冷たい風は背中から
「親にも言えないような相手と、おつきあいしてるんでしょう」
そう母に強く言われたのは、その日の晩だった。
「うんと年上の人に送られて帰って来るって聞いたわ」
「誰に?」
「誰だって、構わないでしょ。それよりも、こっちの話を……」
「私が誰とつきあってて何を考えてるかなんて、ママに報告する義務はないでしょう」
親に喧嘩腰で返事することには、もう慣れてしまっていた。
「あなたはまだ、結婚前の娘だから。お嫁に行くまで親が管理するのは、当たり前でしょう」
家の体裁だとか、他人の噂話とか。
「まさか、人様に憚るような相手とつきあってるんじゃ」
「放っておいて!」
追いすがって話をしようとする母を振り切り、鼻先でドアを閉め、ドアの前に椅子とスーツケースを積んだ。専務の車で送られているのを見た人が、母に告げ口をする。自分ならば目にしても気にもしない光景が、他人には好奇の対象なのだと知ったのも、その時だった。自分がそれほどに世間知らずだと、目の前に突きつけられる。
何をしたらいい、どうしたら救われる?
あの小さくなった背中を、守りたいのだ。けれど私は、ますます彼を追い詰めている。こうして親や会社に知れてしまえば、彼はますます面倒なことになる。私が彼から離れれば良いのに――そんなこと、できない。想像だけで半身をもぎ取られ、涙がこぼれる。できない、できない。
目の前のスーツケースに目が行き、慌てて預金通帳の残高を思い返した。無駄遣いが減り、ストレス発散なんて名目のショッピングも減っていた一年、些少な預金ができていた筈だ。持ちすぎているブランドの服やバッグも、まだ買い取り店で値崩れを起こしているものは少ない。
目が開く。家も私自身も知らない場所ならば、煩わしさはひとつだけ、緩和される筈だ。
知らないということは、この場合強みだった。同年代でも自分の稼ぎだけで生活している人たちはいて、河埜不動産の中にも数人はいたと思う。他人にできることならば、自分もできる筈だ。母に頼っていた食事や部屋を整えることがクリアできれば、ひとりの生活は成り立つと思った。
部屋代と食費、それに生活道具。生活には「目に見えないお金」がかかることは、おぼろげにしか知らない。ただ監視される鬱陶しさから逃れるための手段を、そこに見た。それでも浮かんだときにはまだ、あくまでも選択肢の中のひとつとして視野に入れただけだ。
「他人様に言えないような人と」
「パパもママも真弓の幸せを考えて、一生懸命育ててきたのに」
毎晩のように聞く言葉は、父の帰宅でいつも遮られた。母自身も父の耳には入れたくなかったのだろう。エリートでプライドが高く頑固な父は、知れば私と共に母を責めるだろう。多分母も、同じように考えたに違いない。監理や躾が悪く、育て方を間違ったのだと。それは母も、避けたかったに違いない。
私はまた宅地建物取引主任者の勉強を再開し、資格を得るころには自立しようと考えていた。自立は家を出ることなのだと、単純に考えた結果だ。
専務の奥さんが「ほほえみ生活会」の共同生活に、焦っているのはわかっていた。息子が小学校に入学してしまう前に(そのカルトにおいて、一般社会の情報は穢れだ)共同生活する村に連れて行きたくて、けれどそれを表に出せば裁判では不利になることがわかっている。母親の愛情であることを精一杯前面に押し出し、愛人(つまり、私)を持つ男が子供を監護できる筈が無いと、強く主張していたらしい。
ここで遠縁であったことが、悪い方に動いていた。孫をカルトに渡さないための共同戦線を張っていた筈の奥さんの両親は、離婚係争中に女を作った男など、信用しなくなった。娘はどうあれ、孫の監護を実家で行うから親権を手放せと、人を介して申し入れてきたらしい。まさに、泥沼になった。
家を出ようとぼんやりは決めていたけれど、まず何をすべきかも知らない状態で、現在のようにインターネットですぐに検索できるわけでもなく、ひとり暮らしの友人と食事をして驚かれたりもした。
「真弓がアパート生活? 親と喧嘩でもした?」
「ん、ちょっと息が詰まるっていうか……」
「遊んで歩くお金なんて、なくなるよ? 夜だって、自炊必須だし」
「最近、あんまり夜遊びしてないもん。それよりも、自活したい」
部屋の探し方とか、見えないお金がどれくらいかかるものだとか、生活に必要な買い物だとか。
大切にしているピンクのバラの絵のイタリアの食器は、持って行こう。洗濯機や冷蔵庫は。食器棚、小さなテーブル、思いつくあれこれの金額も知らない。
きっと、こんな話を両親は反対するだろう。そして、また見合いの話を持ってきて、会社を辞めろと言い出す。なるべくなら、知られないように準備しなくては。
冒険のようにワクワクするのは、自分で準備して決定しようとしているからだ。
大丈夫、それくらいのことは、同年代が何人も行動を起こしていることなのだから。そう自分を励まして、不安よりも大きくなる「自由になる」期待を膨らませる。
「送ってきた男は誰だ」
