聞き分けてくれ

 説明されなくても、専務の言う「条件」が何に対してなのかは理解していた。「クリスマスケーキ」と喩えられる女は、当然のように買い手を待っている。妻帯者なんて、はじめから買い手には数えられないのだ。

「送るよ」

 専務が握った車のキーが、遮断機に見えた。

 何かを求めたいわけじゃない。ただただ、そこで私がどんな風に変わっていくのか、見ていて欲しいだけ。若くて可愛いだけの女じゃなくて、ちゃんと私が一人前の人間だと声高に言えるようになるまで。

「ひとりで帰れます」

「こんな遅くに女の子ひとりでなんて、帰すわけにいかないんだよ。素直に送られてくれ」

 帰るなと言って欲しいなんて、ひどく強欲で傲慢だ。一瞬抱きとめられたからといって、線引きの中になんて入っていない。それなのに。


 車の助手席で、私は無口だった。専務もまた、余計な話をしなかった。沈黙の居心地は良くはなく、何か言わなくてはと焦りが胸を焼く。

「専務……」

「いいよ、無理に喋らなくて。五十嵐さんは疲れてるだけ。そうだろ?」

 言葉を遮られて、表情も作れない。こんな恋は報われない。この恋は、誰かの―殊に、両親の―祝福を受けたりしない。もしも専務が、受け入れてくれたとしても。


「勝手なことをして、申し訳ありませんでした」

「いいんだ。社員の保全は、俺の役割だから」

 社員の保全の範疇なんて、ずいぶんはみ出してしまっているのに、専務はそれを盾にする。専務の盾に私自身が救われて、ただの上司と部下の相談事で片付けようと、自分に言い聞かせた。

「ありがとうございました。おやすみなさい」

 テールランプが角を曲がるのを、身じろぎもせずに見ていた。今日も多分、連絡もせずに遅くなった私の食事は、キッチンに用意されている。私が食べなければ、冷たくなったそれを、母は翌日の昼食にするのだ。



 頼みもしないのに、夏がやってくる。友達と旅行の予定も立てず、日傘をさして出社して、学校のある日は学校に行き、それ以外の日に寄り道をすることは少なくなった。ぼちぼち縁談の進みはじめた友達と、逆に入社三年目で仕事の責任が重くなってきた友達と、両極端だ。バブルは破綻したというのに、世間はまだ浮かれた気分がぷかぷかと漂っていて、底をついた財布の中身を不思議そうに眺めている――そんな状態だ。

 ぽかんと開いた時間を勉強に当て込むことができたのは、好都合だった。退屈すれば煮詰まりそうな気持ちを持て余し、暗記事項を頭に叩き込むことで、時間を費やす。その様子を見るたびにもの言いたそうな両親とは、口を利くことも減っていた。夏の賞与で購入したものは、何もない。イタリアの財布もフランスのバッグも、もう私の興味は惹かない。クローゼットの中身は充分過ぎるほど充実しているし、そんなもので持つ優越感は卑しいものだと、もう知っている。

 もう、いらないの。新しいドレスもバッグもいらない。欲しいのは、もっと手に入れるのが困難なもの。


 専務の言う通り多少カンに障ることがあっても、店舗の上司は気の利いた冗談のつもりで、私の縁談を持ち出していることも、冷静になればすぐに気がついた。そう気付けば冗談で切り返す余裕もでき、店舗の居心地は飛躍的に良くなる。私が配属されたことで増えた店舗の仕事は、逆に業務の効率を上げ、自分の地盤を固めることが嬉しい。

 そして、週に一度は顔を見せる約束の専務が、来なくなった。

 今みたいに、携帯電話なんて持ってない。専務に連絡をしたければ、会社に電話をするしかないのだ。そんなこと、できるわけがない。


 何故、店舗に顔を出してくれないんだろう。週に一度は顔を見せてくれると言ったのに、そして配属されてから二ヶ月近く、そうしてくれていたのに。迷惑が過ぎて嫌われたのか。私の顔など、見たくもなくなったんだろうか。顔を見せてくれないまま盆休みに入り、盆が開けても専務は店舗に現れなかった。本社で何かあったのかとか、また胃を壊したのかとか、そんな想像力は働かなかった。顔を見せてくれない、そのことだけが不安で、勉強の内容すら頭に入らない。

 学校の帰りに電車に乗っていると、夏の強い雨がガラス窓を伝った。一瞬自分が泣いているような錯覚をおこして、思わず頬を触った。会いたくて、その声の聞こえるところに行きたくて、一瞬だけ私を受け止めた胸をもう一度確認したくて。


 家へ向かうのではない電車に乗った。窓ガラス越しでもいい。顔さえ見せてもらえれば、気を済ませて帰る。我儘なんて言わないから、どうかそれまでは拒まないでください。祈るような気持ちで慣れた道を歩き、自分の心を抱きしめる。

