もう、たくさんだ

 私が手がかかるから、気にしてくれているのだろうか。それとも。期待とそれを打ち消す気持ちがないまぜになって、胸が痛い。勉強は手につかず、ぼんやりと頬杖を着く。

「真弓、寛子ちゃんから電話よ」

 母は電話の子機を私に手渡し、机の上を見て溜息を吐いた。そんなものを学ぶよりも必要なことはあるだろうと、多分大きな声で言いたいに違いない。

 罪のない長電話は、おしゃれの話半分と最近の遊びについてだ。もう踊りに行くのは旬じゃないとか、最近は肩パッド薄くなったよねとか、そんな類のことばかり。友美の結婚祝いはどうするのなんて話になって、話題は恋愛に移る。


「寛子、彼氏できた?」

『うーん、微妙なとこ。絞り込み中って感じかな。真弓はお見合い?』

「もう、それはやだ」

『でも、意外に出会いって少なくない?お見合いも手じゃない?』

「結婚ありきって、疲れる」

『最終的にはそこじゃない。私は真弓みたいに、お嬢じゃないからさ。自分で見つけなくちゃなんないけど』

 最終的にはそこでも、それに行き着く道程に何かを求めるのは、けして間違っていないと思う。けれども、それは他人に説明すべきことではないし、見合いの末に結婚し、生涯幸福な夫婦だっているのだ。

「……寛子、好きな人、いる?」

 学生みたいな質問に、寛子が返事を飲み込む気配がした。

『どうしたの?』

「片想い、なの」

 はじめて口に出したその言葉は、自分の奥にある感情を引き出した。


 片想いなのだ。報われる望みの薄い片想いだ。専務は私よりずいぶんと歳上で、離婚経験もある。私のことを社員としてしか気にかけてはいない。もしも恋愛関係になっても、多分両親には言えない。良い縁談の末に可愛いお嫁さんになり、曇りのない幸福を望んでいる両親が、賛成なんかするわけがない。離婚経験者で、子供のいる人だなんて。

 専務に恋心なんて、告げても仕方ない。受け入れてくれる筈なんてない。蓋を閉めてしまわなくては、余計に苦しむのは私だ。私だけを気に留めてくれるなんて、思い上がりだ。だって彼には、私を管理する義務と責任があるもの。だから、これ以上この感情を育ててはならないのだ。

 片想いだと口に出した瞬間から、封じ込めようともしていなかった感情を、自分の中で抑制が必要なものだと決めつけはじめたのは、傷つきたくないからだと思う。高すぎる壁を乗り越える力はなく、よじ登る中途で下に落ちたときのショックを思う。

 専務から見た私は、まだ親の庇護の下にある世間知らずのお嬢ちゃんだろう。だから卵から出たヒヨコなんて喩えを使ったのだ。

 恋にしてはいけない、相手の気持ちを求めてはだめ。ただ私を私と見てもらうだけで、満足しなくては。そう思えば思うほど、身体の中で奇妙な焦燥感が膨れ上がる。



 片桐さんの話が再燃したのは、何故だったのだろう。仲人さんから来た連絡は、もう一度改めておつきあいしてみたいというような内容だった、らしい。らしいという言葉を使うのは、私が直接聞いたわけではなく、母がすぐに返事をしてしまったからだ。もしかすると、家同士だけでそんな根回しを続けていたのかも知れない。ちょっと時間を置きましょうとか何とか。

 確かに決まった相手がいるわけではなく、同じところに勤め続けているし、夜遊びは前年より少なくなっている。けれど、いくら条件が良かろうが私の時間があろうが、家の中だけの都合で結婚相手を探している人となんて、もうおつきあいしたくないのだ。

 片桐さん本人は、私にもう一度話が来ていることを、知っているのだろうか。傷つけられたエリートのプライドを、何かで取り返したいと思っているのかも知れない。

「いやだって言ったでしょう!」

「お仲人さんの顔を、何度も潰すわけには……」

 そんなこと、私は知らない。



 自分が世間を見渡せるようになってから、だけれど、その頃の両親の立場や考え方の見当はつく。あの当座にバタバタと傾き、不渡りやら暴力団絡みやらでトラブルになった会社は多い。父から見れば河埜不動産もそれと同レベルの会社で、経営状態を確認するまでもなく危険な場所だったのだろう。何不自由なく育ててきた娘をそんな渦中に放り込みたい筈はなく、意地にさえならなければ安泰を約束される場所を拒否することなど、理に適わないことであったろう。まして適齢期少し前で、自分の価値をより高く見せられる時期にこそ、可愛がられる幸福を味あわせたかったのだと思う。尤も、バブル経済が破綻しきる前に先手を打った河埜不動産は、逆に基盤を固める絶好の時期であったけれども。

