今、今、今だ
酔っていたから、ということにしておきたい。店舗独自で纏めた大口の契約で、定休日の前の日に酒の席を設けたのは、本社の人間じゃない。支店長が本社の人を何人か招いたことすら、私は知らなかった。
「お、五十嵐さん、久しぶりだねえ」
「お久しぶりです。本社は皆さん、お元気ですか?」
「五十嵐さんの代わりに来た雑用の子、あれ、全然ダメ。ワープロも電卓も遅くて、図面の折も汚くて。戻してくれって専務に言ったんだけどな」
「私もできませんでしたよ。慣れますよ」
参加した営業の遠藤さんと、隣り合わせに座る。
「なんかさ、五十嵐さんの転勤が成功だったからって、今度から本社で教育してから支店に配属するらしいよ。パイオニアが優秀だと、後に続く人はプレッシャーだね」
「私、優秀じゃありませんよ」
話の中に、支店長が割り込んでくる。
「いやいや、なかなかどうして、五十嵐さんは優秀だよ。さすがに専務が、本気で仕事に取り組む人だって推薦しただけある。店舗は本社みたいに、結婚退職する人は少ないからね。お産してもパートで戻って来れるし」
河埜不動産は、その頃話題になり始めたOG活用制度を、話題になる前から使っていた。一度結婚や出産で退職した人を時間短縮で慣れた勤務に就かせることは、教育する側にとっても教育される側にとっても、時間と手間の短縮ができる。若い女の子主体の本社で戻る人は見当たらなかったが、店舗には何人かベテランが戻っていた。客側にとっても、見知った顔がカウンターに座っているのは、安心の材料だ。
「五十嵐さんが来て、こっちも助かってるんだ。今度からEDPも入るんだろ? 俺ら、機械なんて覚えられないからさ」
まだ電算化していなかった店舗と本社をオンラインで繋ぐ計画は、私が配属される前から進んでいたものらしい。私の前任者はキーボードに触ることを拒否していたから、誰が操作するのかと上司たちも困っていたのだ。つまり、私の転勤は単にトラブルの回避だけでなく、いろいろな意味を含んでいたわけだ。専務だって、一個人の都合だけを考えて動ける筈はない。
「五十嵐さんは高嶺の花だからね、うちの会社あたりじゃ相手にしてもらえないもんなあ」
酒の席が進むにつれて、遠藤さんの膝は私の膝に近くなってきた。
「女の子たちの話、ひどかったよなあ。俺もいろいろ聞いたけどさ、辛かったろ」
陰口がまわっていたのは、女の子同士だけじゃなかったのかと、とてもうんざりする。仲間意識は若手社員同士の愚痴も含まれ、私たちはあの人のこんなところが嫌い、なんて噂話にもしやすいのだろう。
「大丈夫ですよ。転勤もしちゃったし」
そう答えたところで、入り口に専務の顔が見えた。既に酒の入った顔をしているのは、どこかの帰りなのだろう。
「いや、乾杯のやり直しなんてしなくていいって。みんな機嫌良く飲んでんだろ? 俺も飲んじゃってるし。うん、比留間ビルの竣工セレモニー。やれやれだよ」
ざわめきの中、専務の声だけがまっすぐに私に届く。支店長と話す専務は、私のほうを見ない。ここに私がいると、知っているのに。
「……さん………だし、この後……」
遠藤さんの話はまったく私の耳に届かず、いい加減な相槌を繰り返す。
「じゃ…………だよね?たまには……で、………よね」
肩に置かれた手をそのままに、他の営業さんの声に笑顔を返したりする。その間、ずっと上の空で専務の声だけを追いかけていた。
二次会に参加すると返事した記憶はなかったけれども、遠藤さんは私が参加すると言ったという。おそらく専務の声を追っていた時に上の空で返事をしたのだろうと思う。専務は、こんな二次会には参加しない。年齢的には若手でも、彼は経営者で社長の息子だ。気の置けない席に参加しても、同席した人間は勝手に気を遣う。そのために、遠慮していたのだろう。
分かれ道で、私の肩に手を置いた遠藤さんに、専務が声をかけた。
「五十嵐部長からお預かりしてるんだからな。あんまり連れまわすなよ」
「いいじゃないですか、もう五十嵐さんだって大人でしょ」
「箱に入ってるんだ。壊れもんだからな」
その言葉が、妙に癪に障る。
カラオケボックスの不味いモスコミュールを飲みながら、誰かの下手な歌を聞く。二次会に参加したのもはじめてで、いい加減酔っ払った同僚たちは、滅多に参加しない私に代わる代わる歌えという。仲の良い人も馴染んだ人もいない酒の席は、ひどく疲れるものだ。
「五十嵐さんって、こんな場所で遊んだこともないの?」
カラオケ自体好きではなかったし、乱れた席で古い歌謡曲を聞くのは苦痛だった。一時間の筈のカラオケボックスに誰かが時間延長を申し出た時には、私はもう帰る支度をしていた。
「お、お嬢様は門限ですか」
その言葉にカチンと来て、バッグを握りなおす。ペイズリー柄のバッグは、その頃の私のお気に入りだ。
「そのゾウリムシ柄、流行なんでしょ? ブランド品持って歩くくらい大人なのに、門限か」
「箱入りだって専務も言ってたじゃないか。帰してやれよ」
お先に失礼しますと席を立ち、店の外に出ると、目が回った。そんなに飲んだつもりはなかったが、自分で頼んだカクテルの他に、確かに水割りを何杯か飲んだ気がする。
――五十嵐部長からの預かり物。