 抑えなければと思う毎に膨らむものが、もう溢れ出しそうだ。ほんの少しの期間、顔を見ることができなかっただけなのに。


 愛してください。私を見てください。ほんの少しでいいから、あなたの子供に向けていたあの優しい瞳を、私にも向けてください。

 独りよがりの、ただ求めるだけの感情。冷静にそう分析する自分がいるのに、止めることができない。持っていきようのない激しさは、私をあっけなく飲み込んで更に翻弄する。

 見知ったマンションの前に立ったとき、自分の鼓動の苦しさに、私の顔は蒼褪めていたかもしれない。



「また、こんな時間か」

 専務は本当に困った顔をした。顔を見ただけで満足するはずだった私は、顔を見たら声が欲しくなった。人間の欲は、次々と大きくなる。

「専務が約束を破るからです」

「人聞きの悪い……」

「週に一度は顔を見せてくれるって」

 大きな溜息が聞こえた。それは苦笑を含んでいて、私を安心させた。

「そんな風に頼りにされるのは嬉しいんだけどね、本社もばたばたしてて」

 今までだって商談の帰り道に寄ったりしていただけなんだから、専務の言葉は言い訳に過ぎない。嘘は狡いと言い募ろうとすると、専務は玄関から外に出て、ドアを後ろ手に閉めた。

「今日は家に入れられないよ」

「勝手に来たんですから、叱られるのは覚悟の上です」

 専務はちらりとドアを振り返り、心持ち声を潜めて言った。

「今晩は、なおが来てるんだ。今、寝てるけど」

 週末でなくとも、子供が泊まっている日があるのか。


「母親のほうがね、なんだか集会があるからって、さっき連れてきたんだ。なおまで巻き込むなってんだ」

 吐き捨てるようにそう言うと、専務はまたちらりとドアを気にする。

「なおが来るのは大歓迎だけど、明日はお袋に幼稚園まで送ってもらわなくちゃならない。忙しいよ」

 専務の事情は、私は知らない。けれど私は、招かれざる客だ。迷惑になっているのは理解しているのに、心が言うことを聞かない。

「だから、五十嵐さんの相手をする余裕はないんだ。ごめん」

 そうまで言われているのに、私の踵は返らない。


「また、店舗のほうに来てくれると約束してくれますか」

「だから、本社が急がしいんだって」

 誤魔化そうとしてる、と思う。転勤するための約束だったのだから、それは守られるべきだと思う。もちろん、これは甘えだ。仕事は仕事なのだし、転勤にそんな条件なんてつけられるわけがない。

「私の顔を見るのが、いやだからですか」

 泣いてしまいそうだ。こんなことを言えば、ますます困らせ、鬱陶しがられるかも知れないのに。

「週に一度は顔を見せてくれるって約束したじゃないですか。もう三週間も来てません」

「数えてるのか」

「数えてません。覚えてるだけです」

 もう一度、溜息が聞こえた。


「もう、来ちゃいけないと、言わなかったか」

「言われました。でも、約束を破ったのは専務です」

「……悪かった。でも、聞き分けてくれ」

 小学生に言い聞かすように、または頼むように、専務は私の顔を見る。部屋の中には子供がいて、専務は一刻も早くその中に戻りたいのに、私を無理に追い返したりしない。

「会いたかったんです」

 私の声はたっぷりと震え、悲鳴めいていた。

「とても、とても会いたかったんです」

 まだ足りませんか。懐いた子供を育てるのは、飽きてしまいましたか。


「そんな顔で見るなと、言っただろう」

 ふいに、専務の腕が伸びた。一瞬、怒りで叩かれるのかと思い、身を竦めた。

「俺の抑えが利くうちに、早く俺から離れてくれ。頼むから」

 マンションの通路で、私は専務に抱きすくめられていた。


 一度抱え込まれた胸に縋ろうとした私を専務は両手で引き剥がして、肩を掴んだまま顔をまっすぐに見据えた。

「もう、二度とここに来るな。こんなこと、言わせないでくれ」

 部屋の中で何かの物音が聞こえ、専務ははっとした顔になった。慌てて玄関のドアを気にする。

「送らないぞ。夜道に気をつけろよ」

 そして私の答えを待たずに、ドアを開けながら声を出した。

「ちょっと外に出てただけだよ、パパはなおと一緒だよ」

 立ったままの私を残して、玄関のドアはばたんと閉じられた。


 抱きすくめられたあの感触と、来るなと言う言葉。意味を探ると混乱してくる。専務は現在既婚者であり、私の仕事の管理責任者でもない。会いに来てくれというのは、私の我儘以外の何ものでもない。

 私は、何を専務に求めているのだろう。成長を見ていて欲しいだけならば、こんな風に専務のプライベートに踏み込むはの間違っている。間違っているのだ。そんなことは重々承知なのに、何故自分の行動を抑えることを自分で拒否しているのか、わからない。そこにまた、専務の言葉が被ってくる。

 俺の抑えが利くうちに。

 このまま私が同じ行動を取り続けたら、専務はどうなるというのだろう。


 たとえば、専務が私の衝動をそのまま受け入れ続けたとしたら、どうなるのだろう。そんなことを考えたら、自分の鼓動が大きくなった。学生時代みたいに、無責任に恋愛できる期間は過ぎた。おそらく誰も祝福なんて、してくれない。面倒な事情を抱えた男と世間知らずで生活力のない女が、どうしろというのだ。両親は怒り、友人は呆れるかも知れない。

 それなのに、私の気持ちは言うことを聞きやしないのだ。一度、いや二度触れてしまった専務の腕は、私を強く招きよせる。離れてから何十分も経っていない電車の中で、専務の声を思い出すと、もう何年も会っていないような気がする。すぐに会いたくて、声が欲しくて。

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