絡まるのは身体ではなくて
不倫と呼ばれ、非難されるべき事柄なのかどうかは、わからない。係争中だとはいえ妻のいる人を欲するのは、倫理に悖る行為だろうか?けれど専務に向かう気持ちは、道徳や理性などで計算できない。
抱かれても、満たされたとは思えなかった。ぐずぐずと下着を着けた後、専務の送っていくという言葉を断った。専務もそれ以上は、言わなかった。夜更けのタクシー乗り場には、人が何人か待っていた。若い娘がそんな時間にタクシーを待っていても、もうそれほどは不思議に思われない時代になっていた。
身体のあちこちに、専務の匂いが残っている気がする。官能じゃない何かに、蝕まれているようだ。それを洗い流したいのか、それとも残したいのか。
灯りの消えた玄関から、まっすぐに自分の部屋に向かう。浴室に向かう気力はなく、のろのろと着替えた。下着を外し、自分の身体を見下ろす。肌の上に、専務の痕跡は何ひとつ残っていない。留めるのは、どろりと流れ出した情事を受け止めて、汚れたショーツだけ。
酔っていたからと言い訳にすることが、まだできるのかも知れない。そうして無かったことにすれば、専務は安心するだろうか―――私は?
無かったことにして、忘れてしまうことができる?
お互いに掴みかかり、噛みつきあうようなあのセックスは、一体私に何の意味を残したんだろう。専務には、何か残っただろうか。ベッドの上に身体を投げ出すと、自分が泣いていることに気付いた。悲しいとは思っていなかった。その感情に一番近いものは、悲しみではなく寂しさだった。
恋の成就の形とは、何なのだ。誰も幸福にしない恋を投げ出すこともできず、ただ感情だけが先走る。この空洞を満たすために、何をすれば良いのか。
今一番捨てたいものがあるとすれば、それは専務への恋ではなく、他ならぬ私自身だ。
せめて電話をしてから来てくれと言われたのは、それから三回目だ。秋の気配になっていた。専務はもう、用もなく店舗に訪れることはない。会いたくて耐え切れなくなると、専務のマンションのインターフォンのブザーを押した。もちろん留守の時もあり、重い足を引き摺って家に帰る。部屋に入れば、行く場所はベッドしかないのだ。
専務の生活を整えることも、恋人同士の甘やかなお喋りも、何一つない。ベッドのことが終われば、下着を着けて帰る。自宅のマンションの下まで専務に車で送られ、次回の約束もせずに別れる。週末は、いけない。子供が来るから。
子供がいることは、わかっている。奥さんの顔は覚えていないけれど、一度見たことがある。離婚はいつ、成立するのだろう。親権で争っていると言っていたけれども、専務が子供を引き取れば、私の行く場所はなくなるのではないだろうか?専務が一緒に住みたいだけだと言った言葉を額面どおりに受け取れば、子供は母親と暮らしたほうが幸福なんじゃないか。専務と子供の生活ならば、明らかに「保育に欠ける」だろう。
「はい、河埜です」
専務の部屋で電話を取ったのは、女の声だった。社長婦人かと一瞬思ったが、二十一時をまわった時間になんて、いる筈はない。奥さんが部屋にいるのだと思った瞬間、公衆電話で受話器を落とした。何故、そこにいるのだ。離婚の話が進んでいる女が、電話をとるのか。
ぐるぐるとまわる思考が宙を舞い、どこをどう帰ったやら、自分の部屋で部屋着に着替えている自分に驚く。離婚の話が進んでいるとは言え、結婚した男女が夜の部屋に一緒に座っている。子供は、真ん中に座っているのだろうか。もしや、離婚の話を帳消しに―――
専務は子供と暮らすために、やり直したいと思うことはあるのかも知れない。
そうなったら、私はどこに行けば良いのだ。もうすでに持て余して溢れ出ている感情の行き場所は、どこにあるのだ。子供と暮らせて良かったね、家庭が戻ってよかったねと祝福することなんて、できやしない。
私を見て、私を見て、私を抱いて。
自分のためだけの感情のエゴイズムが、卑しく専務そのものを渇望する。身体も心も欲望だけに忠実になり、考えることを拒否する。
勉強には手がつかず、自室のベッドの上でのたうちまわり、枕を噛む。苦しい。
結果的に、宅地建物取引主任者の試験は落ちた。それまで詰め込んだことよりも、頭の中を専務が占める割合の方が大きかった。何故夜に奥さんが居たのかは聞けなくて、専務の部屋に行けば余計に無口になった。セックスするために、部屋に訪れているようだと思う。はじめての時より先、専務は避妊していた。
「なおが来てるんだ」
