子供の言い分

「どうしたの。何かあったの?」

 驚いたように訊く専務に、答えるべき言葉は見つからない。助けて欲しいとか引っ張って欲しいとか、それをこの人に望んじゃいけない。私が私であろうと思うのは、この人がいるからなのだから。ただ、少しだけ。

「何でもないんです。でも、ちょっと」

 このまま、袖をつかませていてください。それくらいの甘えは、許されるような気がした。


「支店で何かあった?」

 専務の問いには首を横に振った。新しい仕事に慣れることと、週に何度か通う学校の勉強に必死で、仕事上でそれ以外のことに頭を向ける余裕はない。

「その格好、仕事帰りじゃないよね。どこか行ってきたの?」

 この質問にも首を横に振った。どこにも行かなかったから、こんな風に飛び出さなくてはならなくなったのだ。

「おうちで、何かあったの?」

 答えられなくて、もう一度専務の袖を握った。


「私、会社で役に立ってますか。何も知らないお嬢さんのままでしょうか」

 こう質問するのが精一杯だった。こんな風に訊ねても、役に立っていないなんて、答えられる筈がないのに。専務を見上げる自分の目がどんな風なのか、思い巡らすだけの気遣いなんてできない。

「何があった? お父さんとまた揉めてるのか」

 専務の袖が離せないまま、私の目は専務の表情を追う。河埜不動産にいて良いのだと、いて欲しいのだと言って欲しい。私のいる場所は、専務が望むところなのだと。

「何も言わなくちゃ、わからないじゃないか」

 逆側の手が私の肩に置かれたとき、こらえていた感情が目からこぼれ落ち、専務が慌てた顔をするのが見えた。


「結婚なんて、したくない。専務の下で、仕事してたい」

「いけないなんて、誰も言ってないよ。五十嵐さんがいたいだけ、うちの会社にいていいんだよ」

 専務の手が、ぽんぽんと私の肩を叩く。

「いけないって、世間知らずがいい気になるなって……」

 抑えようとしたら、言葉と一緒にしゃくりあげた。決壊した涙腺が、自分の意思ではもう、どうにもならない。

「わたっ……私、いろんなこと、覚えたいのにっ……覚えてっ……専務、にっ……」

 通りの隅で、専務は居心地が悪かったのだと思う。



 こっちにおいでと導かれたのは、会社の裏手にある小さなマンションだった。狭いリビングダイニングに、小さなキッチンがついていて、靴脱ぎも座卓の前も乱雑だった。まだ子供みたいにしゃくりあげている私にクッションを差し出し、専務はインスタントコーヒーに湯を注いだ。