帰宅の遅い父に顔まで確認されなかったのは、その時点では幸運だったのだと思う。専務の顔は父もよく知っているし、年齢から言っても専務は既婚者だと思っていたろう。実際に、既婚者であったが。
「こんなに遅く、男の車で。若い男の乗るような車じゃなかったな」
母がどこまで父に告げているのかわからないので、返事をするのは危険だ。何食わぬ顔をして、自立してしまうまでの辛抱だと、腹を括る。
「お父さんの車を借りる人も、いるのよ。パパだって遅いじゃない」
「男は、女とは事情が違う。嫁入り前の娘が……」
「成人した社会人よ」
「たかが街の不動産屋の受付じゃないか」
エリートに育ち、何人もを思い通りに動かす顔は、これまで家の中でも適用されてきた。私は父の部下じゃない。大切に育てられはしたけれど、企業の縦割りじゃなくて、ここは家庭だ。
「親の言うこともまともに聞けない娘が、一人前の口を利くな。男と夜遊びしたり役にも立たない勉強するくらいなら、家の手伝いでもしろ」
出る。こんな家、出てやる。そう念じることで聞き流し、自室にこもる。安穏とした場所は、もうここじゃない。
もしも自分だけの生活になれば、専務は私の部屋を訪れてくれるだろうか。専務のマンションの出入りに怯えるより、会社から離れた場所ならば落ち着いて会えるような気がする。私の生活に専務が入り込み、現在のように狂おしい感情ではなくて、ごく普通の顔で食事したりすることができるんじゃないだろうか。少なくとも専務の部屋でなければ、離婚や仕事についての煮詰まった表情は、柔らかくなるのではないだろうか。
甘い考えは、一縷の望みだ。
「いてくれ」と言った専務を、忘れたくない。私を必要だと言ってくれた専務を、私が必要としているのだ。あの人が望んでくれなければ、私は他人の価値観で生活し、ステイタスによる優越感を追うだけの人生だったろう。それ以外の希望なんて、何も持たなかったのだから。
部屋を借りるのにも数か月分の家賃が必要であること、揃えなくてはならないものの金額を考えると、いくら金銭感覚に甘い私でも、手持ちの預金がすべて消えてしまうことがわかる。就業後にアルバイトしている友人はいるけれど、夜にスナックなんかで働きたくはない。たまたま手にしたアルバイト情報誌の中の一ページが目に入ったのは、ラッキーだったと言う外ない。
資格は金になる。お嬢さん学校では知らなかったことは、たとえば専門学校に進んだ同世代なら知っていたことかも知れない。そして資格を推奨した会社のシステムが、その後の私を救うことになる。そのときにはまだ、手軽な内職だったとしても。
『在宅ワープロオペレーター募集。ノルマなしの出来高制』
情報誌に折り目をつけ、高揚した気分で朝を待った。
内職の面接は、とても簡単だった。ワープロ検定がモノを言い、募集よりも多く集まった希望者の中から優先的に仕事が割り当てられる手筈になる。手持ちのワープロの機種では対応ができず、内職先からパソコンをリースすることに決めると、自分のフットワークが軽くなった気がした。頭の中で、どうやって親を誤魔化して内職しようかと考えながら。
パソコンを搬入してしまえば、納品はフロッピー一枚でしかない。夜遅くまでパソコンを打っていることを知られたくなくて、両親が寝静まった後にこそこそと作業する。実績が上がれば報酬も増えるが、依頼される仕事も増えていく。宅建の勉強をする時間は削られ、生欠伸で出社して、昼休みに机の上で寝ることも増えた。
そんな日が続いたからこそ、疲れとストレスだろうと思ったのだ。否、そう思いたかった。一週間過ぎて十日が過ぎ、待ち望む気分になった二週間目に検査薬を買った。正しい結果が出るとは限らないし、明日にでも始まるかも知れないと思いながら、身体の中が妙にざわめく。
生理は割と正確な体質で、こんなに遅れたことなんてない。専務はずっと避妊していた。はじめの時と、ひどく酔っていたあの時を除いて。そうだ、あの時を除いてだ。
息を詰めて、時間を待った。両手を組み合わせ、祈りのポーズをとる。まさかまさかと否定する自分に、もう一人の冷静な自分が問いかける。
妊娠するようなこと、したんでしょう?どうするつもり?
うっすらと浮き出た判定結果に絶望し、まだ何かの間違いじゃないかとただ動揺する。誰にも相談なんてできない。このままでいれば、明日か明後日には生理が始まって、やっぱり間違いでした、なんて楽天的な考えも通り過ぎていく。産婦人科に確認に行かなくてはならないが、そこで健康保険証を使えば会社に知れてしまうのではないか、なんて考える。
両親に知れてしまったら、どうしたらいいんだろう。きっと、ひどく叱られた上に失望される。
おかしな話だが、自分は家を出る決意をして、それに向かって動き始めている筈なのに、その時の私は両親が一番怖かった。もう一人前の社会人であり、自分の行動に自分で責任を持っているつもりなのにも拘らず、両親に知れてしまうことが何よりも恐ろしいことだったのだ。
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