足掻いているのは自分じゃない
奥さんのことを訊ねたとき、専務はとても厳しい顔をした。当然といえば当然で、部外者に口外すべきことではないのだ。
「入社したばっかりの五十嵐さんと、似てたよ。世間を甘く見てて、他人と自分の評価がごっちゃでね。若い俺には、そこが頼りなくて可愛く見えた。自分が教えてやれる、みたいにね。俺も自分の価値を高く見積もりすぎてたんだな」
専務はそんな風に話した。専務の部屋でベッドに入らないことは、あまりないことだ。
「俺はね、子供を有名校に行かせたいなんて思ってなくてね。受験の大変な幼稚園に行かせるって、ベビースクール?そんなものに通うのには反対だった。だけどあいつは、そういうステイタスが欲しかったんだな。俺が反対したら、自分の実家から金を出してもらってまで、通わせ始めたんだ。それが原因その一」
幼稚園から有名大学の付属は、確かにステイタスだ。実際、そういう人をボーイフレンドに持つことに、憧れはあった。
「そのうち、なおにチックの症状が出始めた。赤ん坊に毛の生えたような子供に、相当なストレスだったんだろうな。そんなに無理をさせるほどのことかって怒鳴っても、今苦労しても将来を考えればとか何とか言って、あいつは無理矢理受験に進んだ。その挙句、落ちた。ヒステリックに怒鳴るあいつに、幼稚園前の子供が『ごめんなさい』って謝るんだよ。たまんなかったね」
私はまだ子供を育てたことはなかったから、その感覚はわからない。子供に怒鳴る母のイメージは、美しくはない。
「それでも他の幼稚園に元気に通い始めた矢先、今度は喘息が出た。俺が小児喘息だったから、体質が似たんだな。チックも消えてなかったから、なんだかずいぶん痛々しい子になったよ」
「それでどうしたの?」
「なおの小学校受験で、身体が弱いからって落ちちゃいけないと、貴子は思ったんだと思う。やたら食事に気を遣うようになって、出入りし始めたのが『ほほえみ生活会』だったらしい。元々世間知らずな女だから、感化されるのはすぐだった。その会は優しいひとばっかりだとか、有名校よりも人間らしい生活なんて言い出して、パンフレットとか持って帰ってきたりしたけど、その頃には俺も口を利かなくなってた。なおの教育方針に腹を立ててたし、俺の言うことよりも自己満足で、なおに負担をかけたってことを忘れたフリしてるのも許せなかった」
専務はそこで、一息置いた。
「持ってきたパンフレットをちゃんと読めば良かったのかも知れない。俺はもう、腹を立てているだけで、あいつに関心なんてなくなってた。子供を怒鳴るような女に失望したってのが正しいんだろうな。ちょうどバブルが派手な時期で、俺自身も余裕はなかったし。なおさえちゃんと育ててくれれば、文句は言わないことにしようと思ってた。野菜とか卵が割高になっただけで、生活自体は変わらなかったしね」
「でも、違ったの?」
「去年の春頃か、小学校に入る前に子供を田舎に留学させるって言い出した。俺は当然、貴子も一緒だと思ったら、『ほほえみ生活会』の寮に、子供だけ入れて田舎生活をさせるんだって言う。心も身体も弱い子を育てなおしてもらうんだって。その時に、俺ははじめてあいつが出入りしている団体を調べたんだ。調べれば調べるほど、ひどい場所だ。当然、俺は反対した。『今まで私も子供も顧みなかったくせに、必要なことの反対だけはする』って騒がれて、自分自身が腹を立てただけで何もしてこなかったって反省は、した。原因その二」
「それで?」
「ある日、先方の親から呼ばれた。先方でかけてた貴子名義の養老保険が解約されてるって。俺は家計費を渡してたから、何に使ったのか当然問い詰めた。そうしたら、共同出資者として会に納めたって当然のような顔で言うんだ。なおを生活させるんだから、当然だって。行かせるなって言う俺と、なおのためだって譲らないあいつの溝は、深くなる一方だった。向こうの親も、孫が危ないって危惧があったらしい。あいつがなおを寮に送り込む前に手を打たなくちゃならなくて、それが離婚調停だ。子供を行き来させることを条件にすれば、成立するまでなおを動かすわけに行かない。こっちにも親権はあるんだ。今は向こうの親と共同戦線を張って、なおを守ってる。貴子はどうでもいい。世間知らずが勝手に騙されて、言いくるめられた価値で生きていけ」
「冷たいんですね」
「どうしろって言うんだ?騙されてるから戻って来いって言って、家に囲っとくのか?もう、あいつにそこまでの愛情なんて感じてないのに。カルトってのは、集団狂気だよ。俺に対抗なんて、できるわけがない」
言葉尻は冷たいけれど、顔には苦しそうな表情が浮かんでいた。子供を母から引き剥がす作業をするのが、苦しくないわけはない。
「初めの頃の五十嵐さんは、本当に似てたんだ。だから、心配で仕方なかった。早く育って、大人らしい価値観を身につけて欲しくて」
専務は、そんな風に言った。
「私は育ちました?」