「おうちで、また何かあったんだろう。ちょっと落ち着いて、ね」

 手放しで泣くことができるって、なんて気持ちが良いんだろう。そうか、私は吐き出して泣きたかったのか。

「遅くなると、ご両親も心配するよ」

「いつまでも子供扱いで……私がどうしたいかなんて、考えてもくれなくて」

「そりゃ、この歳になっても同じだよ。オヤジも、俺の仕事に口出ししたがる」

「でも、専務の変わりに将来を考えようなんてしてないでしょう!」

 喧嘩腰に言うのも、甘えだ。専務は宥めようとしてくれているのに。

「結婚しろって。気が向かない相手と、もう一回つきあえって。やだって言ってるのに!」

 専務は、困ったように私の顔を見ていた。

「社会に出たら生意気になったって、世間知らずなんだから、言うことを聞けって言う。やなのに。世間知らずのまんまは、いやなのに」

 言葉にしようと思うほど、反復した繰言になる。

「何にも知らない状態でお嫁に来い、なんて人、私はいやなのに!」


「いやなんだったら、親の言うことなんて聞かなくていいんだよ。親はいろいろなことを子供に望むけど、それは幸福になって欲しいからなんだから」

 専務はふう、と溜息を吐いた。

「親子だからこそ、価値観のすりあわせは難しいんだ。親はそれを何十年もかけて裏づけてるんだから、自信がある」

 そして座卓越しに私の髪を撫でた。

「五十嵐さんが一生懸命仕事してるのは、よく知ってる。頑張ってるよ。長く勤めて欲しいと思ってるし、実際、今の縁談は俺も困る」



 しばらくそうして、ぐずぐずと泣いていた。一通り私の繰言を聞いていた専務は、一度コーヒーを淹れなおした。

「もう遅いから、送って行くよ」

 そう言われるまで、時間なんて気にしていなかった。

「まだ、帰りたくありません」

「だからって、ずっと帰らないわけにいかないでしょ。本気で帰りたくないなんて、思ってないでしょ」

 帰らないなんて選択肢は、私にとって机上の空論だ。家から出たことのない娘は、その価値観の中でじたばたと暴れている。

「衝動的に飛び出したって、ご両親には意味が伝わらないんだよ。自分の考えを纏めて、ちゃんと話してみてからでも、決裂するのは遅くないから」

 両親と決裂することがあることに、その時にはじめて気がついた。両親の庇護の下に育った娘は、すべてにおいて両親の許可を待っている。どこの学校に行きたい、どんなサークル活動をしたい、会社にお勤めしてみたい。それは全部、両親が認めてから動き出した事柄だ。

「家にいても、自立はできるんだよ。自分さえ理解できていれば、他人への説明もできるものだよ」

 専務は穏やかにそう結論づけた。


 送って行くからと私をもう一度促した専務に、帰りたくないと重ねて言うことはできない。両親が寝室に引き上げていることを願いながら、翌日の憂鬱を思う。

「ほら、しっかりしろ」

 小さく微笑んだ専務は、私を励まそうとしているのだろう。翌日が仕事のある日なのにも拘わらず、まだ私の気持ちを引き上げようとしてくれている。だから、我儘をもうひとつ聞いてもらったら、帰ることにしようと思う。

「頭をもう一度、撫でてください。そしたら帰ります」

 大きな手で包むように撫でられた頭は、暖かくて気持ちが良かった。



 専務の車の助手席で、運転する専務の横顔を覗き見た。面倒な女だと思われたろうかと不安になる。

「ご迷惑をお掛けしました」

 小さな声での詫びで、帳消しになるような迷惑ではないような気がする。仕事になんて関係はなく、専務にかかわることでもないのだ。

「いいよ、五十嵐さんが落ち着くんなら。別に予定があったわけでもないし」

 ハンドルを切りながら、専務は答えた。

「この先?」

「はい、次の角を左に曲がったマンションです」

 家に到着してしまう。そう思うだけで、緊張した。

「五十嵐さんは、意外に折れない性格だな。頑固じゃないけど、決めた方向がブレない」

 そう?そうなんだろうか?親に勧められるがままに人生を送ろうとしていたことは、自主性のない証拠じゃないだろうか?

「楽しみなんだ、どんな風に変わっていくのか」


 おやすみなさいと車を降りて、走り去るテールランプを見送った。しぶしぶとエレベータに乗り、帰宅する。リビングの灯りは消えていたが、両親が起きていることを知っている。私が遊ぶために遅くなっても、母は必ず私の帰宅時間を知っていた。成人した娘をそんな風に構うことは、母にとって当然のことのようだった。

 自室に入って、チェストからパジャマを出す。洗濯したのは母で、畳んでチェストに収めるのも母だ。脱衣所に置いてあるタオルを選ぶのも母で、色が気に入らないとかタオルの素材がいやだとか、私はそう主張するだけ。自分でなんて、何ひとつしていなかった。いやなら、自分で購入してくれば良いのに。


 与えられるものを、そういうものだと思っていたから、自分と食い違うと苦しいんだ。自分で選んだものがこれなのだと、はじめから主張すれば良いのか。それを認めるかどうかは、相手が決めることなのだ。相手に認められないと言われたときに、意見のすり合わせや決裂になっても、譲るか譲らないかは自分で決めれば良いのだ。

 そんなことに気がつかなかったなんて。自分の欲しいものを与えてくれないと、ただ駄々を捏ねていたなんて。両親の価値観と私の価値観は、同一じゃない。求める幸せの形だって、多分違う。選んで与えてくれようとしているものが、私の希望する形のものじゃなくて当たり前なんだ。

 だから。だから私が次にすべきことは、泣きながら飛び出すことなんかじゃない。こうしたいのだと主張することだ。考えてみれば宅建の資格の勉強だって、自分で決めたことじゃないか。そして、不機嫌な顔をされながら、学校に通い続けているじゃないか。

 浴室で、シャワーを顔に浴びる。翌日の仕事で、浮腫んだ顔を客に見せてはならない

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