電話で部屋を訪れることを断られ、頭の中に疑念が渦を巻く。子供だけではなく、奥さんもそこにいるのではないだろうかと、眠れない夜を過ごした翌日に、専務の部屋に行く。身体を合わせることに唯一の救いを見出すのだが、終わった後はそれを乞うような自分を嫌悪した。欲しいのは、身体じゃなかった筈だ。
専務が抱えている問題は、彼が私に提示していたことよりも遥かに複雑で、それが係争を長引かせていた。親権に拘るのは、子供と暮らしたいなんて生易しい話じゃなかったのだ。もちろん彼が私にそれ以上のことを言わなかっただけだし、言いたくもなかったろう。
会社から歩いて数分の場所、夜更けに走る専務の車――ずいぶん気をつけていたつもりでも、誰かは見ているのだ。引鉄は引かれていた。
「なおが、持って行かれてしまう」
顔色を失くし、余裕のまったくない専務を見たのは、はじめてだ。
「調停じゃ間に合わない。すぐに手を打たないと……」
部屋の中にいる私の顔も見ずに、それを何度か繰り返し、電話を何本もかける。
「裁判離婚に持ち込めば、勝てる見込みはあるかも知れない」
調停離婚と裁判離婚の違いが、私にはわからなかった。
「離婚前に不貞行為を働いた男には、子供を充分に教育できないと――」
うろたえた顔は、私を見ない。
「連れて行かれてからじゃ、どうしようもない」
「なんで? 今まで通り、週末に来るようにはできないの?」
「親権を持っていれば、居所指定権を行使できる。裁判なら、あいつがなおを連れて行こうとしてる場所が、発育に悪影響を及ぼすと主張できる」
発育に悪影響を及ぼす場所という言葉は、ずいぶん不穏だ。息子と生活したいだけではないのか。
「ほほえみ生活会って、知ってるか」
「知らない」
「自分の財産を全員で共有して、自給自足で外部の有害な情報から逃れて生活しようって組織だ。カルトだよ」
言っている意味は、今ひとつわからない。奥さんがそこの会員だってことなんだろうか。
「小学校の就学前検診の案内が、俺のところに来た。連れて行くように言ったら、もう済んだって言う。小学校は生活する村の近くで行くから、こっちでは必要がないと言うんだ。勝手なことをするなと怒鳴った。まだ親権者は確定してない筈だから」
専務はコップの中に、ウイスキーをどぼどぼと注いだ。
「今日の夕方、あいつが来た。勝ち誇った顔で、俺の負けだと」
それの根拠が、専務の不貞行為だと言う。相手は、言わずと知れた私だ。
「あんな小さいうちから親と違う寮に入って、ほほえみ生活会の道徳を叩き込まれたら、なおが壊れる」
言っている意味は、半分もわからない。奥さんが子供を連れてどこかに行こうとしているということだろうか。割ってもいないウイスキーを呷っても、専務の動揺はとまらないようだった。
「村に行くんなら、一人で行け。どうせ親子一緒の生活じゃないんだ。俺の息子を生粋のカルト育ちにしようなんて、冗談じゃない」
裁判だ裁判だと呟きながら、専務は私が帰ろうとするときも、座り込んだ場所から立ち上がりもしなかった。
夜のニュースで「ほほえみ生活会」の報道は、それまでの私ならば見逃していたものだ。脱会した人が、自分の財産を返すように訴えを起こしたというもので、私が考えていた「会員」とは訳が違うようだと朧げに感じた。自分の持つ全財産を差し出し、農業による共同生活を行うという。全財産っていうのは文字通り全財産で、預金も宝飾類も家電品に至るまでのすべてだ。それを差し出して、終生その団体の運営する村で農作業をすれば、食べることも眠ることも保証され、外部と接触を絶つことによって悪い情報や有害な物質から守られるという。
外部との接触を断つ? つまり、一生その村から出られないってことだ。全財産を差し出してしまえば、脱会しても住居はおろか、着るものでさえ持っていない。子供たちは親から離れて寮生活をしながら、その団体の近くにある学校に送り迎え付きで通う。団体に所属する人間以外とは、外で会うこともできない。
ぞくっと、背に悪寒が走った。どうやって募るのか、知りたくなんてない。農業団体ってことは、食とか生活とかに関心のある層にアプローチするのだということは、なんとなくわかる。専務はカルトだと言っていた。もしも知り合いが、こんなところに入会しようとしていたら、私なら二度と近づかない。自分が引き込まれてしまう。
専務は、止めようとしなかったんだろうか。奥さんがこれに巻き込まれることを、黙認したんだろうか。
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