「期待以上だった。まさか、それに巻き込まれるとは」
「私だけの責任ですか」
「いや、責任は俺のほうにある」
その日も、専務は私を抱かなかった。
離婚裁判がどんな風に進むものだか、私は知らない。訴訟を起こした側の専務が、ひどく消耗していくのを見ていただけだ。お互いに相手の非をあげつらうようなものだと、呟いたのは耳にした。遠縁でも親戚は親戚であり、そういう意味では戦い難い相手なのだと。
私とのことは別居してからのことなのに、それもあからさまなマイナス点として数えられる。
本当に専務のことを思うならば、専務の家に出入りするのは間違ったことなのかも知れない。そう考えながらも、私の足は専務の部屋に向く。専務の腕を、体温を、全身が欲しがって溢れだす感情は、自分自身でもおぞましく卑しいと思う。
カルトに巻き込まれるのは、考えの足りない人だとか心に闇を抱える人だとは限らない。いろいろな情報や価値観が錯綜した時期、揺るぎないものが欲しくて、カルトに傾いた人間は多い。自分にとっては揺るぎなく美しく見えるものが、他人から見たら泥舟だとしても、これが真実だと叫ぶ声に疑問も見失い、従ってしまう。
専務の奥さんが惹かれたのは、もとはと言えば息子に良かれと思ったことであるのだ。他人に否定されるようが、自分は息子を愛し守り続けるのだという決意が、根底にある。だからこそ、自分にとって最良のものを与えようとしているのだ。
養育費も財産分与も請求しないから、親権を渡して欲しい。涙ながらの母の訴えは、確かに訴求力がある。離婚裁判は三度目を迎え、専務はすでにヘトヘトだった。
週末に訪れる筈の息子を引き取りに行ったとき、普段なら飛びついてくる子供が遠巻きになったという。家へ連れてきても、何か警戒しているようだと。
「あいつが、何か吹き込んだんだ」
専務の口から、それ以上の話は出なかった。子供は母親が好きだ。たとえば母親から、父親について悪い話を聞いてしまえば、父親を憎んでしまう程度には。
したたかに酔った専務を見たのは、はじめてかも知れない。電話したときに、少々酔っているなとは思っていたが、部屋のドアを開けた専務の目は据わっていた。
「何しに来るんだって言うんだ。こっちは混迷中だ」
険悪さを宿した瞳に、怯んだ。
「女が部屋に出入りする状態で、子供を引き取れるのかってさ」
怖い。会いたくて苦しかった人が、怖い。来てはいけないのだ。ここにいては、いけない――
「ごめんなさい」
コートを脱ぐ前に身を翻して靴を履くと、重い身体が玄関ドアに私を押し付けた。だん、と派手な音が鳴る。
「逃げるつもりか」
逃げるんじゃない。たった今迷惑だと言ったのは、専務だ。
「帰ります。考えが足りなくて……」
途切れた言葉は、専務の唇に吸い取られた。そのまま部屋に引きずられ、床に押し倒される。
「逃げられると思ってんのか」
怖い、怖い、怖い。酔って感情の振り幅が大きくなっているのか、専務の目は残忍にすら見える。私の怯えに、専務の手は容赦がなくなった。着衣のままスカートだけが捲り上げられ、下着を一気に引き剥がされる。
「やめてくださいっ!」
「いつもと同じことをしようとしてるんだ。これがしたくて来るんだろう?」
押し退けようにも、男の力は私が思うよりも強かった。
男の人を、はじめて怖いと思った。体力的には勝ると理屈では知っていても、遊び相手は便利屋の位置で文句を言わなかったし、仕事上で何かがあっても力ずくで何かを求められたことなんてなかった。こんな風に簡単に、こちらの身体の動きを封じることのできる力があるのか。
専務の強引な行為に涙を流しながら、それでも私の身体は易々と専務を受け入れるのだ。そして気がつけば、いつもと同じように私は専務にしがみついている。
下着を着けようとして、足の間から流れ出したものに顔を顰めた。
「帰るのか」
「帰ります。身勝手に余計な迷惑をおかけして――」
私のために余計に苦しんでいる専務に、どんな風に詫びれば良いのか。
「帰るな」
まだ酔いの残った顔で、専務は私の腕を掴んだ。
「――帰るな。いてくれ。もう少しだけでいい」
「部屋に入れてるのは、俺だ。こんなことしてるのも、俺だ。五十嵐の責任じゃない」
私を抱きしめる専務の手には、力がなかった。
「もう、どうしたらいいのか、わからないんだ」
先刻の言葉で、裁判が難航しているのはわかる。
「こんなことをしておいて、勝手なのは百も承知だ。いてくれ」
男の人が心細い顔を見せるって、なんて無防備に見えるんだろう。コートを着たまま専務の背に腕をまわす。私の我儘を受け止めるだけ受け止めて、仕事を過不足なく進め、家庭のトラブルを抱える人は、こんなに小さい人だったか。
「います」
その日私は終電を逃し、飲酒している専務に送ってもらうこともできずに、朝帰りをした。
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