見ててくれなくちゃ、いやです

「今日、学校の日?」

 定時前に専務に呼び止められて、首を横に振る。

「じゃ、制服のままでいいから、ちょっと来て」

 社内の人に聞かせたくない話の時、専務は会社の裏の喫茶店を使うことが多い。会議室では前を通った人に話が聞こえてしまうし、専務よりも年上の叩き上げの社員たちに、あまり偉そうな顔を見せたくなかったのだと思う。何か叱られるような重大な失敗をしたろうか、それとも父がまた何か言ったのだろうか。


「コーヒーでいい?」

 向かい側に掛けた専務は、ポケットから紙を一枚取り出した。それを広げながら、私の顔を見る。

「最近、どう?」

「あんまり、変わりません。人間って難しいですね」

 一度張り付いてしまった「嫌な女」のイメージは、喋らなくなるくらいじゃ払拭されない。苦痛になってしまった一緒の昼食は、その時間を社外に出ることで遣り過ごした。仕事自体の連絡事項が滞るわけではないので、表面的には何事もないかのようだけれど、私的な会話にはまったく入れない。

 専務が広げた紙には、本社の事務員たちの名前と、その下にメインになっている仕事が書き出されていた。

「五十嵐さんは基本的に、ワープロとファイリングだよね」

「あと、営業さんたちの経費の纏めです」

 それ以外にも雑多な仕事はあるが、営業の補佐はイレギュラーな業務だ。

「休みは、土日じゃないと不都合?」

 何を言われているのか、咄嗟に判断はできなかった。

「店舗のほうに、行けないかな」

「店舗ですか?」

 いくつかある店舗は、それぞれ沿線駅前だ。店舗と本社は労働条件が異なるので、通常移動はされない。業務自体も事務仕事と接客が半々に行われるのだ。私が本社で執ってきた事務とはまったく違う。


 本社のある駅の駅前支店で、ベテランがひとり辞めるらしい。店舗のほうは残業が少ないのでパートも何人か入っているのだが、パートさんは入れ替わりが激しい。

「五十嵐さんは学校に行く都合もあるから、残業がない場所のほうがいいでしょ?宅建もね、最近難しくなってるから」

 店舗に移動すれば、あの居心地の悪さからは開放される。土日に休みでなければ友達とショッピングは難しくても、夕方から遊びに行くことは構わないし、シフトで月に一度週末を休みにできることは知っている。そう考えてから、本社での自分の席を思い出した。背中に専務の視線のない場所で、同じように仕事ができるだろうか。

「いやです」

 止める間もなく、私の口から拒否の言葉が飛び出した。

「いやです。店舗には、専務がいないじゃないですか」

 指針にするものが見えなくなる恐怖と、単純に顔を見て褒めてもらいたいだけの恋は、言葉にすれば駄々を捏ねる幼児のようだ。


 専務は少しだけ、困った顔をした。

「移動すれば、五十嵐さんと話が合う人がいるかも知れないよ。本社みたいに現場の人間と事務ばっかりじゃないし、客との対応があるから、他人のことばっかり気にしてられないから」

 つまり、専務は私を苦しい状態から逃そうとしてくれたのか。それに今勉強している内容は、確かに本社事務というより、店舗業務に向いている物かも知れない。けれど、専務の席はそこにはないのだ。

「私は本社では、必要ありませんか」

 この問いは、狡い。こんな風に問えば、専務は必要でないとは言えないじゃないか。

「……困ったね。そう来られるとは思わなかった」

 必死な顔をしていたと思う。


「実は、いろいろ検討はしたんだよ。だけど五十嵐さんの仕事は、前は内勤が手分けしてやってた仕事だしね。確かに最近、書類はなんでもワープロでって感じになってるから、営業の補佐ばっかり仕事が増えてるのは認めてるんだ。ただ、今は仕事が減ってきてるだろう? これからもっと減る。そうすると、代わりができる人がいる仕事は、ますます風当たりが強くなるんだ」

 代わりが利く仕事なのは、確かだ。ワープロ検定も、受かったのは私だけじゃない。図面を折りたたむことも、客にお茶出しをすることも、別に珍しい仕事じゃない。熟練したって、多少スピードが上がるだけのものだ。

「だからね、これは五十嵐さんの仕事の幅を広げるチャンスだと」

 でも、そこに専務はいない。背中に専務の視線はない。

「専務の下で仕事させてください」

 でなければ、河埜不動産に居続ける理由が見いだせない。


 ふう、と専務は溜息を吐いた。

「企業は、ひとりが認めればいいってわけに行かないでしょう。それに、今まで店舗から本社に持ってきてた仕事を店舗で捌けるようになれば、もっと効率よく動けるんだ。今までいた人は古くて知識もあったけど、本社と店舗の垣根意識が強くて、そこを変えるのが難しかった。五十嵐さんなら、できると思う」

 最後の一言だけ、少々心が惹かれる。けれど、たとえ私がそう努力しても、認めて褒めて欲しい人が、後ろにはいないのだ。そんな不安な状態で、新しいことなんてはじめられない。

