孤立する

 必死で仕事を覚えることが、女子社員の反感を買うなんて想像もしていなかった。河合さんのいなくなった社内は、取り纏められるような人材はいなくて、女の子たちは一並びだ。同じように仕事をして、お茶汲みも当番制で、自分の担当の仕事以外に手を出そうとしない。その中で、自分がかかわること以外の情報にまで耳を済ませて、他人の連絡事項まで覚えている私は、浮き上がっていった。

「ねえ、並木建設の物件の件って……」

「あ、それ遠藤さんの物件です。地主さんからの条件と折り合いがついてない筈ですけど」

「その件その件。何でも知ってるね、五十嵐さん」

「電話でそんな話をしてたのを、聞いただけです」

 得意になったわけじゃなくても、他の人が持っていない情報を口に出せば、それは得意げに聞こえるものだと気がつきもせず、何度か似たような会話があった。そして、宅地建物取引主任者の資格を取ろうと思うと、昼休みに話した時の同僚たちの顔に浮かんだ表情に、気がつきもしなかった。


「何あれ。できる女ぶっちゃって」

「お嬢さんの腰掛の筈だったのにね。結婚退職するんじゃなかったの?」

「ああ、やめたって言ってたね。大方、断られたんじゃない?」

「断られて自棄になって、仕事に生きる決意でもしたのかな」

「遊んでるだけの、金遣いの荒い娘はいやだって言われたんじゃないのー?」

 ロッカールームから漏れる会話は、私に聞かせるためかも知れない。自分と異質のものに、容赦のない女は多い。女ばかりの短大時代、おしゃれに興味がなくて成績優秀なクラスメイトは、やはり揶揄の対象だった。男に相手にされないから、勉強ばかりしているのだと嘲笑った記憶がある。


 悪いことは、してない。専務は喜んで、励ましてくれたじゃないか。そう自分を励ましても、疎外された憂鬱は消えない。家に帰ることも憂鬱で、会社でも疎外されたら、私には行き場所がない。考えることもいやで、同僚とお喋りする時間を短くするために、ますます仕事にのめりこんでいく。八方ふさがりの気分の中、時々専務が私の机の上を覗き込む。

「あ、店舗に置く間取り図のレイアウト、変えたんだね。そっちのほうが見やすい」

 そんな言葉だけで、鬱屈した時間が報われてしまう。専務が褒めてくれるのなら、社内の女子社員を敵に回しても、良いとさえ思った。


 お弁当を会議室で広げようとすると、同僚たちが外食すると言う。

「あれ、聞いてなかった? 新しいイタリアンができたから、みんなで行こうって。一緒に行こう?」

 気の良い女の子が、慌てて私を誘おうとする。ひねくれた見方をすれば、相談したときにいた誰かが、わざと私に伝えることを省いたのかも知れない。もちろん、悪意じゃなくて純粋に忘れたのかも知れないけれど。

「ん、朝に買って来ちゃったから、いいです。行ってらっしゃい」

 女子社員が楽しそうにざわめきながら、会社から出て行く声を聞きながら、会議室のテレビを点けた。大丈夫、お昼ごはんだけの話じゃないの。仲良しごっこをするために会社に来てるんじゃないのよ、仕事に来てるの。そう自分に言い聞かせながら。



 目が疲れた。帰りたい。でも、帰れない。

 明らかに当日中にこなせない量のワープロ清書を渡されたのは、昼過ぎだった。社内にワープロが一台しかないわけではなく、急ぎとはいえ原稿は何日か前からあった筈だ。渡された人が故意に遅らせたのだとは思いたくないけれど、忘れていたのか緊迫感がなかったのか、とにかく営業さんが「まだか」と確認した時に、それは手を着けられていなかった。

「五十嵐さんならできるよね。打つの早いし、レイアウト得意だし」

「この量はちょっと……難しいと思いますけど」

「今、誰も手が空いてないから。お願い!」

 押し付けられたのだとは思っても、孤立しつつある私に反論の余地はなかった。


 目薬の世話になりながら、モニターに向かい続ける。7時、8時と社内から人間が減っていき、その仕事を出した営業すら、自分がいても手伝えないからと帰ってしまった。10時近くなり、社内には私ひとりが残る。施錠の手順は知っているし、何度かその時間まで残っていたことはある。ただ、ひとりきりになってしまったことははじめてで、しんとした社内が心細い。

 帰っちゃいたい。なんで誰も手伝ってくれなかったんだろう。そんなに嫌われてしまったのだろうか。泣きたい気分で残り文章2枚程度だと見当をつけたころ、入口のドアが開いた。裏口を施錠していなかったので、空き巣でも入ったのかとビクビクして顔を上げると、そこにはほろ酔いの専務が立っていた。