――壊れ物だから、箱に入っている。
そんな風に私を見ているのか。専務から見た私は、まだそんなものなのか。頭の中で繰り返し始めた言葉に、耐え切れなくなった。いつになれば、専務は私を認めてくれるのだろう。他人よりも努力していると、言ってくれた筈なのに。期待していると言ってくれていたのに、本当は私をまだ、半人前以下だと思っているんだろうか。
今、確かめに行こう。確かめなくちゃ。
酔った頭は、そこまで明晰に決意したわけじゃない。行動を起こすのに、理由が欲しかっただけだと思う。酔った頭はそれを、当然の理由として考えた。専務に会って、本当は私をただの箱入りのバカ娘だと思っているのか、確認しなくてはならないと、そうして私は歩き出した。
専務はドアから顔を出して、溜息を吐いた。
「来るなと言ったろう」
「訊きたいことがあったんです」
酔った頭には、まっとうな質問に思えた。
「ここで済むのか。俺も酔ってるから、長くは聞けないぞ」
冷たい答えだと思った。やはり、私は迷惑なのだろうか。
「私と話すのは、いやですか。私がいつも、迷惑ばかりかけているから」
質問しながら涙がこぼれるのは、自分の感情に煽られているからだ。自分が思っているより、ずいぶんと酔っていたらしい。
「私はただの預かり物なんですか」
まったく、と舌打ちしながら、専務は私を靴脱ぎまで引き入れてドアを閉めた。
「通路でなんか泣かれちゃ、まるで痴話喧嘩みたいじゃないか。どうしたって言うんだ」
「……わかりません」
「人の家の前で泣いといて、わかりませんじゃないだろう」
ちらりと見えた部屋の中には、グラスとウィスキーの瓶がある。この人も、部屋の中でひとりで酒を飲んでいたのか。
「専務が、私を箱入りだなんて言うからです。箱になんて入ってないのに」
多分もう、マスカラは溶けてしまっている。握ったハンカチは、手の汗を吸ってぐしゃぐしゃだ。
「箱になんて、入ってないんです。出たんだもん。専務が出ろって言うから。なのに専務がっ!」
ぐうっと喉が鳴った。大声で喚きたくなったのは、酔いがずいぶんまわったからだ。
「専務がそう言うから、頑張って両親とも戦って! なのに!」
「……悪かったよ、失言だった。ごめん。謝るから、帰れよ」
「謝って欲しいんじゃありません!」
滅茶苦茶だ。確認しなくてはならなかった事柄も、専務の困った顔も、もうどうでもいい。ただその場所に、専務と向かい合った場所にいたいだけだ。
「なんでそんなに、帰れって言うんですか。私が迷惑だから、そう言うんですよね」
「おい」
「専務に褒められたいだけなのに! 専務は私が迷惑だって……!」
「おいっ! 話がずれてるぞ!」
「ずれてたって、いいんです。専務に会いたくて、だけど会いにきてくれなくて、私が来ると迷惑だからって」
「誰がそんなことを言った」
「専務の顔がそう言ってます」
ぐいっと髪が後ろに引かれ、酔いと涙でぐしゃぐしゃの顔が仰向いた。髪に手を絡めた専務が、今まで見たことのない表情を浮かべ、怯えが私の中を通る。怒らせたのか。
「……バカが」
吐き捨てるような声が、正面から捕らえた私の上に降ってくる。
「抑えが利くうちにと、言っておいたのに」
責めるような口調で強く私の髪を掴むと、専務はもう一度、バカが、と呟いた。
「来るなって、何度も警告したのに」
乱暴に掴まれた髪は引きつれ、私はまばたきを忘れて専務の表情を見ていた。
次に落ちてきたのは、言葉ではなく唇だった。乱暴な手とは裏腹に、やさしい唇が私のまぶたと唇に落ちてくる。
「このままじゃ、こうなることはわかっていたのに」
何度も口づけられた後、私は強く抱き寄せられていた。
「あんたは、本当にバカだ」
まだ引き返せる、ベッドに辿りつくまでに三度、その言葉を聞いた。ベッドの上で苦しいくらいのキスをした後、専務は私の顔を見下ろして、もう一度言った。
「引き返すなら、今のうちだ。帰れ」
「帰りません」
私の言葉も震えていた。何かとんでもないことを、しようとしているのだ。認めて欲しい、見ていて欲しいなんて欲求よりも強く、荒々しく凶暴な感情に飲まれようとしている。こんなことは、誰も望まない。専務本人も――私自信でさえも。
いや、望んでいたのか。これが欲しかったのか。
「後悔するぞ」
ちらりと、両親が頭の隅を横切った。娘が既婚者に何を望んでいるか知ったら、どんなに悲しむだろうかと考え、頭を横に振った。
「きっと後悔します。でも」
自分から、専務の首に腕を回した。
「後悔するかどうかなんて、どうでもいいんです」
また、涙が溢れた。後悔なんて、事後のものだ。
今だ。今、もっと強く専務に抱きしめられたい。今、専務を望んでいるのだ。今、今、今だ。
「バカだ。あんたも、俺も――」
激しいキスの中、頭の中の冷静な部分が、自分を嘲る。どうでもいい。自分にまで嘲りを受けて尚、私の心が進もうとするのを止められない。
「バカなんです」
「引き返さないのか」
「引き返しません」
暖かくもやさしくもない、まるで争うかのようなセックスだった。
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