「専務がいなければ、いやです」

 頭を横に振る。大きな企業ならば、辞令一枚で否応ナシに移動になるところで、入って一年少々の新入社員が我儘なんて言えない。自分の為にも会社の為にも、今の専務の提案は良いことなのだと理解はしても、気持ちが納得しない。

「……卵から孵ったばかりのヒヨコが」

「専務に親鳥の役割を、求めてるわけじゃないんです」

 インプリンティングなんかじゃない。専務の庇護が欲しいわけじゃなくて、ただ認められたい。腰掛で楽しいことだけを求めていた私が、専務の望むように育って、社会の中に根を張るのだと。


「あの支店は、本社のお膝元だっていうんで、他の支店よりも強化しておく必要があるんだ。五十嵐さんが行ってくれれば、俺も安心できるんだけど」

 会社のトップにここまで言わせて、我を通すことは我儘に過ぎる行為だ。社命の一言で移動させるのは簡単なのに、専務は私の意向をすりあわせようとしているのだから。

「でも、専務がいません」

 口をへの字に結んで、私はそれを繰り返した。半分受け入れた移動を納得したくない自分の為に、口に出せる言葉はそれだけだった。


「マメに顔を出すようにするから。考えてくれ、な?」

 テーブルの向かい側から、専務の手が私の額を押す。

「やる気と底力を頼りにしてるんだ。五十嵐さんを一番買ってるのは、俺だよ」

 そんな言葉は、舌先三寸で消えてしまうのかも知れない。同じ会社の中で、同じ駅を使うのだ。地球の裏に行くわけじゃない。専務は商談で外に出ることも多かった。常に後ろにいたんじゃない。

 自分に言い聞かせる言葉を用意しながら、もう自分が移動するのを承諾している。

「ちゃんと、見ててくれなくちゃ、いやです」

 半べそで、専務の顔を見る。

「週に一回は、顔を見せてくれなかったら、いやです」

 自分の感情に手一杯で、押し出した言葉の意味は後回しだ。わかったわかったと専務は笑い、それでもその日のうちに、私の小さな転勤の話は纏まった。



 馴れないカウンター業務でヘトヘトになりながら、自分が接客を仕事とすることに、抵抗がないことを知る。事務仕事のみで閉塞された空間よりも、不特定多数と接するほうが遥かに気楽であることに驚いた。ひとつのひっかかりに気を揉んでいると次の接客に影響が出てしまうので、自分の頭を強制的に切り替えることが必要になり、気は遣うがあとに引かない。適性は、自分で動いてみないと判断できない。

 本社に依頼していたちょっとしたチラシや間取り図は、私がその場で作れる分だけ打ち合わせ時間が短くなる。支店内の業務に馴染むのには時間が必要だけれど、男の人以外はパートさんばかりで、責任は重くなった。


 約束通り、専務は週に一度ずつ顔を覗かせた。上司に店舗の様子を訊いていることもあれば、パートさんに差し入れを持って来ることもある。そして私に「やってるか」と確認していく。頷くだけではなく、何か提案したい。それが原動力になり仕事自体への真剣さは増すのだが、物足りない。もっと話しかけられたくて、もっと見て欲しくて。

「ああ、今日は五十嵐さんに用事があって来たんだ。彼女、残業ないよね?」

「支店のことで何か?」

「いやいや、まあご機嫌伺いってとこだ」

 そう言って専務が仕事帰りの私を誘ってくれたとき、私はずいぶん嬉しかったと思う。五月の半ば過ぎのことだ。小さなイタリアンレストランに連れて行かれ、向かい合わせに座った。急激に悪くなった景気に人々はまだ順応せず、浮かれて踊っていたディスコは閉鎖されることが増えても、バブル期の高給を求めて転職する人は、まだ多かった。


「支店業務、どう? いやになったり愚痴が溜まったりしてない?」

「まだ役には立ててない気がするんですけど」

「移動して一ヶ月やそこらで、何かしろってほうが無茶だ。引継ぎが終わったとこだろ?」

 専務の目は優しかった。

「職種の約束が違うって、お父さんに叱られなかった?」

「父は今、それどころじゃないみたいです。難しい顔をして帰ってきて、新聞ばっかり読んでます」

 これは本当のことで、縁談の話も滅多に口にしなくなった。何か仕事上でトラブルを抱えていたのかも知れないが、家庭でそんな話をする人ではなく、そういう意味では職業人であるのだ。


 専務にひとつだけ、質問はあった。約束を守ってマメに顔を出してくれる専務は、本当は私を面倒がっているのではないだろうか。

「こんな風に、社員ひとりひとりの意向を気にかけて、疲れませんか」

 そんなにヒマな人じゃない。少なくとも社内外の動きをすべて把握する要で、社長の代行もしている筈だ。

「いや、別に全員を気にかけてるわけでも……」

 専務は言葉を濁して、斜め上に視線を走らせた。

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