「あれー? 五十嵐さん、最後? 女の子が、こんな時間まで」

 力の抜けた言葉に安心した分、不平がこぼれた。

「明日の朝必要なものが、午後になってから来たんです。誰も手伝ってくれなくて、お茶当番くらい手伝ってくれてもいいのに、お客様だからってお茶の用意までしなくちゃならなくて、必要だって言ってた松田さんまで帰っちゃって、打ち終わったら30部コピーして袋綴じしなくちゃならないのに」

 言っているうちに自分が可哀相になって、涙がこぼれそうになった。専務がお酒なんか飲んでいる間、私はワープロに向かって目薬を差していたのだ。夕食どころか3時の休憩も摂らずに、仕事だけをして。一生懸命仕事をすれば他の人に追いつくのだと思っていたのに、却って嫌われてしまったじゃないか。専務が褒めて煽ったから、頑張って仕事してたのに。

「私に仕事を回した人まで帰っちゃって、手が空いてないとか言いながら、今日はフラワーアレンジメント習いに行くとかって」

 一度口に出してしまえば、五月雨のように止まらない愚痴になる。

「いっくら私が気に入らないからって、あんまりじゃないですか」

 そう言ってしまったら、本当に涙がこぼれた。


 黙って聞いていた専務が会社を出て行ったのは、直後だ。口に出してしまったことで感情が揺れたまま、半べそで続きを打ち、プリントアウトしたもののチェックをした。他人の目で見直すことはできないから、慎重になるぶん時間もかかる。入口のドアが再度開いたのは、自分で赤鉛筆を入れた誤字とパンチミスを修正している時だった。

 コンビニエンスストアのビニール袋の中から、おにぎりとゼリーが出てくる。

「監督しきれてなくて、悪かったな。とりあえず、食べなさい。袋綴じは俺がやっとくから、それが終わったら帰っていい」

「最後まで、ちゃんと終わらせます」

「いいから。こんな時間まで、よく頑張った。文句も言いたくなるよな」

 化粧はもう剥げてしまっているし、目の下には疲れの隈が浮いているだろう。

「私が引き受けた仕事だから、仕上げるところまで見なくちゃ」


 まったく、と専務が顔に笑みを浮かべた。

「そうやって頑張っちゃうから、こっちも期待したくなるんだよな」

 頭の上に置かれた手は、優しい。

「でも、なんだか女の子同士で浮いちゃってて。要領が悪いんです」

「河合さんがいなくなってから、確かにバランスは悪くなってて、俺も気にしてた。一番当たりやすいところに皺寄せが行ってるんだな。俺の監督が悪かった」

 一緒に半紙を切って袋綴じ作業をしながら、専務は私に頭を下げた。

「五十嵐さんが素直に吸収してくれるから、俺はすごく嬉しい。だから、このまま伸びていってくれ」

 そして一呼吸した。

「五十嵐さんの縁談がなくなって、申し訳ないけどほっとしたんだ。これでしばらく、いなくならないなあと思って」

 それは社員としてだろうか、それとも五十嵐真弓本人に向けての言葉なのだろうか。専務はそれ以上言葉を重ねず、私は自分自身に期待することを固く戒めた。



「それ、五十嵐さんにやらせるのは早いでしょ。彼女はまだ、決算処理なんてはじめてなんだよ」

「でも、これはずっと河合さんの仕事だったんです。他の人だって未経験です」

「横で見てた人たちのほうが、理解は早いはずだよ。単純な帳簿つけとかを五十嵐さんに回して、税理士と連絡する人は、別に作って」

「そうしたら、教える手間と覚える手間のダブルじゃないですか。五十嵐さんはワープロと雑用がメインだから、時間の融通が利くと思いますけど」

 私より何年か先輩の女子社員が、私の後ろの専務の席で私の名前を出す。振り向こうにも、呼ばれているわけじゃないから参加できない。3月末の決算のため、経理担当はバタバタしていた。経理担当、総務担当、技術担当と大雑把な仕事の振り分けではあったが、営業補佐がメインになっているのは私だけで、確かに決まった仕事が少ないのは私だ。けれどルーティンではないだけで、ヒマなわけじゃない。手書きの資料は消えつつあり、取引先とのやりとりの文章ですらワープロ清書をしているのに、営業さんたちはキーボードに向かおうとしない。それだけでも結構な量があるのに、馴れてくるに従って増えていったファイリングや客先との軽い連絡で、ずいぶん時間のやりくりは窮屈だ。


