の中で膨れていく気がする。過保護な両親と贅沢な生活や、気の置けない友人たちとの無意味なバカ騒ぎ。アスファルトを踏む私の靴はイタリア製で、身体を包んでいるコートは一か月分の給料をまるまる注ぎ込んだものだ。それを許されていた自分を惜しむのは、もう結果が見えているからだ。
一際の強い風が街路樹を揺すり、肩に吹き付ける。長い髪が風に煽られ、思わず手で押さえた。こんな風にさえ負けそうな自分が、ひどく小さく思える。それなのに抱えている希望は、顔を上げろと私に強く主張するのだ。私に、どうしろと主張するのだ。すべてを捨ててしまえというのか。
直接打ち付ける風が、肌から体温と水分を奪っていく。それは強い責め苦であるのに、私自身は消えない。街路樹を抜けて知らない公園に出ると、方向を転換した。
小さな喫茶店でコーヒーを一杯だけ飲み手足を暖めると、自分は今泣いていないのだと気がつく。自分の行動に戸惑って流した涙なんて、乾いているのだ。苦しいことに変わりはなく、何も好転などしていないのに。それどころか方向さえ見失ったというのに。
店を出て一歩踏み出すと、また強い風が私の顔を打つ。俯いて風を避け、駅までの道を戻った。自分が何をすべきか考えることはできなくとも、少なくとも滞り気味だった内職を仕上げて、報酬を受け取ろう。まだリミットは来ていない。他人や世間の常識ではなく、自分と相談しなくてはならない。
一心不乱にキーボードを打つ、それに救われた。原稿をモニタに移していくだけの単純作業に没頭する。時々頭の表面に浮かび上がってくる、自分への質問。それを隅に追いやり、またキーボードを打つ。納品してしまえば、会社の給料の三分の二ほどの所得が得られるはずだ。
自立するための一時的な内職のはずのそれは、縋れるようなものだろうか?私が今、消極的に進もうとしている道を、託せるようなものだろうか。
両親が気がつく前に、すべての行動を起こさなくてはならない。間に合わなくなるまで、どこかに隠れていなくては。その考えで、自分の決意が固まってしまっていることに気がつく。手段だけが思い浮かばず、失うものばかり数えてしまう。河埜不動産に居続けることもできない。父のコネクションで得た職場では、自分の動向を伏せることはできない。
そんな決意をしようとしている私を、専務はどう考えるだろうか。それを思い浮かべると、悪寒に似たものがぞくりと背を走る。専務はきっと、望んだりしない。面倒ばかり持ち込む私を、不要なものだと思うかも知れない。不要だと切り捨てられてしまえば、私はひとりで立ち向かわなくてはならないのだ。
ひとりで?両親にすら相談できないことを抱えて、ひとりですべてを受け止めることができる?
キーボードを打つ指が、ぱたりと止まる。想像をしたこともない未来は、リアリティを持たないままに迫ってくる。今ならまだ、間に合う。今ならまだ、知らん顔でこの生活を続けていけるのだ。
洗面所に残る父のローションの香りが、やけに鼻に衝いた。それが一番最初の兆候で、自分に残っている時間が思いの外短いことを知る。逃げろと、自分の内から声がする。逃げてどうにかなるものではないのに。
苦労させまいと過保護に育ててきた娘が自分から道を外れることに、両親はどれほど傷つくだろう。鬱陶しかった干渉を惜しむ気持ちが、今更湧いてくる。両親の導いた通りの選択ならば、幸福だったろうか?そんなことはない、幸福になると思えなかったからこそ反発したんじゃないか。
では、何が苦しいというのだろう。
専務にはやはり、告げなくてはならない。けして喜ばしいことではない事柄どころか、彼に更なる苦しみを強いることが決定しているのに。
「結婚退職ということに、しておいてください」
直属の上司よりも先に、専務に退職の意思を告げなくてはならなかった。必死で覚えた仕事も、もうじき始まる筈の社内オンラインシステムも、未練がないわけじゃない。妊娠の事実よりも先に退職の意思を告げたのは、専務の反応がまだ怖かったからだ。
「どういうことだ」
「会社に居続けることが、困難なんです」
専務はまじまじと、私の瞳の奥を探った。
「俺が原因か。辛くなったか」
伝えてしまえば、後戻りはできない。自分だけの中で「無かったこと」にしてしまえない。そして専務と職業を、一度に失うかも知れないとさえ思う。迫ってくる期日は、私に結論を急がせる。
「辛いのは承知でした。仕事が半端なのも、わかってます。でも、時間がないんです」
時間という言葉に、専務が首を傾げる。
「何の時間だ」
「他人の目に見えてしまうまでの時間です」
一息おいて、目を閉じて続けた。
「申し訳ありません。妊娠しました」
目を開いて専務の表情を見ることなど、できなかった。戸惑いは仕方ない。けれども怒りや哀れみであったら、まして汚物を見るような目で見られたりしたら、私はもうどこにも行けない。目を閉じて俯いたまま、涙がこぼれた。
しばらく何の物音もしなかった部屋の中で、専務が立ち上がる音が聞こえた。一瞬、私を置いてどこかに行こうとしているのかと、慌てて顔を上げるとこちらを見下ろす視線があった。
「ひとりで、悩んでたのか」
その声は、優しかった。
「自分にばっかり手一杯で、おまえのことに気がついてやれなかったな」
そう言ってインスタントコーヒーの瓶から直接、マグカップに粉を入れた。ポットから湯を注いで、私の前に置く。
「まず、俺にも考えさせてくれ。いいか」
無理だと言い聞かされるのだろうか。それとも。私にできるのは、専務の表情から本音を探ることだけだ。拒否されたなら、私はどこへ向かうのだろう。
しばらく黙っていた専務は、ふう、と小さく息を吐いた。
「こればっかりは、女に主導権のあることだよな。男が何を言っても、決めるのは女だ」
暗に迷惑だと告げられているのかも知れないと、身構える。堕胎を示唆されても、自分ではそれをできないと結論したのだ。
「結婚は、できないぞ? 経済的にだって、100%は見てやれない。一緒に住むこともできない。曲がりなりにも、経営者って立場があるんだ。わかるか?」
一言ずつゆっくりと、言葉を切りながら専務が言う。
「親元にも居られなくなる。会社にも居られなくなる。子供を育てるのも、俺の条件が整うまでひとりになるんだぞ」
そんなことは、全部考えて天秤に載せた。どれだけ悩んだのかなんて、専務には理解できない。怒りがふつふつと湧いてくる。
「……知らない、くせに」
私の唇から、言葉がこぼれ落ちた。
「私が勢いだけで言っているとか、意地になってるんだなんて、思わないで。考えて考えて、考えてっ……!」
それ以上は、続けられなかった。
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