事情は、誰にでもある
片桐さんについては破談にしてくれと言った筈だと、冷静に母に告げたのは、もう一日置いた後だ。私自身もまだ頭に血が上っていたし、私の仕事は翌日が休日だからなんて計算も働いた。遅くまで争うのは覚悟の上だったのだが、父はまだ帰宅していなかった。
「パパに言ってみないと」
私のきっぱりした口調に怯んだ母が、父の存在の後ろに隠れようとする。
「結婚するのは、私なんでしょう? パパの意見じゃなくて、私の将来のことを私が言ってるの」
「真弓は知らないから。安定して平凡なことが、一番幸せなのよ」
「それが幸せかどうかも、私が決めることでしょう。自分で考えるから、もうパパもママも私の代わりに考えなくていいの」
「親が子供の幸せを願ってるのよ」
ああ、またそれだ。敷いてみせる線路の先が見えていたって、途中で事故は起こるかも知れないのに。
「手助けが必要なら、こっちからお願いする。その時まで放っておいて」
「構わなければ、遅くなるかも知れないじゃないの。まさか、あんな会社で見つけようなんて……」
「あんな会社、ですって?」
自分の声が、跳ね上がった。父の勤め先に較べれば、河埜不動産は確かに小規模だ。けれど私は一年と半分もしないうちに、自分が何も知らないことを学んで、更にこれから生きていく知恵を身につけようとしてるじゃないか。挨拶もろくすっぽできず、おしゃれと夜遊びが一番の楽しみだったこの私が、苦しい環境の中に自分を適応させようと努力できるようになったじゃないの。
「外に出たことのないママに、何がわかるっていうの?会社の規模なんて、何の関係もないのよ。パパの会社も私の会社も、働いてることに関しては同じなのよ」
きっと、こんなことをいっても、母には通じない。
「パパの会社と較べるなんて、おかしいわ。事業の大きさが違うでしょう」
「事業の大きさとか給料の多さとか、そういう問題じゃない。やっぱりわかっていないんじゃない。パパの会社にだって、女の子が働いてる筈よ。そういう子たちが早く結婚しなくちゃとか言うと思う?」
「パパの部下になるような女の子たちは、一流の大学を出て、しっかりしてて」
また平行線だ。
「片桐さんの件は、きっちりお断り。お見合いもお断り」
「パパが怒るわ」
「結婚する気もないのにお見合いを繰り返すのは、失礼だもの。本当なら、失礼なことをしてるって理由で怒るべきでしょ?」
言い募っても、母はまだ納得しない。そうして母の受け取った母寄りのエッセンスだけを、父に報告するだろう。
「真弓は頼りないから、親の意見が重要だってわかってなくても、後でわかるわ」
「パパとママに反発して失敗しても、損するのは私なだけで、誰にも迷惑にはならない。もう、構わなくていいから」
専務に言われたとおり、出来うる限り冷静に言葉を尽くしたつもりだった。
「親の意見よりも、自分が正しいと思ってるんだな?」
学校から帰った私に父がそう質したのは、夜の十時を過ぎていた。
「正しいなんて言ってない、自分で考えたいだけ。それよりも、お腹が空いてるの。ごはん食べる」
仕事を片付けるのに手間取って、食事を摂らずに学校に行ったのだ。
「夕食を用意して貰うのは、当然か?」
鍋に残ったシチューを温めはじめた私に、父の声が冷たかった。
「そうやって外食する予定の日に、おまえの分の食事があることは、不思議に思わないのか」
「食べるなって言うの?」
そう口答えしながら、確かにそうだと思う。学校のある日は基本的に外で食事を済ませるのだが、時々食べ損ねても、家に帰れば何か食べられると思ってそのまま帰宅してしまう。あるのが当然、与えられるのが当然。何故あるのかなんてことも、考えていない。
「ママが心配してることにも、気がついてない」
みなまで言われたくない。今の一言で、充分理解した。甘えすぎた娘は、受け取ることにばかり一生懸命すぎた。
「我儘に過ぎることを、せめて謝れ!」
声を荒らげた父が、詫びの言葉を求めているとは思えない。私が帰宅するまでに母と交わした会話の中で、怒りを膨らませたに違いない。黙って皿を出してシチューを入れた。