「ひとり抜けた穴は、確かに大きい。ただ今の案だと、五十嵐さんの負担だけが増える。彼女もヒマじゃないよ」

「五十嵐さんがやりますやりますって引き受けるから、男の人が自分のことを自分で片付けなくなったんじゃないですか。自業自得ですよ」

「そうじゃないだろう。彼女が入るまで営業補佐は全員でやっていたのに、まかせっきりになったから、目立つだけだ。実際俺もワープロは打てないし、ファイルの置き場所も河合さんが決めてたわけだし」

「じゃあ、もうひとり人間を増やしてください。みんな、いっぱいいっぱいなんです」

「今から増やしたって、役には立たないだろう。それに今現在、求人の予定はない」

 専務の席で、少々沈黙の時間があった。

「じゃあ、こうしよう。五十嵐さんの仕事を他の人間で分担して、五十嵐さんは決算の資料専任になる」

「それじゃ、却って経理の負担が増えます!」

「ほら、五十嵐さんが忙しいのはわかってるんじゃないか。言ってることが矛盾してないか?」

 悔しそうに自分の席に戻ろうとした先輩が私に向けた視線は、敵意が浮かんでいた。


「好きで遅くまで仕事してんじゃない。みんながバタバタ帰り支度してても、平気でお茶当番代わったりして」

「専務にイイ顔して、ご機嫌取ってんじゃないの? すぐ結婚退職するはずだったのに、残ってるから」

「ああ、縁談が断られたからね」

 縁談はあちらから断られたというのが定説になってしまい、私の素行が悪いからだと尾鰭がついた。

「いい子ぶって、必死になってるもんね」

「専務も専務よ。お気に入りにして、五十嵐さんの都合ばっかり」

「奥さんに逃げられたから、目の前で可愛い子ぶってる女に目が眩んでんのよ」

 これはもう、私に聞かせるためのワルクチだ。同じ会議室で弁当を食べるために、給湯室でお茶を淹れていた私の。


 後にして思えば、仕事のレベルが下だった筈の私が、いつの間にか先輩たちに追いついて、それ以上のことをしようとするのが気に喰わなかったのだと理解できる。横並びで仲良く動いてきた先輩たちにとって、ひとりだけ頭を出すのは和を乱すように見えたのだろう。河合さんは巧くそれを摺り抜けて、逆に意見を統合するために動く器量があった。私はそんなに器用じゃない。

 会議室で弁当を広げることは、できなかった。聞こえなかったことにして、ひとりでハンバーガーショップに向かう。謂れのない理由で、嫌われるのは辛い。砂でも噛むようにフライドポテトを齧り、頭を抱える。

 たくさんの仕事をこなして新しいことを覚えれば、専務は褒めてくれる。けれど、このまま社内の人間に反感を買い続けることに耐えるほど、私は丈夫にはできていない。


 イジメなんて子供じみた行為は、別になかった。ひそひそ話と相手にされていない感覚が、私を追い詰めていく。仕事が溢れそうになっても手伝いを求めることができず、逆に他の人に手伝いを申し出ることもできない。それはますます孤立を招き、決算が終わる頃には、ひとりの昼食が癖になっていた。

 ファイル折した図面を会議室で纏めていると、専務が扉を開けた。

「ごめん、ここ空けてくれる?お客さんが入るから」

 テーブルいっぱいに広げた図面の持って行き場に困り、両腕に抱える。多分分業すれば、30分もかからない分量だ。以前ならば、お喋りしながら数人で片付けていたもの。

「あとで、他の人に手伝ってもらって。夕方まで、ここ借りるから」

 A全の図面を事務机で折ることは難しいから、会議室の広いテーブルは重要だ。けれど。

「席で折ります。みなさん忙しいですし」

 他の人に自分から協力を仰ぐことが難しいなら、自分自身で頼まれた時間に間に合わせなくてはならない。協力を仰ぐことが難しいのだと、口には出せない。

「そんなこと、ないでしょ? 今ややこしい仕事は少ないから、手の空いている人は……」

「いないんです」

 頑なな声だと、自分でも思った。



 来客が帰り、会議室でもう一度お店を広げた時、専務が入ってきて椅子に腰掛けた。

「最近、何かあったの?」

 図面に下敷きを当てて折り返しながら、何もないですよと口先で答える。実際何もないのだ。ただ自分とまわりが馴染めていないだけ。入社当時も多少浮き上がった存在ではあったし、受け入れられている期間は短かった。ただ受け入れられた期間があったからこそ、浮き上がっている現在が辛い。すぐに辞めるつもりだった時は、潤沢な小遣いを手に入れるための手段だと割り切れもしたが、腰を据える気になった現在はきつい。

