ここに、在るのに

 ぐずぐずと迷っているうちに、手遅れになってしまう。まずはじめに、そう考えた自分がいた。友人の中では一番冷静で頼りになる寛子にだけ、打ち明け話めいた相談をする。

「ドジ。真弓に似合わないったらない相談だね。早いうちに病院にいったほうがいいよ」

「だって、まだ間違いかも……」

「間違いなら、即ラッキーじゃないの。早くしないと、始末できなくなるよ」

「……しま、つ?」

 始末という言葉に、ぎょっとする。

「相手の男に、お金出させなさいよ。身体まで傷つけるのは、女のほうなんだから」

 自分では手遅れになるのと何のと考えたくせに、他人にそう言われて、改めて次の行為に結びつく。本当に妊娠していた場合、次に選ぶの道はひとつしかないのだ。

「初期なら、そんなに時間かかんないよ。当日帰れる」

 えっと驚いて、寛子の顔を見た。

「何びっくりしてんのよ。何人もいるわよ、そんなの」

 細巻煙草の煙を吹き出し、寛子は当然のような顔で言う。


 普通のこと、なんだろうか。結婚していない男女の子供は、そうして「なかったこと」にされているのか。私も、きっとそうするつもりなのだ。

 専務との結婚なんて、考えられない。生まれるまでに離婚が成立するとしても、会社の中ですらどんな目で見られるか想像できる。ましてや、私の両親が賛成するはずがない。どれだけ私に失望し、私を汚いものでも見るような目で見るだろう。

 罰が当たったのだ。両親に反抗して、自分の主張だけを通そうとした罰が当たった。

 病院に行かなくてはならない。自分のことは自分でしなくちゃいけない。もう、大人なんだから。


 自分の部屋で、膝を抱える。

 相手の男には、ちゃんと言いなさいよ。寛子の声が聞こえる。告げたら、専務にも避けられるのではないかと、それが怖い。本当に妊娠しているのだとすれば、相手は専務しかいないのだ。それなのに、専務から堕胎を命じる声を聞きたくない。それを聞く前に、自分で動かなくては。

 泣いても泣いても溢れてくる涙は、どうしようもない。浮腫んだ顔は、親にだって見せたくない。次の休日に、病院に行かなくては。



 屈辱的な診察の後、医師は無表情に「二ヶ月です」と告げた。間違いであって欲しいという望みはあっさりと断たれ、瞬間目の前が暗くなった。

「どうなさいますか?」

 テレビドラマで、そのシーンは見たことがあるような気がする。医師の口調は恐ろしく事務的だった。私からの答えは、ひとつしかない。他にどうしろと言うのだ。

 処置日を予約すると、一枚の紙が渡された。

「妊娠中絶同意書です。相手の方に記入していただいて、ここに押印の上お持ちください」

 受付の人は私の顔を見ずに、慣れた口調でそう言った。この場合、顔を見ないのは礼儀なのかも知れない。


 ドウナサイマスカ?

 ショチヲ オネガイシタイノデスガ。

 それだけの会話が、頭の中をぐるぐる回る。処置?何の処置?私の足の間に、ゴム手袋の医師の手。気持ち悪い。銀色に光る器具で、私の身体に何をしようと言うの。自分が申し出たにも拘らず、ぶくぶくと浮き上がる泡のような被害者意識。

 チイサスギテ マダ エコーデハ カクニンデキマセン。

 まだ、エコーでは確認できません。小さすぎて、まだ。もう少し経てば、エコーで確認できるということか。エコーに写るのは、生き物なのか。生き物を処置する?

「いる」のか。私の腹の中に、生き物がいるのか。それを処置してくれと頼んだのか。腹の中にいる生き物をどうしろと?大体、その生き物はどうやって私の腹に―――


 いてくれ。

 あの日の小さな背中が私の中に残したものは、形を求めて育とうとしている。この身体の中に、あの日が留まっているのだ。


 私はあの日を、なかったことにしてしまおうというのだろうか。あの日の自分が、間違いだったとでも思っているのか。処置してくださいなんて一言だけで、消し去ってしまおうと――

 違う!あの日は確かに存在したのだ。私の存在を求められた日が、存在したのだ。証拠はこの腹の中にある。

 どうしろと言うのだろう。誰にも望まれない関係の誰にも望まれない結果を見るために、専務を欲したのか。そして私自身が見たくない場所を、消し去るために。

 あの日は、ここに在るのに。専務が「いてくれ」と言った日が、確かにここに在るのに。


 延ばしていれば、手遅れになる。もう予約もしてしまった。歓迎する人なんて、誰もいない。私自身も、何の覚悟もない。どうしようもないのだ。

 両親になんて伝えられないし、専務だって困惑する。結婚もせずに妊娠した女なんて、世間にも後ろ指を指されるだけだ。誰にも知られぬうちに、どうにかしてしまわなくてはならない。どうにかというのは、つまりそういうことだ。


 ここに、在るのに。専務がここにいるのに。


 目の前に蜘蛛の糸を垂らされたならカンダタのようにしがみつくのに、私の前には一本の糸も降りてこない。内から叫ぶものが身体から出ないように、ただ背を丸めて膝を抱え込む。助けて。



 二日間仕事を休み、やっとのことで出勤する。笑顔で接客し、溜まった事務処理をしているのは、いったい誰だ。

「五十嵐さん、顔色が良くないけど」

「大丈夫ですよ。ちょっと貧血気味だったけど、今日は残業もできますよ」

 帰れば、内職も待っている。病院の予約は来週だ。誰にも気取られてはならない。

「五十嵐さん、電話」

「はーい」

 誰からとも確認せずに取った受話器から聞こえたのは、自分を根底から揺るがす声だ。

「――仕事中なのにな。今日、来れるか」

 専務からそんなことを言ってきたのは、はじめてだった。


 今会えば、取り乱してしまうかも知れない。予約した日までは、あと四日しかないのだ。本社は週末は休みだけれど、専務は大抵商談で出ている。

「今、どちらですか」

「弁護士事務所だ。あの女が――」

 疲れた声が途切れて、溜息が聞こえた。

「――真弓。俺からは追うまいと決めてたのにな」

 五十嵐という呼びかけじゃない。低い声で呼ばれたのは、名前だ。仕事中であることを、一瞬忘れた。

「伺います」


 残業にならぬように優先順位を決めて仕事を片付け、翌日以降に回せるものを後回しにし、やはり具合が悪いのでと定時で会社を出た。ひとつ角を曲がったところで、小走りになった。こんな時ですら、専務が恋しい。誰にも言えない筈のことを身体に抱え、顔が浮腫むほど泣きながら悩んだというのに。

 彼の声が、私を必要だと呼ぶ。傍らにいてくれと言っているのだ。

 あの手を、あの声を、あの肩を、ただ思い浮かべる自分がいる。私を必要としてください。もっと呼んでください。そのために私は今、こんな風にあなたの部屋に向かって走っているのです。

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