「ひとりじゃ何もできないって、自覚してるのか。どうなんだ」
答えなくてはいけないのだろうか。自覚ははじまったばかりだというのに。黙ったままでシチューを口に運ぶ。本当は大好きな、母が何時間も煮込んで作るシチューは、味がしなかった。
ひとりでは何もできない娘は、自分で何も判断しなくて良いとでも、いうのだろうか。両親のあとの判断は、嫁いだ先の誰かがしてくれると。実際に、母はそうであった。外的なことは父がすべて仕切り、母の仕事は家庭を過不足なく運営することで、それに対して父はとても満足していたのだ。
「縁談を断ることが我儘だとは、思わない。甘えすぎていたとは思う」
「それだけか」
「それ以上に何を言えばいいの?黙って言うことを聞けとでもいうわけ?」
平手が飛んできたのは、言い終わる前だった。
これも後にして思えばなのだが、両親も無理に縁談を進めたかったのではないと思う。与えたかった最大限の幸福を真っ向から否定しようとする娘がもどかしく、何故理解しないのだろうと苛立っていたのだろう。親子であればあるだけ、近くにいればいるだけ言葉足らずになり、溝が深くなっていく。両親に愛されていたことは紛れもない事実で、私もまた両親を愛していた。その愛の方向が、相互に少しずつ傾いていたとしても。
カウンターで駐車場の賃貸契約について案内した相手が、地元の有力者の息子だなんて、私は知らなかった。通常の業務で希望の駐車場まで案内し、契約についての説明をしただけだ。
「五十嵐さん、チャンスだね」
年配の男の社員に言われて、首を傾げた。
「何のチャンスですか?」
「あれ、山崎一族の跡取りだって? 上手く仲良くなれば、名誉挽回じゃない」
言われた意味が飲み込めず、もう一度首を傾げた。何の名誉を挽回するのだろう。
「縁談を断られて、恥ずかしくて本社に居られなくなったんでしょう? 店舗なら、また新しい相手を探しやすいからね」
後ろから殴られた気がした。
下衆な想像なんて、しようと思えばいくらでもできるものだ。本社と一番繋がりの強い支店で、小耳に挟んだ情報だけを繋ぎ合わせれば、そんな話を頭で作ってしまうことは簡単で、その想像を誰かに伝えれば、更に尾鰭がつく。どんなに真面目に仕事をしようが、どれほど接客に神経を使おうが、私のイメージは彼の頭の中で固定されてしまっているのだ。見合いを繰り返して特上の縁談を逃したから、次の相手を探しているのだと。
ここで泣いたら、負けだ。今は仕事中なのだから、プライベートを持ち出して得意になるような下衆の言葉なんて、気にしちゃいけない。自分を必死に宥めて、私が配属されたために店舗の業務になったチラシのレイアウトをする。噛み締めた唇は、多分もうルージュの色なんて残してはいない。
家に帰りたくなくて、かと言って遊び友達にもこんな話はできなくて、ファッションビルの中をふらふらと歩いた。バッグも靴も、私の興味を惹かない。何かを見て楽しもうと思う気持ちが、遮断されてしまったみたいに。
店内放送に追い立てられて駅の改札を抜けると、私の足は会社方面のホームに向かった。叱られて迷惑がられてもいい。どちらにしろ、頑張っても頑張っても報われないんだから。悪い評価なんて積み重ねたってマイナスにしかならないのだし、マイナスになったものをプラスに転じるのは、私の意志だけじゃないんだから。
捨て鉢気味な気分で本社の前を通り越し、私はその時の私の最大限の救いのあると思われる場所に、ただ足を進めた。
「こんな時間に、こんなところへ」
リラックスした服装の専務は、眉を顰めた。
「行き場所が、わからないんです」
専務のマンションの靴脱ぎ場で、私もまた途方に暮れていた。そこに行けば救いがあるように思ったのに、あるのは専務の戸惑った顔だけだ。
「年頃の女の子がこんな時間に男の部屋に来るのは、感心しないな」
「他のどこにも、行き場所が見当たらないんです」
くるりと踵を返すには、私の足は重く疲れていた。