「大体、これは技術の女の子がやってたことじゃないの? なんで五十嵐さんが」

「すみません、営業さんが私に持ってきたので」

「怒ってるんじゃないんだよ。五十嵐さんができるんなら、もちろんやればいい」

 実は翌朝までに揃えなくてはならない資料もあり、遅くなる予定だ。けれどこの場で、それを口に出すことはできない。

「大丈夫です。別に何もないですから」

 それならいいけどと言いながら、専務は私より手早く図面を折り畳んで、しばらくその場にいた。会議室でぽつぽつと専務が話す内容は、学生時代にバックパックを背負ってユースホステルを泊まり歩いた、みたいな話だ。その旅行は、カラフルなペンションに泊まってテニスラケットを振り回すことよりも楽しそうな気がした。


「なんだ、みんな帰っちゃったじゃないか。本当に忙しいって断られたの?」

 詰問の調子で専務が私にそう言ったのは、まだ7時前だ。

「いえ、忙しそうだって勝手に思ってました」

 俯いて、そう答える。誰にも確認していないし、実は忙しそうだとも思っていなかった。

「五十嵐さんが一生懸命仕事してくれるのは、嬉しいし助かるよ。だけど、ひとりで背負い込むのはおかしい」

 席に座ったまま、腕を組んだ専務に頭を下げる。社内には何人か残っているし、女子社員が空になっただけで、特別に遅いわけじゃない。

「もうじき、終わらせますから。私も帰ります」

「そういう問題じゃないでしょ」

 専務は呆れたように溜息を吐く。ちょっとおいでと連れて行かれた会議室で、専務は私の横に座った。

「女の子たち、上手くいってないの? どうも五十嵐さんが、ぎくしゃくして見えるんだけど」

「そんなこと、ありません。仲良くしてます」

 そう言った瞬間、思いがけなく声が震えた。感情にしていた蓋が、ぽんと抜けてしまったみたいに、自分が可哀相になった。

「どうした?」

 再度問われて、思わず自分の口を塞ぐ。おかしいと思われてしまう、何か言わなくてはと思いながら、言葉が出ない。

「何か女同士のトラブルか? 言いたくなければ……」

「専務のせいです」

 お門違いの恨み言は、専務を面喰わせるのには充分だったと思う。


「専務が期待してるって言うから、頑張ったんです。それが他の人に嫌われた原因なんだから、専務のせいです」

 これも、あとから考えればとんだ言いがかりだ。自分が上手く立ち回れなかっただけで、同じようなことをしても、嫌われない人は嫌われない。知識を腹の中に貯めずに、知っていることを全部口に出してしまえば、自分が知らないことを知っていると不愉快に思う人だっていると、私は知らなかった。

 専務はとても困った顔で私を見て、それから溜息を吐いた。

「ああ、でも期待しているのは本当なんだよ。応えてくれる五十嵐さんが、本当に大事な社員だと思ってるし」

 社員として大事なだけですか。本当は、そう聞きたい。

「事情がよくわかんなくて、ごめんな。女の子同士でも、仕事の上でいろいろあるよな。でも頑張ってるからって嫌うような人間は、うちの社員の中にはいないと思う。何かの誤解だから、ちょっと我慢してみてよ」

 口をへの字に曲げながら、専務の話を聞く。河合さんがいなくなってからのバランスが悪いのは本当で、私以外の人たちも、遊んでいるわけじゃない。



 4月に入って、宅地建物取引主任者の試験のための学校に通いはじめた。会社以外だけれど、仕事として同じ目的を持った人たちの中で、私も自由に呼吸することができる。あらかじめ残業のできない日を提示することによって、仕事自体の組み立ても変わってくる。目的がはっきりすることで生活にハリが出るのは確かで、同僚たちの視線よりも学校のスケジュールが大切だ。そのために父との対立が冷たく続いてはいたが、無駄な見合いの話を持ってこられるより遥かにマシだった。

 そして、その頃から河埜不動産の仕事も、目に見えて減りだしていた。未曾有の好景気に慣れていた私たちは、それは一時的な底なのだろうと思っていたが、あらかじめ対策を考えていた河埜不動産が生き延びたのは当然で、好景気に浮かれて手を広げすぎた不動産業者は、傾き始めていた。

 男の子たちはもう、下僕に甘んじるような機嫌の取り方をしなくなってきていたし、分不相応なブランドを身につけるより、チープ・シックと呼ばれる安価でセンスの良いものを組み合わせる服装が、雑誌に登場しはじめた。

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