恋の成就は、あの日にあったのだ

 本社が休みの日でも、油断はできない。会社の人間が通らない道を選び、あたりを窺いながら歩くのは癖になっている。隠れるような足取りでマンションの通路を歩き、専務の部屋のインターフォンを押す。

「来たのか」

「来ました」

 お酒は飲んでいない。薄暗くなった部屋に、カーテンは引かれていなかった。専務の顔色が、見えない。

「どうしたんですか」

「カルト参加を言及した途端、強行された。なおを連れて行きやがった」

 暗い部屋の中、専務の瞳だけが鋭い。

「どこに?」

「村だよ、財産全部明け渡した寮生活だ。何が理想の生活なもんか、金を巻き上げる手段じゃねえか」

 いつになく乱暴な言葉遣いが、専務の動揺をあらわしていた。


「あの女が不幸になっても、俺にはどうしようもない。でも、なおは――」

 カーテンを引いて、専務を座らせる。弁護士事務所でどんな話になったのかは知らないけれど、専務はひどく混乱していた。

「なおが壊されることだけは、黙っているわけに行かないんだ」

「壊されるって……」

「『ほほえみ教育』とやらでね、会員以外と口を利けない。普通の生活を見ることどころか、テレビみたいな娯楽も与えてもらえない。それは世俗を意味するから」

 では子供は、そこ以外のことを何も知らずに成長するのか。そこに連れて行かれてしまったら。


「欠席裁判だから、親権はとれる。ただ、次の裁判は一ヵ月後だ。その間、手をこまねいていなくちゃならない」

 専務の焦りは、怒りを伴っている。

「……バカが。逃げれば話が終わるとでも思ってるのか。なおは、必ず返してもらう」

 専務の手が、私を抱き寄せる。

「こんなに面倒な男は、放り出したいだろう」

「試さないでください。そんなことができるんなら、押しかけたりしませんでした」

 専務が欲しかったのは、私のほうだ。私が専務と会いたかったのだ。私が専務に抱かれたかった。


 この傷だらけの人に、私はますます厄介な物事を持ち込もうとしている。

「真弓には、辛い思いをさせる。だから俺が億劫になったら、俺を見捨てろ」

「そんな言い方、狡いと思います」

 今の私には、判断することすらできないというのに。

「俺には何も言えないんだ。辛いと思ったら、遠慮なく俺を捨てていけ」

 かすれた声に裏腹な感情が見え隠れすると思ったのは、私の希望だったかも知れない。



 時間は止めてしまいたいと思っても、流れていくものだ。処置日の前日に仕事を終えた後、ひとりで街を歩いた。専務に合わせる顔はなく、かと言って帰宅して両親のいる場所にも、いられない。どうしようもなくひとりだ。

 書いてもらわなくてはならない同意書は、寛子に代筆してもらった。結局、専務に言い出すことはできなかったのだ。

 だって、どうしようもないじゃないの。誰も望んでいないんだもの。

 自分への言い訳だけが、頭の中で渦巻いている。結婚できない事情があるのだとか、私の両親に対する親不孝なのだとか、産んでしまっても責任が取れないとか、取ってつけたような言い訳だ。


 向かい側から、小さな赤ん坊を抱っこ紐で抱えた若い女が歩いてくる。幸福そうな顔で、まだ言葉を解さない子供に何事か話しかける。このまま時間が経てば、私の腹の中のものも、あんな風に形になるのだ。

 ヒトゴロシだ。おまえは、ヒトゴロシ。自分の行為の結果を、ないものにしようとしている卑怯者だ。

 自分を非難する言葉が、身のうちに響く。これもまた、取ってつけたような常識的な倫理観でしかない。薄紙を纏った感情が、私を呆然とさせていた。


 辛ければ捨てていけと、専務は言った。専務はそれでも構わないというのだろうか。ひとりに耐え切れなくて、私を呼んだのではないのか。

 いてくれ。あの日の言葉が、もう一度蘇る。います。私はそう答えたのだ。あの日があったからこそ、専務は私を呼んでくれたのだ。

 あの日の結果なのだと、何度も思ったことをもう一度思う。恋の成就は、あの日にあったのだ。



 朝起きて、顔を洗った。喋らなくなった私に慣れてきた母は、もう私を責めたりしない。私の休日の予定を確認したりもしないので、外出することにためらいはない。その外出先を除いては、だ。

 丁寧にシャワーを浴びて、持参するように言われたものをバッグに入れた。数時間で帰れる処置で、普通程度に安静にしていれば、翌日は動くことも可能だという。のろのろと身支度をして、時間を確認する。


 出かけてくるからと家を出て、俯いて歩いた。風が冷たい。もう年末が近いのだ。子供を取り戻そうと必死の専務は、きっと季節よりも日数を気にしているだろう。

 ……子供? 誰の子供? 私の腹の中にあるのは、それとは違うものなの?

 そう考えた途端、私の足は動かなくなった。中にあるものは、これから紛れもなく人間に育っていくものだ。結婚しているとか両親が喜ばないとか、その前に。

 専務がこの中に、いるんじゃないか。私の中にいるのだ。


 産婦人科医のある駅で、電車を降りることができなかった。私の尻は根が生えたように、電車の座席から動けなかった。どうしよう、どうしたら良いのだろうと自問して、もちろん予約通りに産婦人科医に到着することが、真っ当なことだと自分で結論を出しているのに。

 それでも動けなかった。否、動かなかった。


 どうしても、どうしても私に、それはできない。たとえこれから、誰に何を説得されても変わることはないだろう。

 自分の行動に呆然としながら、電車の座席の上で涙を流した。

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