 母もまた然りだ。頑固でも真面目な父と結婚して、金銭的な苦労もせず奥様然と生活できることは、家計のためにパートだと走り回る友人たちに優越感を抱くものだったに違いない。自分がそれに満足しているから、娘にはそれ以上のものを与えようとしていたのだ。

 娘がそれ以外のことを考えるなんて、思いもしないで。


「片桐さんはね、水に流してもう一度はじめから、と言ってくださってるのよ」

「そんな筈、ないじゃない。肝心の本人からは、何も言ってきていないでしょう」

 言ってくるわけがないじゃないの。彼の計画を踏みつけプライドを蹴りつけた私に、あのエリートが執着する理由がない。家同士と仲人だけの話は、本人の与り知らぬところで希望通りに先に進めようとしている。

「ご本人も、真弓が希望するのならって……」

「希望しないから断ったんでしょう!」

 声を荒らげても、結託したオトナ同士の声は自信を持って言う。

「お互いに過不足のない相手なんて、そうそう見つかるものじゃないのよ。いちどふたりだけで会わせましょうって、先様も仰ってるし」

「いつまでいい気になってるんだ、世間も知らないくせに!」

 母の声に、父が被せる。もう、たくさんだ。



 家を飛び出して行く先は、なかった。お嬢さん短大からの友人たちの価値観は、私の両親と似ている。似たような価値観の中、似たような育ち方をしてきているのだから、多少のズレはあっても基本が同じだ。社会に出てからできた知り合いで、プライベートな相談を持ちかけられる人なんて、いない。唯一そんな話のできそうな寛子は、まだ帰宅していなかった。まだ携帯電話は普及しておらず、電話ボックスの中で溜息を吐いた。

 帰宅しても、冷静な話なんてできる筈がない。何故わかってくれようともしないんだろう。


 とぼとぼと夜道を歩く。不景気は本格化しておらず、夜の十時過ぎに遊びに繰り出す男女が、駅の方向に向かうのを見た。あれが楽しかったんだけどな、どこからどう変わったんだろう。他の女の子より一クラス上のおしゃれをして下僕めいた男の子にちやほやされ、流行の気取ったお店でお喋りして。つい最近までのことなのに、それがどう楽しかったのか思い出せない。

 社会に出たのが発端なのだろうか。あのまま家の中で、親の示した生き方をしたほうが幸せなんだろうか。生活も感情も相手に依存して、自分の考えも成長も、その尺に合った生き方をすれば、楽なのかも知れない。

 会社まで行ってしまったのは、行き先に困ったからに他ならない。定期券がバッグに入っていたので、一番行き易い場所だ。家出したことなんてないし、ひとりでどこかに泊まったこともない。初夏過ぎで気温に問題がないとは言え、夜通しウロウロしているわけにも行かず、せめて両親が寝静まってから帰ろうと思ったのだ。独立も自立もしていない情けなさは、遅くに訪れた反抗期に似ていた。


「あれ? その影は五十嵐さん?」

 後ろから突然声をかけられて、飛び上がりそうになった。本社の灯りも消えていたので、当然専務だっていない筈だったのに。

「いらしたんですか?」

 驚いて声を出してしまってから、自分の服装に気がついた。腹立ち紛れに飛び出したから、シャツとジーンズにスニーカーで、髪も後ろで結んだまま。飾り立てていない自分を他人に見せるのは、久しぶりだ。

「いや。ちょっとラーメン食べて、その帰り。俺の家、ここの裏手だからさ」

 社長宅に住んでいないことは知っていたけれど、会社からそんなに近くに住んでいるとは思わなかった。

「仕事帰りじゃないでしょ? 本社に何か用だった?」

「いえ、たまたまです」

 会社まで来てしまった意味が、その時にやっと自分で理解できた。



 会いたかったんだ、この人に。間違っていないと肯定されて、よく頑張っていると褒められるために、会いたかったんだ。私が揺らがぬように後ろから強く支えてくれるのは、この人の肯定の言葉だ。

「たまたまって、こんなところでたまたま、なんてないでしょう」

 曖昧な微笑の専務に返したのは言葉じゃなくて、無言で掴んだシャツの袖だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る