ふうと息を吐いた専務は、仕方なさそうに私を部屋に招き入れた。迷惑なのは承知で、けれど救いを求める気持ちのほうが遥かに大きくて、私は靴を脱ぐ。
「メシ、食った?」
そう問われて、夕食も摂っていないことを思い出した。
「食べたく、ありませんでしたから」
差し出されたマグカップは、お湯の中に直接ティーバッグが入っていた。
「カレー食うか?子供向けの甘いヤツだけど。昨日の、なおの残り」
「専務の手料理ですか?」
「残念ながら、お袋が作った。とりあえず食べさせるものが確保できないと、保育に欠けるとか言われるから」
「保育に欠ける?」
聞き馴れない言葉を、聞き返した。
「保護者も同居の親族も、児童を保育できない状態ってことらしいよ。よくわかんないけど」
もそもそとカレーをご馳走になる間、専務は何も言わなかった。ご馳走さまでしたとスプーンを置くと、やっと私の顔を見た。
「何があったか、説明できるか?」
空腹であると余計悲観的になる感情は、現金なことに緩和されている。家のことじゃなく会社の中のことだと、自分に言い訳しながら顛末を話すと、小学生が担任の先生に訴えているような口調になった。口に出すと、内容は陳腐すぎる。頑張っても頑張っても、誰も認めてくれないんです、なんて。
「ああ、あの人も悪い人じゃないんだけどね。噂話は確かに好きだな」
注意するなんて言葉には、なる筈がない。専務よりも、私の上司のほうが社歴は長いのだ。年下の取締役なんて、七光りの小僧にしか見えていない筈だ。
「気にすんな。五十嵐さんが実績上げてるのは、聞いてる。パートさんの評判も、悪くない。送ってくから、帰りなさい」
気にすんななんて一言で、救われてしまう私は単純すぎるだろうか?
その手で、何度も頭を撫でて欲しいと思うのは、過ぎた望みなのだろうか。勝手に部屋に訪れ、送ってもらうだけで充分に身勝手だというのに。
「そんな顔するなよ」
専務の言葉は、奇妙にせつなかった。
「育ちのいいお嬢さんが、いくら辛いからって、夜更けに妻帯者の部屋になんか来るもんじゃない」
「妻帯者?」
離婚したと聞いていたし、子供は奥さんと一緒に暮らしている筈だ。
「妻帯者だよ、法的には。係争中ってやつ。親権で揉めてね」
視線を逸らせた専務は、斜め下を向いて薄く笑った。
「遠縁だから、相続の問題やら子供の教育方針の問題やらって、家同士自体も揉めてるわけさ。一筋縄じゃない。俺は、なおと住みたいだけなんだけど、親権って母親のほうが持ちやすいからね」
「ごめんなさい」
自分だけが大変な気になって、他人の状況なんて気にしてもいなかった。
「いいよ、会社でも離婚したって言ってるし。五十嵐さんが気にするような……」
「ごめんなさい」
私は、幼い子供だ。ああして欲しいこうして欲しい、ああ言われたこう言われたって主張しかできない。ついさっきまで専務に聞いてもらったことだって、ただの愚痴じゃないか。なんて恥ずかしい。自分だけのことを解決できなくて、逃げてきたんだ。
「そんな顔しなくて、いいんだよ。五十嵐さんが必死なのは知ってるから。辛かったら、逃げ場所を探すのは恥ずかしいことじゃない」
専務の手が、私の髪の上を滑る。こうして欲しくて、私はここまで来たのか。
頭から離れた専務の手を、私の手は捕らえた。
「それはね、独身の、五十嵐さんに似合いの男にしてあげなよ。喜ぶよ、きっと」
そんな風に距離を置こうとする専務に、何を言えば良いのだろう。手を離すことができないまま、私は専務の瞳の底を探っていた。
「もう、こんな時間になんて、来ちゃいけないよ。君の次の縁談の時」
「次なんてありません」
専務の声に言葉を重ねた。
「私はずっと専務の下にいるって、決めたんです。追い出さないでください」
「追い出したりしないから。ただ、この状況は俺にも辛い」
掴んでいた手が引かれて、一瞬専務の胸に抱え込まれたあと、すぐに身体は離れた。
「俺じゃ条件が悪すぎる」
専務もまた、私の瞳の底を探っていた。
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